第三章 北辺の辺境伯
秋が深まるにつれ、北からの便りが増えた。
旅人や行商人が領地を通るたび、ヘルムートが話を聞いてきては、夕食の席で静かに報告する。
辺境では魔物の出現頻度が上がっている。
村が一つ、避難を余儀なくされた。
辺境伯の軍が懸命に対応しているが、消耗が激しい。
そういった話が、日を追うごとに深刻な色を帯びていく。
私はそれを聞きながら、薬草を仕分けする手を動かし続けていた。
「リリアーナ様、北へ行かれるおつもりですか」
ある朝、マリアが唐突に聞いた。
私は手を止めて、彼女を見た。
「どうしてそう思うの?」
「最近、北の話を聞くたびにそういうお顔をされますから」
そういうお顔、とはどんな顔なのだろう。
自分ではわからない。
けれどマリアは長い付き合いだ。
私が自分でも気づいていないことに、彼女はいつも先に気づく。
「……薬草と、包帯を少し多めに用意してもらえる?」
マリアは何も言わずに立ち上がり、薬箱を開けた。
それが答えだった。
父への書き置きを残して、私たちが領地を出たのは翌朝のことだ。
大げさな旅ではない。
マリアと護衛が二人、小さな荷馬車に薬草と食料を積んだだけの、目立たない一行だ。
北へ向かう街道は、思ったより人通りがあった。
ただしその人々は、北へ向かうのではなく、南へ逃げていた。
荷物を抱えた家族連れ、疲れ果てた顔の老人、泣きじゃくる子供。
みな一様に足を急がせ、振り返ることもない。
その流れに逆らうように、私たちの馬車は北を目指した。
異変に気づいたのは、街道を半日ほど進んだ頃だ。
街道脇の林の縁に、人だかりができていた。
馬車を止めて近づくと、荷馬車が一台、溝に落ちている。
車輪が外れ、積み荷が散乱し、老夫婦と小さな子供が途方に暮れていた。
子供は怪我をしているのか、足を押さえてうずくまっている。
「止まって」
私は馬車から降りた。
「大丈夫ですか。怪我は?」
老婆が顔を上げ、見知らぬ私を不審そうに見た。
それでもすぐに、縋るように口を開く。
「孫が、足を。荷馬車が倒れた時に……」
子供のそばに膝をつく。
五歳くらいの男の子で、右の足首が腫れていた。
骨は折れていないようだが、ひどく捻挫している。
私は薬箱を取り出し、腫れを抑える薬草を取り出した。
「痛かったね。少しだけ触るよ、我慢できる?」
男の子が、涙をいっぱいにためた目で頷く。
包帯を巻きながら、そっと足首に手を当てた。
その瞬間、いつものように体の奥から何かが流れ出す感覚がある。
熱を持った腫れが、手のひらの下でかすかに引いていく気がした。
「……不思議、あったかい」
男の子が呟いた。
私は微笑んで、包帯の端を結んだ。
「歩けるくらいには落ち着くと思う。でも今日はできるだけ動かさないで」
老爺が深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、お嬢さん。北から来られたのですか」
「いいえ、北へ向かっているところです」
老夫婦の表情が曇った。
「北へ? 今は危のうございます。辺境の村々が魔物に荒らされて、私どもも昨日まで北の村に住んでおりましたが、もう戻れないかもしれない」
老爺の声が、震えている。
「村はどうなりましたか」
「辺境伯様の兵が守ってくださっていますが……。黒い霧のようなものが広がっていて、その中から魔物が出てくる。今まで見たことのない、大きな獣でした」
黒い霧。
その言葉が、胸のどこかに引っかかる。
私はしばらく老爺の顔を見ていたが、やがて立ち上がった。
「南へ下れば、三つ目の村に宿屋があります。そこまでは安全な道のはずです。お気をつけて」
老夫婦に食料と薬を少し分けて、私たちは再び馬車に乗った。
北へ進むにつれ、空気の質が変わっていく。
重く、湿ったような感触が肌に纏わりつく感じ。
それは王都を出た翌日に感じたものと似ていたが、ずっと濃い。
護衛の兵士たちが、落ち着きなく辺りを見回し始めた。
「リリアーナ様、先へ進むのは……」
「もう少しだけ」
私には理由をうまく説明できなかった。
ただ、前へ進まなければならない気がした。
体の中の何かが、この重い空気に反応して、じりじりと疼いている。
村が見えてきたのは、夕暮れが迫る頃だ。
だが何かがおかしかった。
村の手前、道の途中に人が倒れている。
馬車を止めて駆け寄ると、若い男だった。
兵士の格好をしているが、鎧は傷だらけで、意識がない。
脈はある。
体を調べると、深い裂傷が二か所。
魔物にやられたのだろう。
「マリア、止血を。私が縫合する」
処置をしながら、周囲を見渡した。
村の方角から、低い唸り声のようなものが聞こえる気がする。
夕闇の中に、黒いもやがうっすらと漂っていた。
傷の手当てが終わった頃、馬蹄の音が近づいてきた。
複数の騎馬が、村の方角から駆けてくる。
先頭の馬に乗った人物が、私たちを見て速度を落とした。
大きな体躯。
深い傷跡の残る、無骨な顔。
黒い鎧に、使い込まれた大剣。
その瞳は灰色で、夕暮れの光の中でも鋭い光を宿していた。
「民間人か。なぜこんな場所に」
低く、よく通る声だった。
命令ではなく、ただ事実を確認するような口ぶり。
「旅の者です。倒れている方を見つけたので手当てを」
男が馬から降りた。
倒れた兵士のそばに膝をつき、状態を確認する。
それから私を見た。
「手当てをしたのか」
「はい。深い傷でしたが、今は落ち着いています。しばらくは動かさない方がいいと思います」
男がわずかに眉を動かした。
それから、ゆっくりと立ち上がり、もう一度私を見る。
その視線は、値踏みするものではなく、ただ純粋に観察するようなものだった。
「俺はアルヴェイン。この地の辺境伯だ」
思わず、少し目を見開いた。
辺境伯。
北の地を守る、あの。
「エルトリア侯爵家のリリアーナと申します。薬草を持って、少し北の様子を見に来ました」
アルヴェインは、私の名前を聞いても特に反応しなかった。
王太子の元婚約者、などという話は、辺境まで届いていないのかもしれない。
それが、妙にほっとした。
「今夜は村に留まれ。外は危険だ」
命令口調だったが、声の底には確かな気遣いがあった。
村へ移動する道すがら、私は気づいた。
アルヴェインたち一行が近くにいると、黒いもやが薄くなる気がする。
いや、違う。
私が彼らの隣を歩いていると、もやが薄くなる。
体の奥の疼きが、静かに広がっていく。
自然と、いつもの習慣のように力が流れ出す感覚がある。
すると黒いもやはさらに薄れ、空気が澄んでいく。
アルヴェインが歩みを止めた。
振り返り、周囲を見渡す。
その灰色の瞳が、空気の変化をとらえているようだった。
それから、その視線がゆっくりと私へと向く。
「……あなたはいったい、何者だ」
問いかけというより、独り言のようだった。
静かで、低い声。
夕暮れの風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
私には答えがなかった。
ただ、その灰色の瞳に見つめられながら、自分でもわからないと思った。
私はいったい、何者なのだろう。
村の灯りが、暮れていく空の下で、ぽつりぽつりと灯り始めていた。




