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第四章 聖女なんて知りません

翌朝目が覚めると、鳥の声がしていた。


辺境の村に一つだけある宿屋は、小さくて古い建物だ。

藁のにおいがする布団は、王都の寝台とは比べものにならない。

それでも、不思議なほどよく眠れた。

窓から差し込む朝の光が、薄い木の床を橙色に染めている。


体を起こして窓を開けると、冷たい空気が頬に触れた。

エルトリア領より、さらに気温が低い。

空は高く、青く澄んでいた。

昨夜あれほど漂っていた黒いもやは、今朝はずいぶん薄れているように見える。


 


「おはようございます、リリアーナ様」


 


マリアが盆を持って入ってきた。

素朴なパンとスープ、それだけの朝食だったが、温かくて十分だった。


 


「アルヴェイン様は?」


 


 


「夜明け前から出ておられるようです。北の砦へ行かれたと宿の主人が言っていました」


 


昨夜は村の集会所で、辺境伯が住民たちと話し合いをしていた。

魔物の被害状況、避難経路の確認、食料の備蓄量。

淡々と、しかし一つひとつ丁寧に確認する姿が、遠くから見えた。

華やかさとは無縁の、地道な仕事だ。

けれどその背中には、確かな責任の重さが宿っていた。


食事を終えて外に出ると、村の子供たちが私を見て立ち止まった。

三人、四人と、じりじりと近づいてくる。


 


「ねえ、昨日の人だよね。ヤスを治してくれた」


 


小さな女の子が言った。

ヤスというのは、昨日足首を怪我していた男の子のことだろう。


 


「そうよ。もう痛くない? 彼は」


 


 


「うん、今朝は歩いてた。すごいね」


 


女の子が目を輝かせる。

その隣で、別の子が遠慮がちに引っ張った。


 


「あのね、おれのおかあさんも具合が悪くて。診てもらえる?」


 


断る理由がなかった。


 


それが始まりだった。


一人診れば、また一人来る。

村には医師がおらず、薬草師も最近は南へ避難してしまったという。

私が薬箱を開いているだけで、次から次へと人が集まってきた。


咳が続く老人。

腹を痛がる子供。

魔物との戦闘で傷を負った若い兵士。

それぞれの症状に合わせて薬草を調合し、傷には手当てをした。

ただそれだけのことを、午前中いっぱいかけてやっていく。


手当てをしながら、不思議なことに気づいた。

誰かに触れるたびに、あの感覚が流れ出す。

熱が和らぐ。

痛みが引く。

ただの薬草の効果にしては、少し速すぎる気がした。

けれどそれを口にするのは、何となく憚られた。


 


昼過ぎ、村の広場で子供たちと一緒に座っていると、アルヴェインが戻ってきた。

馬から降り、こちらに気づくと、わずかに足を止めた。


 


「まだいたのか」


 


責めているのではなく、ただ確認しているような口調だ。


 


「もう少しだけ、お邪魔してもいいでしょうか。村の方々に少し手当てを」


 


アルヴェインは私と、その周りに集まった子供たちを見た。

それから短く、


 


「好きにしろ」


 


と言って、村の集会所の方へ歩いていった。

それが許可だということは、背中を見ていてわかった。


 


その日から、私は村に留まることになった。


最初は二、三日のつもりだった。

けれど毎日誰かが薬を求めてやってきて、気づけば一週間が過ぎていた。

マリアは呆れながらも、荷物を整理して村の宿に腰を落ち着けた。


村での暮らしは、王都とも、エルトリアとも違う。

朝は薬草を摘みに野に出る。

午前中は診療らしきことをして、午後は台所を借りて薬草を煮る。

夕方は子供たちの相手をしながら、宿の主人の手伝いをした。


 


「リリアーナ様って、侯爵令嬢なんですか」


 


子供の一人、赤い頬の女の子、ティカが聞いた。


 


「そうよ、一応ね」


 


 


「じゃあなんでここにいるの。お城みたいなところに住んでいるんじゃないの」


 


 


「お城は、もう私の場所じゃなくなったのよ」


 


ティカは首を傾げた。

うまく理解できないのだろう。

でも子供はそれ以上聞かなかった。


 


「じゃあここにいればいいじゃん」


 


そう言って、また遊びに走っていった。

単純で、明快で、その言葉がなぜか胸の奥に温かく落ちた。


 


変化は、十日ほど経った頃から目に見えて現れ始めた。


村の北側に、長年荒れたままの土地があった。

黒ずんだ土は何も育てず、近づくと気分が悪くなる、と村人たちは言っていた。

呪われた土地だと、子供たちも近づかない。


それが、変わっていた。


ある朝、老農夫のギーという人物が、目を丸くして私を呼びにきた。


 


