第五章 王都の異変
秋が終わり、最初の霜が降りた朝、ドルトが羊皮紙の束を抱えて宿にやってきた。
机の上に広げられたそれは、王都から届いた報告書の写しだった。
彼は辺境伯の学術顧問という立場から、各地の情報を集める役目も担っているらしい。
眼鏡の奥の目を細め、一枚一枚を指でなぞりながら、独り言のように読み上げていく。
「王都第三区の魔道具工房、先月だけで修理依頼が通常の四倍。原因不明の機能停止が続いているとのこと」
マリアが盆を置きながら、聞き耳を立てている。
私も手を止めて、ドルトの声に耳を向けた。
「農村部では秋の収穫が例年の六割に留まった地域が複数。土の質が変化しているという報告も上がっています。さらに王都近郊では、体調不良を訴える市民が急増。宮廷医師団は疫病の可能性を否定しているものの、原因の特定には至っていない」
一枚めくる。
「加えて、王都東門外の森で、等級外の魔物が出現。騎士団が対処したものの、騎士二名が重傷を負った。王都でこのクラスの魔物が出るのは、記録によれば百二十年ぶりとのこと」
ドルトが顔を上げ、眼鏡の奥でじっと私を見た。
「百二十年前に何があったか、おわかりになりますか」
私は首を振った。
「前回の浄界の聖女が、王都を離れた年です」
静寂が落ちた。
外で子供たちの声がする。
のんびりとした、日常の音だ。
それがひどく遠く感じられた。
「つまり、私がいなくなったから」
「断言はできません。しかし、時期が一致しすぎている」
私は窓の外を見た。
澄んだ青空に、白い雲が流れている。
王都の空は今、どんな色をしているのだろう。
五年間、毎朝繰り返していたあの習慣。
目を閉じて、体の奥から力を引き出して、空気に溶かしていく作業。
あれが王都を守っていたとしたら。
私が去ったことで、あの街が壊れていくとしたら。
「私のせいなの」
声が、思ったより小さかった。
「あなたのせいではありません」
ドルトがきっぱりと言った。
「聖女を婚約破棄して追い出した者たちの問題です。あなたが力を持って生まれたことも、それを誰も気づかなかったことも、あなたの落ち度ではない」
わかっている、と思いたかった。
けれど胸の奥には、じくりとした痛みが残った。
王都の混乱の話は、それから日に日に深刻になっていった。
ドルトのもとへ届く報告書は週を追うごとに量が増え、内容も暗くなっていく。
魔道具の不具合は宮廷にまで及び、重要な通信設備にも影響が出始めたという。
貴族たちの間では原因を巡る憶測が飛び交い、宮廷は連日の会議で紛糾していた。
そんなある夜のことだ。
ドルトが、いつもより渋い顔で宿の扉を叩いた。
手に持った羊皮紙は、他のものより上質な紙に書かれている。
王都の紋章が押されていた。
「これは……」
「宮廷内で広まっている噂の写しです。公式文書ではありませんが、貴族間で既に相当数に知れ渡っているようで」
受け取って読み始めた瞬間、手が止まった。
書かれていたのは、私の名前だった。
エルトリア侯爵令嬢リリアーナが、婚約破棄への恨みから王都に呪いをかけた。
王都の異変は彼女の仕業である。
彼女は古来より伝わる禁術を習得しており、王家への復讐を企てている。
その噂の出処として、名前が挙げられていた。
セシリア・ベルモン男爵令嬢。
「呪い」
声に出したら、笑えてきた。
笑えてきた、というのも変な言い方だが、あまりにも馬鹿げていて、泣く気にもなれなかった。
「禁術なんて、知りませんよ」
「当然です。しかし噂というものは、事実より早く広まります」
ドルトが深いため息をつく。
「王太子殿下は現状打破を急いでおられる。責任の所在を明確にしたい宮廷にとって、あなたは都合のいい的です。婚約を破棄された恨みがある、王都を離れた直後から異変が始まった、それだけで十分な理由になってしまう」
