第十章 崩壊する王都
春が深まるにつれ、北からの魔物の動きが活発になった。
アルヴェインは毎朝砦へ向かい、夜遅くに戻る日が続いた。
辺境軍は懸命に対応しているが、消耗が激しいとロカから聞いた。
村でも夜間の見張りが強化され、子供たちは日暮れ前に家へ入るよう言い渡されている。
私は毎日、できる限り村の周囲を歩いた。
力を流しながら、瘴気が濃くなっているところを丁寧に薄めていく。
目に見えない作業だが、ドルトが定期的に測定して、確かに効果が出ていると教えてくれた。
「南の方の数値も悪化しています」
ある朝、ドルトが地図を広げながら言った。
「王都から三日の距離にある村で、昨日魔物の目撃情報が出ました。その規模の魔物がその地域に現れるのは、少なくとも五十年ぶりとのこと」
地図の上の赤い印が、着実に南へ伸びていた。
辺境だけの問題ではなくなっている。
王都へと続く道の沿線に、じわじわと危険が広がっていた。
「王都の結界は」
「かなり薄くなっているようです。宮廷魔術師団が補強を試みていますが、そもそもの仕組みが聖女の力を前提としているため、人工的な魔法では代替が難しいと」
私は地図をじっと見た。
王都は、この地図の南の端にある。
遠い。
でも、繋がっている。
そこへドルトのもとに、王都からの早馬が届いた。
いつもの書類の束ではなく、一通の封書だけだった。
封蝋は宮廷魔術師団、クロヴィス・ハルト卿のものだ。
ドルトが読み始めて、顔色が変わった。
「何が書かれていますか」
「……王都の第一結界が、完全に崩壊しました」
部屋の中が、しんとなった。
マリアが息をのむ音がした。
「いつのことですか」
「三日前です。早馬で最速でここに届くまで三日かかった。つまり今この瞬間、王都では」
ドルトが続きを読む。
その目が、さらに険しくなっていく。
「結界崩壊と同時に、王都東の森から大型魔物が複数侵入。騎士団が応戦中だが、市街地にまで被害が及んでいる。市民は避難を始めているが、混乱状態とのこと」
王都に、魔物が入った。
あの大きな街が、今騒乱の中にある。
舞踏会が開かれた大広間も、私が五年間歩いた石畳の道も、今は恐怖の中にあるのだろう。
胸が、重くなった。
「殿下は」
「宮廷内に留まっておられるようです。ただ、精神的に非常に追い詰められているとクロヴィス卿は書いています。連日の混乱で判断力が鈍り、宮廷会議は紛糾するばかりで何も決まらない状態だと」
それは、容易に想像できた。
レオルド殿下は、華やかで見栄えのする局面では力を発揮できる人だ。
けれど、正解のない混乱の中で孤独に判断を下すことは、あの人には向いていない。
「セシリアはどうしています」
声に出してから、なぜそれを聞いたのかわからなかった。
でも、ドルトはすぐに答えた。
「それについても書かれています」
一拍置いた。
「結界崩壊の二日前、セシリア・ベルモン令嬢は王都を離れています。家族の見舞いという名目でしたが、荷物の量が尋常ではなかったと複数の証言があります。事実上の逃亡ではないかと、宮廷内で問題になっているようです」
逃げた。
混乱が深まる前に、自分だけ。
怒りを感じるかと思ったが、そうでもなかった。
哀れだと思った。
野心のために上り詰めようとして、危うくなった途端に逃げ出す。
その判断は、彼女なりの生き方なのかもしれない。
でも、その生き方は孤独だと思った。
「貴族たちは今、どうしていますか」
「皆、責任の擦り合いをしています。クロヴィス卿によれば、宮廷会議で誰一人として具体的な対策を出せず、全員が他者の失策を指摘することに終始しているとのこと。そんな中でクロヴィス卿だけが冷静に状況を分析し、この書をしたためたようです」
ドルトが手紙を折り、机に置いた。
「クロヴィス卿は最後にこう書いています。『リリアーナ・エルトリア令嬢に、この状況を伝えてほしい。ただし、彼女を急かすな。彼女には彼女の意志があり、それは尊重されるべきだ。ただ、知る権利はある』と」
クロヴィス・ハルト卿。
宮廷魔術師団の主席。
舞踏会の夜、遠くから静かにこちらを見ていた白髪の老魔術師の顔が浮かんだ。
あの人は、ずっと何かに気づいていたのかもしれない。
「わかりました」
私は静かに言った。
「少し、一人で考えさせてください」
部屋を出て、村の外れまで歩いた。
かつて呪われた土地と呼ばれていた場所は、今や青々とした草地になっている。
春の風が、草を揺らしていく。
ここが変わったように、辺境も少しずつ変わってきた。
でも王都は今、壊れていっている。
腰を下ろして、草の上に座った。
空を見上げると、白い雲が流れている。
あの雲の向こうに、王都がある。
五年間暮らした街だ。
好きではなかったけれど、嫌いだったわけでもない。
あの街にも、名前も知らない市民が大勢いる。
子供も、老人も、何も悪いことをしていない人たちが。
膝の上に手を置いて、目を閉じた。
体の奥から、力がじわりと流れ出す感覚がある。
今は、この村の周囲に向けているその力を。
遠くへ、届かせることはできるのだろうか。
夕方、アルヴェインが砦から帰ってきた。
私の顔を見て、すぐに何かを察したらしく、そのまま隣に立った。
「王都の話が来たのか」
「はい。結界が崩壊したそうです」
アルヴェインは、しばらく黙っていた。
夕陽が沈んでいく方角を、黙って見ていた。
「どうしたい」
またその問いだ。
いつも彼はそこから始める。
「……正直に言えば、迷っています」
「ああ」
「王都へ戻ることが、今の私には正解だとは思えない。でも、何もしないのも違う気がして」
アルヴェインが私の隣に腰を下ろした。
草地に、大きな体が静かに収まる。
「無理に答えを出さなくていい」
「でも時間は」
「急かされて決めた答えは、たいてい間違える」
それ以上は言わなかった。
ただ、隣にいた。
夕陽が沈んで、空が橙から藍へと変わっていく。
その色の変わり目を、二人で黙って見ていた。
「一つだけ、聞いていいですか」
やがて、私は言った。
「私がここを離れることになったとき、あなたはどう思いますか」
少しの沈黙があった。
「俺の気持ちを聞いてどうする」
「ただ、知りたくて」
アルヴェインが空を見上げたまま、低く言った。
「……行くなとは言えない。あなたの力が必要な場所があるなら、それを俺の都合で縛るつもりはない」
「それは、行ってもいいということですか」
「行かなくてもいいということでもある」
遠回しな言い方だが、その意味はわかった気がした。
どちらを選んでも、この人は受け入れる。
そして、どちらを選んでも、この人は何かを失う。
その重さが、胸にじんわりと広がった。
夜の帳が降りて、最初の星が瞬いた。
北の空の、あの明るい星だ。
初めてこの地に来た夜から、ずっとそこにある。
答えはまだ、出なかった。
でも今夜は、それでいいと思った。
草地の上、二つの人影が、星空の下で静かに並んでいた。




