第二章 役立たず令嬢、故郷へ帰る
翌朝、目が覚めたとき、しばらく天井を見つめていた。
見慣れた王都の屋敷の天井。
白い漆喰に、細かな装飾が施されている。
五年間、毎朝見てきた景色だ。
今日で最後になる。
体を起こすと、マリアがすでに荷造りを始めていた。
てきぱきと動く彼女の目が、少し赤い。
昨夜、泣いていたのだろう。
私のために。
「マリア、ありがとう」
「何をおっしゃいます。当然のことをしているまでです」
マリアはそっぽを向いたまま、タオルを畳む手を止めない。
その横顔がやわらかくて、少しだけ胸が温かくなった。
荷物はそれほど多くなかった。
五年間ここで暮らしてきたわりに、私の痕跡は思いのほか薄い。
ドレスも、装飾品も、婚約者として必要だったものは置いていく。
本当に自分のものと言えるのは、小さな薬草の図鑑と、母からもらった銀の髪留めくらいだ。
それだけで十分な気がした。
馬車が出発したのは昼前のことだ。
父は仕事が残っているとかで、先に使者を立ててくれていた。
私とマリア、護衛の兵士が数名、それだけの小さな一行で王都を後にする。
城門をくぐったとき、振り返ることはしなかった。
振り返ったら、何かが崩れてしまいそうな気がして。
馬車は街道を北へ向かう。
王都を離れるにつれ、景色が変わっていく。
石畳の道が砂利道になり、整えられた街路樹が野の木々に変わり、空がどんどん広くなる。
エルトリア領は王都から三日ほどの距離にある、緑豊かな土地だ。
農業が盛んで、穏やかな気候に恵まれた、小さくとも豊かな領地。
子供の頃から好きだった場所だ。
窓から外を眺めながら、ふと気づいた。
空気が、重い。
王都を出てすぐのことだ。
何かが変わった、というほど明確な変化ではない。
けれど体のどこかが、かすかな違和感を感じ取っている。
霧が薄くかかったような、澱んだ感覚。
「マリア、なんだか空気がおかしくない?」
「そうでしょうか? いつもと変わらない気がしますが」
マリアが首を傾げる。
彼女には感じられないのかもしれない。
私もうまく説明できないのだから、気のせいなのかもしれない。
ただ、胸の奥がざわざわとして、落ち着かなかった。
その違和感は、王都から離れるほど薄れていった。
不思議なことに、北へ進めば進むほど、空気がすっきりと感じられる。
肺の奥まで息が通るような、清涼な感覚。
まるで長い間知らず知らず息をひそめていたのが、ようやく解放されたかのようだった。
三日目の夕暮れ、エルトリア領の境界を越えた。
小高い丘の上から見渡す故郷の景色は、記憶の中とちっとも変わっていない。
黄金色に実る麦畑。
なだらかな丘の斜面に広がる果樹園。
夕陽を受けてきらきらと光る川の流れ。
胸がじんとした。
「ただいま」
誰に言うでもなく、呟いた。
風がやさしく頬をなでる。
王都にいた五年間、こんなふうに風に触れたことはなかった気がする。
領主館の使用人たちが出迎えてくれた。
顔見知りの者たちばかりだ。
老執事のヘルムートは、私の顔を見るなり目を細めた。
「お帰りなさいませ、リリアーナ様。お痩せになりましたな」
「ただいま戻りました、ヘルムート。ご心配をおかけして」
「何をおっしゃいます。館はいつでも開いております。ゆっくりお休みなさいませ」
その言葉が、思ったより深く染み入った。
いつでも開いている。
私の帰る場所は、ここにある。
それだけで、今は十分だった。
それから数日は、ただ眠り続けた。
五年間の疲れが、一度に押し寄せてきたかのようだった。
朝になっても体が重く、布団から出るのがやっとで、食事をして、また眠る。
マリアは心配そうにしていたが、何も言わずに見守ってくれた。
一週間ほど経った頃、ようやく体が軽くなってきた。
