第一章 婚約破棄を告げられました
夜会の灯りは、いつもより眩しく感じた。
シャンデリアの光が水晶を通して砕け散り、白い壁に無数の光の粒を撒き散らしている。
楽団の奏でる音楽は華やかで、笑い声と話し声が混じり合い、大広間を隅々まで満たしていた。
今夜は王立学院の卒業記念舞踏会。
この国の貴族の子女たちが、学院での最後の夜を祝う、一年でもっとも華やかな催しだ。
壁際に立ちながら、私はそっと息を吐く。
エルトリア侯爵家の令嬢、リリアーナ。
それが私の名前だ。
五年前から王太子殿下の婚約者として、この社交界に立ち続けてきた。
「リリアーナ様、お顔の色が優れませんわ」
侍女のマリアが心配そうに囁く。
私は静かに首を振った。
「大丈夫よ、少し疲れているだけ」
嘘だった。
体の奥に、いつもとは違うざわめきがある。
うまく言葉にはできないけれど、今夜何かが変わる気がして、朝から胸のあたりがずっと落ち着かない。
それでも私は笑顔を作る。
侯爵令嬢として、王太子の婚約者として、それが私の役目だから。
大広間の中央では、人々の輪がひとつ、大きくなっていった。
輪の中心にいるのは、王太子レオルド殿下だ。
金色の髪を流行りの形に整え、紺碧の軍服に煌びやかな勲章を連ねた姿は、絵画から抜け出たかのように美しい。
そのとなりに、見慣れない顔がある。
淡い桃色のドレスをまとった、小柄な令嬢。
巻き毛の栗色の髪と、大きな青い瞳。
愛らしく微笑む顔には、どこか計算めいた光が宿っていた。
「あの方は……」
マリアが息をのむ。
私も知っていた。
セシリア・ベルモン男爵令嬢。
数ヶ月前から、殿下のそばに顔を見せるようになった女性だ。
噂は耳に入っていた。
けれど私は見ないふりをしていた。
見ないふりをすることが、五年間の私の習慣だった。
殿下の視線が、会場を一巡して、私のところで止まる。
すると彼は、ゆっくりとこちらに向かって歩き始めた。
人々がさっと道を開ける。
セシリアを連れたまま、殿下は私の前に立った。
「リリアーナ」
その声に、いつものやわらかさはなかった。
「今夜、ここで改めて伝えなければならないことがある」
周囲の話し声が、潮が引くように静まっていく。
楽団の音楽だけが場違いなほど明るく響いていた。
私は殿下の顔を見上げる。
端正な顔には、いつになく固い表情が浮かんでいた。
「君との婚約を、破棄する」
言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。
婚約を、破棄する。
五年間の約束を。
この国の王妃となるべく、私が積み上げてきた全てを。
大広間の空気が、一瞬で凍りついた気がした。
「……殿下」
声が、思ったより落ち着いていた。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
殿下は眉を上げ、それからゆっくりと、まるで当然のことを語るように口を開いた。
「理由か。では聞かせよう」
声が会場に響く。
これはもう、私への言葉ではなかった。
この場にいる全員に向けた、宣言だ。
「君は地味で、暗く、王妃に相応しい華やかさを持たない。社交界においても、それに見合った活躍ができていない。私はこの国の王太子だ。隣に立つ者は、民の心を輝かせるような女性でなくてはならない」
一語一語が、刃のように胸に刺さる。
それでも私は、表情を変えないようにした。
変えてはいけない気がした。
ここで泣いたら、崩れてしまう気がした。
「セシリアはその点で申し分ない。彼女こそが、私にふさわしい女性だ」
隣でセシリアが、あでやかに微笑む。
困ったように眉を寄せ、申し訳なさそうなふりをしながら、その青い瞳の奥には確かな勝利の色が光っていた。
周囲から、ざわめきが広がる。
好奇の視線、哀れみの視線、面白がる視線。
貴族の社交界とは、こういうものだ。
誰かの転落は、格好の見世物になる。
殿下はまだ続けた。
「五年間、婚約者として傍に置いてきたが、正直に言えば君との時間に喜びを感じたことは少なかった。いつも俯いて、自分の意見も言わず、ただ従うだけの女性に、この国の未来は託せない」
それは、正しいことを言っているのかもしれない。
私は確かに地味だ。
社交界で人を惹きつけるような才能もない。
派手な笑顔も、機知に富んだ言葉も、場を彩る存在感も、持ち合わせていない。
ただ、殿下のそばで静かに立っていることしかできなかった。
でも。
婚約者として、私なりに精一杯やってきた。
毎朝、体に力を込めて王都の空気を整えていた。
誰も気づかないその小さな作業を、ただそれだけを、五年間続けてきた。
それを言葉にする術を、私は持たなかった。
「……わかりました」
私の声は、やはり静かだった。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
深く、一礼する。
膝が震えているのを、誰にも気づかれないように。
「それだけか?」
殿下が、どこか拍子抜けしたように言う。
怒鳴らないのか、と言いたいのかもしれない。
泣かないのか、懇願しないのか、と。
私は顔を上げ、まっすぐ殿下を見た。
「他に何を申し上げればよいのでしょうか」
殿下は、少しだけ表情を揺らした。
けれどすぐに視線を逸らし、セシリアの手を取って踵を返す。
人々はしばらく私を見ていたが、やがて思い思いに視線を戻した。
楽団がまた、明るい曲を奏で始める。
私はひとり、壁際に立ったまま、動けなかった。
「リリアーナ様……」
マリアが小さく呼ぶ声がする。
大丈夫、と言おうとしたが、声が出なかった。
喉の奥が、じわりと熱くなる。
泣いてはいけない。
ここでは泣いてはいけない。
夜会が終わったのは、深夜近くのことだった。
馬車に乗り込んで扉が閉まった瞬間、初めて息をついた気がする。
窓の外を、王都の灯りが流れていく。
見慣れた街並みが、今夜はどこか遠く見えた。
父が、隣に座っていた。
エルトリア侯爵。
いつもは厳格で口数の少ない父が、今夜は何も言わずにいた。
馬車が動き出してしばらく経ったころ、父がゆっくりと口を開く。
「……お前、ずっと無理をしていたのだろう」
その言葉は、問いかけではなかった。
ただ、確認するような、静かな声だった。
私は窓の外を見たまま、少しの間黙っていた。
無理をしていたか。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
ただ、当たり前のことをしていただけだと思っていた。
「……お父様」
「帰りましょう、領地に」
父は何も言わなかった。
ただ、大きな手が私の頭にそっと乗せられた。
子供の頃以来、何年ぶりかわからない、父の手の温かさだった。
それでようやく、私の瞳から涙がひとすじ、こぼれ落ちた。
声も立てず、静かに、ただひとすじだけ。
窓の外で、王都の灯りが遠ざかっていく。
私の五年間が、あの光の海の中に溶けていく気がした。
明日からどうすればいいのか、まだわからない。
これからどこへ向かえばいいのかも。
でも今夜は、父のとなりで、ただ静かに揺られていよう。
馬車はゆっくりと夜の中を進み、王都の灯りはやがて、完全に見えなくなった。