手の中の羊皮紙を、もう一度見つめる。
丁寧な字で書かれた、私への告発文。
書いた人間の顔が、目に浮かんだ。
舞踏会の夜、レオルド殿下の隣で微笑んでいた、あの桃色のドレスの女性。
怒りはあった。
確かにあった。
けれどそれよりも、どこか哀れな気持ちの方が大きかった。
そこまでしなければならない、その焦りは、きっとひどく苦しいものだろうと思って。
「……どうなるんでしょう、王都は」
「このままでは、よくない方向へ進むでしょう。瘴気の増加は続いている。魔物の活動域も、じわじわと王都方面へ広がっています」
ドルトが地図を広げた。
各地の報告に基づいて書き込まれた赤い印が、王都を中心に広がっている。
「手を打たなければなりません。しかし今の宮廷に、それだけの判断力があるかどうか」
私がその話を聞いてから三日後、アルヴェインに呼ばれた。
集会所の奥の部屋、いつもの地図の前に彼は立っていた。
今日はドルトはいない。
二人きりだ。
「王都の話は聞いた」
開口一番、そう言った。
私は頷いた。
「あなたを呪い使いと呼ぶ者がいるそうだな」
その声には、怒りとも呆れとも取れる何かが滲んでいた。
「噂ですから、気にしていません」
嘘ではなかった。
少なくとも、今この瞬間は。
「気にしなくていい」
アルヴェインが言った。
それだけだった。
説明もなく、慰めもなく、ただそれだけ。
でもその「気にしなくていい」という言葉は、どんな長い慰めより真っすぐに届いた。
「ありがとうございます」
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「王都が困っている。あなたが戻れば、状況は改善するかもしれない。それはわかっているか」
わかっていた。
ドルトの話を聞いたときから、ずっと頭の隅にある問いだった。
私が戻れば、王都は助かるかもしれない。
でも私を追い出したのは王都だ。
呪い使いと呼んでいるのも、王都だ。
「……わかっています」
「どうしたいか」
また、その問いだ。
あなたはどうしたいか。
この男はいつも、そこから始める。
私はしばらく床を見ていた。
王都の顔が浮かぶ。
広い大広間。
シャンデリアの光。
レオルド殿下の声。
地味だと、暗いと、役立たずだと言った声。
それから、この村の顔が浮かぶ。
ティカの笑顔。
ギーじいさんの土まみれの手。
マリアの呆れ顔。
そして、この男の灰色の目。
「今は、ここにいたい」
言葉にすると、はっきりした。
「王都のことは心配です。でも今の私には、あそこへ戻る理由がない。戻ったところで、また追い出されるだけかもしれない」
アルヴェインは何も言わなかった。
しばらく黙って、それから短く頷いた。
「わかった」
それ以上は聞かなかった。
詰めることも、急かすことも、責めることもなかった。
窓の外では、風が木の枝を揺らしている。
葉がすっかり落ちた枝が、灰色の空に細く伸びていた。
冬が来る。
辺境の冬は、厳しいと村人たちが言っていた。
けれどなぜか、怖くなかった。
この土地で冬を越えることが、今の私には自然に思えた。
その夜、一人で薬草を仕分けながら、王都のことを考えた。
レオルド殿下は今頃、何をしているだろう。
セシリアは、どんな顔で私の名前を広めているだろう。
怒りは薄く、遠い。
それよりも、静かな哀しみのようなものがある。
あの街で懸命に生きていた五年間を、誰も見ていなかった。
誰も気づかなかった。
それでも。
ここには、気づいてくれた人がいる。
空気が変わったことに、一番早く気づいたのはアルヴェインだった。
言葉は少ないけれど、確かに見ている目だと思った。
薬草の束を結びながら、小さく息をついた。
明日も、ここで生きていこう。
それだけを、今は考えることにした。
夜の辺境は、深く静かで、星だけがよく光っていた。