「あの土地に、草が生えとる」


 


一緒に行ってみると、確かにそうだった。

黒ずんでいた土が、幾分か色を取り戻している。

そこここに、細い緑の芽が顔を出していた。


 


「あり得ない……」


 


その声は私の後ろからした。

振り返ると、見慣れない人物が立っていた。

年配の男性で、大きな眼鏡をかけ、分厚い本を小脇に抱えている。

顎の短い髭が、驚きで震えていた。


 


「あなたは?」


 


 


「失礼、私はドルト。辺境伯様の御用達の学者で……いや、そんなことより」


 


ドルトと名乗った老人は、私と、土地と、また私を交互に見た。


 


「この土地はここ三十年、何をしても回復しなかった。瘴気が染み込んで、浄化など不可能だと言われていた場所だ。それが……」


 


呟きながら、土を手に取り、匂いを嗅ぎ、眼鏡の奥の目を細める。


 


「あなたが来てから、どれくらい経ちますか」


 


 


「十日ほどです。何か問題が?」


 


 


「問題どころか。これは……これは大変なことだ」


 


ドルトは本を開いて、ぱらぱらとページをめくり始めた。

ひどく古い本で、紙の端が黄ばんでいる。

彼は何かを探しながら、独り言のように続けた。


 


「瘴気の自然浄化など、歴史上数えるほどしか記録がない。しかもこの速さで……通常の浄化魔法使いでも、これほどの濃度の瘴気には太刀打ちできないはずだ」


 


 


「あの、私は特に何もしていませんよ。ただ村にいただけで」


 


ドルトは顔を上げ、眼鏡の奥でじっと私を見た。


 


「それが問題なのです」


 


意味がわからなくて、私は首を傾げた。


 


夕方、アルヴェインに呼ばれた。

集会所の一室、地図と書類が積まれた机の前に、彼は腕を組んで立っていた。

その隣にドルトが座り、あの古い本を広げている。


 


「座れ」


 


アルヴェインに言われ、椅子を引く。

ドルトが咳払いをして、本のページを私の方に向けた。


 


「これを」


 


古い文字で書かれた文章と、一人の女性の挿絵。

長い髪を結い上げ、両手を広げた姿。

その手から、光の粒のようなものが広がっている。


その下に、読める文字で記されていた。


浄界の聖女。


 


「数百年に一人、この世界に生まれるとされる存在です。瘴気を無自覚に浄化し、その土地に根付く穢れを清める力を持つ。近くにいるだけで魔物の活動が鈍り、作物が育ち、病が癒える」


 


ドルトがゆっくりと読み上げる。


 


「聖女なんて、知りません」


 


私は思わず言った。

そんな大げさな話、自分には関係がないと思った。


 


「あなた自身が知らなくても」


 


ドルトが静かに続ける。


 


「力は確かに、働いています」


 


アルヴェインが口を開いた。

いつもより低く、慎重な声だった。


 


「俺も、あなたが来てから瘴気が薄くなっているのに気づいていた。初日から、ずっと」


 


その灰色の目が、まっすぐ私を見る。

嘘をつかない目だ、と思った。

飾りも、哀れみも、ない。

ただ事実を見ている目。


私は古文書の挿絵を見つめた。

両手から光を広げる女性の姿。

自分がそれと同じだとは、まだ信じられない。


 


「……私には、わかりません」


 


正直に言った。


 


「ただ、昔から体の中に何かが流れる感覚があって。手当てをするときも、ただ薬草を使うだけじゃなくて、何かが出ていく気がして。でもそれは、誰でもそういうものだと思っていました」


 


ドルトが静かに首を振る。


 


「誰でも、ではありません」


 


沈黙が落ちた。

窓の外で風が鳴る。

夜の辺境は、王都より深く静かだ。


アルヴェインがゆっくりと椅子を引き、私の向かいに座った。


 


「信じなくていい、今は」


 


その声は、驚くほど穏やかだった。


 


「ただ一つだけ聞く。あなたは今、ここにいたいか」


 


それは、婚約中に一度も聞かれなかった問いだった。

レオルド殿下は一度も、私の意志を聞かなかった。

いてほしい場所にいさせて、去れと言うまで何も言わなかった。


なのに今、会って十日も経たないこの男が、当然のように聞く。


 


「……はい」


 


答えた後で、少し驚いた。

迷いがなかった。


アルヴェインは短く頷いた。


 


「では、いろ」


 


それだけだった。

それだけで十分だった。


ドルトが古文書を閉じながら、口の中で何かを呟いていた。

浄界の聖女、と聞こえた気がした。

私はまだ、その言葉を自分のものとして受け取れないでいる。


けれど窓の外の夜空は澄んでいて、星がよく見えた。

昨日より、少しだけ多い気がした。




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