久しぶりに朝の庭に出ると、秋の花が静かに咲いている。
冷たい朝の空気が、気持ちよく肺に広がった。
「リリアーナ様、顔色が良くなりましたわ」
マリアが嬉しそうに言う。
「そうね、やっとまともに眠れた気がする」
薬草園に足を踏み入れると、懐かしい香りが漂ってくる。
ローズマリー、タイム、カモミール。
子供の頃から、薬草を育てるのが好きだった。
王都ではそんな暇もなかったけれど、ここでならまたできる。
土に触れると、なぜか気持ちが落ち着く。
自分が地面に繋がっているような、そんな感覚。
この感覚も、五年間忘れていたものだ。
一方、王都では異変が起きていた。
後から知ったことだが、私が王都を出た翌日から、あちこちで不具合が生じ始めたという。
魔道具が突然動かなくなった、という報告が宮廷に相次いだ。
照明用の魔石が曇り、転送水晶が機能を失い、温熱装置が停止した。
農村では、種まきの時期であるにもかかわらず、芽吹きが例年より遅れていた。
土が何となく重い、と農民たちは首を傾げたという。
作物の生育が滞り、収穫が見込めないかもしれないと、農務省に懸念の声が届き始めた。
体調不良を訴える者も増えた。
特に魔力を持つ人々の間で、なんとなく頭が重い、集中できない、魔力の流れが悪い、という訴えが広まっていく。
宮廷医師たちは原因を調べたが、はっきりとした病名はつけられなかった。
けれど誰も、私の名前を思い浮かべなかった。
地味で役立たずと言われた侯爵令嬢が、王都を去ったこととを、異変と結びつける者はひとりもいなかった。
私はそんなことも知らず、故郷の庭で薬草を摘んでいた。
秋晴れの穏やかな午後、カモミールの花を籠に入れながら、ふと空を見上げる。
雲が一枚、ゆっくりと流れていく。
遠く、北の方角に目を向けると、山脈の稜線が青く霞んでいた。
あの山の向こうに、辺境がある。
王国の北の果て、アルヴェイン辺境伯が治める地。
魔物との境界に近く、荒廃した険しい土地だと聞く。
「北が騒がしいらしいですね」
ヘルムートが庭に来て、私の隣に立った。
「騒がしい?」
「辺境の方から旅人が来ておりまして。巨大な魔物が現れたと。辺境伯軍が対応しているそうですが、今まで見たことのない大きさだと、ひどく怯えておりました」
ヘルムートの声は静かだったが、その言葉には確かな重みがあった。
巨大な魔物。
今まで見たことのない大きさ。
私は北の空を見上げた。
山脈の向こうに何があるのか、この場所からは見えない。
けれど胸の奥の、あのざわめきが、また静かに頭をもたげてくる。
「辺境伯は、大丈夫なのかしら」
「さあ、それは……。ただ、最近は北からの便りが全体的に暗いですな。何かが変わりつつあるのかもしれません」
何かが変わりつつある。
その言葉が頭の隅に引っかかったまま、私はカモミールの籠を抱え直し、館の中へと戻った。
夕暮れが近づき、空が橙色に染まっていく。
風がひんやりと冷たくなり始め、秋の深まりを告げていた。
夜、一人で窓から星を見ながら、ぼんやりと考える。
王都の婚約者生活。
毎朝繰り返していた、あの静かな習慣。
目を閉じて、体の奥から力を引き出して、空気に溶かしていく作業。
ただ体調が悪くならないように、自分なりにやっていただけの、小さな習慣だ。
あれは何だったのだろう、と今さら思う。
王都にいる間、私はなぜあれをせずにいられなかったのか。
故郷に帰った今は、しなくてもすっきりしているのに。
答えは出なかった。
ただ窓の外の星が、静かに瞬いていた。
北の空には、ひときわ明るい星がひとつ。
辺境の方角に、まっすぐ輝いている。
何かが始まろうとしている。
そんな予感だけが、秋の夜の空気の中に漂っていた。




