第八章 迎えの使者
春の気配は、土の匂いから始まった。
雪が解け始め、凍っていた地面が少しずつ柔らかくなる。
村の外れの、かつて呪われた土地と呼ばれていた場所には、今や緑の芽がびっしりと顔を出していた。
ギーさんが毎朝そこへ行って、芽の数を数えるのが習慣になっている。
「今日は昨日より十七本増えとった」
誇らしそうに報告してくれるのが、朝の楽しみになっていた。
私も毎朝、村を一回りするようになっていた。
特に目的があるわけではない。
ただ歩きながら、空気を感じて、力を少しずつ流す。
それが自然と習慣になっていた。
意識してやるというより、呼吸のように、体が自然と動く感じだ。
「リリアーナ様、最近よく歩いていらっしゃいますね」
マリアが洗い物をしながら言う。
「体を動かすと、気持ちがいいから」
「王都にいた頃は、ほとんど外に出なかったのに」
そうだった。
王都では、外を歩くのも行事の一つだった。
誰かに見られることを意識して、姿勢を正して、笑顔を作って歩く。
それが疲れで、いつの間にか外に出ること自体を避けるようになっていた。
ここでは誰も見ていない。
いや、見ていても、それでいい。
使者が来たのは、春の初めの穏やかな午後のことだ。
最初に気づいたのはロカだった。
鍛冶場から出てきた彼が、村の入口の方を指さしながら眉をひそめていた。
「なんか、やたら立派な馬車が来てますよ」
見ると、確かに村に不釣り合いなほど豪華な馬車が止まっていた。
白馬が二頭、王都の紋章が入った深紺の幌。
馬車から降りてきたのは、礼服を着た中年の男性と、護衛らしき兵士が四名だった。
胸が、重くなった。
予感はあった。
アルヴェインが使者が来ると言っていたし、ドルトからも王都が動いていると聞いていた。
それでも、いざ目の前に現れると、体が固くなる。
「リリアーナ・エルトリア侯爵令嬢はおられるか」
男の声が、村の静けさを割った。
威圧的な、よく訓練された声だ。
周囲にいた村人たちが、ざわざわと後ずさる。
私は一歩、前に出た。
「私です」
男が私を見た。
上から下まで、値踏みするように一瞥する。
その目に、敬意はなかった。
「王都宮廷より参りました、外務官のダルタン・グレイと申す。王太子殿下の命により、あなたを王都へお連れするために参りました」
「……お連れする、とは」
「そのままの意味です。国家の緊急事態につき、一刻も早く王都へ戻っていただく必要があります。荷物をまとめてください。今日中に出発します」
今日中、という言葉に、思わず目を見開いた。
「少し待ってください。突然すぎます。話を聞かせていただかないと」
「話す必要はありません。殿下の命令です。それ以上の理由がどこにありますか」
断言する口調だった。
考える余地も、選ぶ余地も与えない声。
体が縮む感覚がした。
王都にいた頃によく感じた、あの感覚だ。
自分の意志が、どこかに押し込められていく感じ。
ここではもうそれを感じなくなっていたのに、この声一つで引き戻されるような気がした。
「私は、婚約を破棄されました。王家との関係は、もうありません」
声が、わずかに震えた。
「そのような話は関係ない。あなたの持つ力が国に必要なのです。個人の感情で国家の問題を左右するのは、貴族の務めに反する」
貴族の務め。
その言葉は、王都でよく使われた言葉だ。
何かを押しつけるとき、断れないようにするとき、決まってその言葉が使われた。
足が、すくみそうになる。
そのとき、後ろから足音がした。
「何の騒ぎだ」
低く、静かな声。
アルヴェインだった。
砦から戻ってきたばかりなのか、まだ鎧をつけたままだ。
日に焼けた顔に、鋭い目が使者を捉えている。
「辺境伯アルヴェイン殿ですか。王都より参りました、ダルタン・グレイと申す。このたびはリリアーナ・エルトリア令嬢を王都へ」
「聞こえた」
アルヴェインが遮った。
それだけで、使者の口が止まる。
アルヴェインはゆっくりと私の前に出た。
大きな体が、私と使者の間に入る。
「彼女はもう、王家の人間ではない」
静かだが、鉄のように固い声だった。
「婚約は正式に破棄されている。王太子自ら、公衆の前で宣言した。それはあなたたちも承知のはずだ」
「しかし国家の緊急事態において」
「関係ない」
再び、遮る。
「婚約を破棄された女性を、都合が悪くなったからと呼び戻す。それが王家のやり方か」
使者のダルタンが、口を引き結んだ。
「辺境伯殿、王命に逆らうおつもりですか」
「逆らっているのではない。筋を通せと言っている。彼女を連れて行きたいなら、まず殿下が直接来て、誠意を持って話すべきだ。使者を寄越して命令口調で今日中に連れて行く、そんなやり方で人が動くと思うなら、王都の感覚は随分と狂っている」
広場が、しんと静まった。
村人たちが息をのんでいるのがわかった。
ダルタンの顔が赤くなった。
怒りなのか、屈辱なのか。
「では、リリアーナ令嬢ご本人のお考えは」
やがて、絞り出すように言った。
私の方を向いた目には、まだ圧がある。
でも今は、アルヴェインがいる。
彼がそこにいるだけで、体の縮む感覚がずいぶん薄れていた。
「今すぐ王都へ戻るつもりはありません」
はっきりと言えた。
震えは、もうなかった。
「国家の問題については、理解しています。しかし私にも意志があります。命令で動く道具ではない。それだけです」
ダルタンが、また口を引き結ぶ。
それから護衛たちと目を合わせて、何かを計るような間があった。
「……殿下にご報告いたします」
結局、それだけ言った。
深々と、しかし不満を隠さない一礼をして、馬車へ戻っていく。
蹄の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
広場に、ほうっという息が広がった。
ティカが私の手を握る。
「かっこよかった、辺境伯様」
ロカが感心したように呟いた。
バルトの奥さんが胸に手を当てている。
私は、アルヴェインの背中を見ていた。
鎧の上から見ても、その肩が広いのがわかる。
何かを守るために作られたような、頼もしい背中だ。
「ありがとうございました」
彼が振り向いた。
「礼はいらない」
「でも、王家を敵に回すかもしれない。それでも」
「元から、王都とは仲がいい方じゃない」
少しだけ、口の端が上がった気がした。
アルヴェインが笑うのを、初めて見た気がして、思わず見つめた。
「怖かったか」
「……少し」
正直に言うと、彼はまた前を向いた。
「次も来る。心の準備をしておけ」
「はい」
それから、小さく付け加えた。
「あなたがいてくれるなら、大丈夫です」
アルヴェインは何も言わなかった。
でも、歩き出す前に一瞬だけ、足が止まった気がした。
春の風が、広場を柔らかく吹き抜けていった。
遠くなった馬車の轍が、泥の道に残っている。
それを踏み越えるように、ティカが走り出した。
私もその後を追いながら、胸の奥がじんわりと温かいのを感じていた。
怖かった。
でも、折れなかった。
それが今日の、私の小さな勝利だった。




