第六章 君が必要だった
冬の辺境は、想像以上に美しかった。
雪が降り始めたのは、霜月の初めのことだ。
夜のうちに静かに積もって、朝に窓を開けると世界が白く塗り替えられている。
王都にも雪は降るが、あちらの雪はすぐに踏み固められて灰色になる。
ここの雪は違う。
誰も踏み荒らさない野の雪は、朝の光を受けて銀色に輝いていた。
「きれい」
思わず声に出すと、後ろでマリアが苦笑した。
「雪かきが大変なのに、きれいなんて言えるのはリリアーナ様くらいですよ」
「そういうもの?」
「そういうものです」
それでも彼女も、しばらく窓の外を眺めていた。
村の生活は、冬になっても変わらなかった。
雪で外の動きは鈍くなるが、薬草を求めて来る人の数は減らない。
むしろ寒くなってから、体調を崩す老人や子供が増えた。
私は毎朝薬草を煎じ、一軒一軒回って様子を見た。
それが今の私の、当たり前の一日になっていた。
ドルトが書類を抱えてやってきたのは、そんな雪の朝のことだ。
いつもより足が速く、眼鏡が曇るほど息を切らしていた。
「大変なことになりました」
宿の椅子に腰を落とし、荷物の中から一束の書類を取り出す。
封蝋は王都の宮廷魔術師団の紋章だった。
「王都で、何かあったんですか」
「何か、どころではない」
ドルトが眼鏡を外し、布で拭きながら言った。
「宮廷魔術師団の主席、クロヴィス・ハルト卿が王都の結界構造を解析した結果、とんでもないものが見つかりました」
「とんでもないもの」
「王都には、建国当初から張られている古い結界があります。瘴気を弾き、魔物の侵入を防ぐ、この国の根幹とも言える防護魔法です。それ自体は以前から知られていた。しかし今回、その結界の詳細な構造を調べたところ」
ドルトが書類を広げた。
複雑な魔法陣の図が描かれている。
中心部に、星のような印が一つ。
「結界の核が、人だったのです」
私は黙っていた。
「正確には、浄界の聖女の力が結界の核として機能していた。建国の聖女がその仕組みを作り上げ、以来代々の聖女が無自覚のうちに王都の結界を維持し続けていた。聖女がいる限り結界は保たれ、いなくなれば徐々に崩壊する。クロヴィス卿はそれを突き止めたわけです」
書類を見つめながら、ゆっくりと内容を飲み込んでいく。
王都の結界の核。
私が。
「つまり、私が王都にいたから、結界が保たれていた」
「そういうことになります」
「そして私がいなくなったから、結界が崩れ始めている」
「はい」
静寂の中で、囲炉裏の火がぱちりと鳴った。
可笑しい、と思った。
五年間、地味で役立たずと言われ続けた私が、実は国の根幹を支えていた。
王太子に婚約を破棄されて追い出された私が、王都の結界の核だった。
それを誰も、私自身でさえ、知らなかった。
笑えない話なのに、笑えてしまいそうだった。
「王太子殿下は、この事実を知ったのですか」
「知りました。クロヴィス卿から直接報告を受けたとのことです」
ドルトが書類をめくり、別の紙を見せた。
「この書類によれば、殿下は報告を受けた後、しばらく一言も発せなかったそうです。それから、こう命じたと」
ドルトが、その部分を読み上げた。
「すぐに連れ戻せ」
短い言葉だった。
私への、命令だ。
謝罪でも、懇願でも、説明でもなく、ただ命令。
何かが、胸の奥でかちりと固まる気がした。
「私を、道具だと思っているのですね」
声は穏やかに出た。
怒りではなく、ただの確認のような声だ。
「結界の核として必要だから、連れ戻せ。それだけの話」
ドルトは何も言わなかった。
それが答えだった。
その日の夕方、アルヴェインにこの話を伝えた。
彼は腕を組んで、地図の前に立ったまま聞いていた。
話し終えても、しばらく黙っていた。
「連れ戻せ、か」
やがて、ゆっくりと言った。
「あなたはどう思う」
「私は今、ここにいたい。それは変わりません」
アルヴェインが、横目で私を見た。
「王都が困っていても?」
「王都が困っているのは知っています。でも」
言葉を選んだ。
「五年間、私はずっと王都のために力を使っていた。それが何だったのか、今になってわかった。でも誰もその価値を見てくれなかった。役立たずと言われて、追い出された。今さら必要だから戻れと言われても、素直に頷けるほど、私は出来た人間じゃないと思います」
言い切ったら、少し気持ちが軽くなった。
これが本音だと、声に出して初めてわかった。
アルヴェインは少しの間、私の顔を見ていた。
それから短く言った。
「当然だ」
「え?」
「当然の感情だと言っている。あなたが戻る義務はない」
それから彼は地図に視線を戻した。
「使者が来るだろう。対応は俺がする」
頼もしさと、申し訳なさが同時に込み上げてくる。
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑ではない」
それだけ言って、アルヴェインは地図の一点を指で示した。
辺境の北、魔物の活動域が広がっている場所だ。
「それより、見てくれ。ここ数日で魔物の活動範囲がここまで広がった。王都の結界が弱まれば、魔物は南へ向かう。王都への経路にある村々が危険にさらされる」
話が切り替わった。
私も気持ちを切り替えて、地図を覗き込む。
赤い印が、確かに増えていた。
王都から遠い辺境だけの問題ではなくなりつつある。
中間の村々にまで、じわじわと影響が及び始めていた。
「これを止めるには」
「今の辺境軍の戦力では限界がある。食い止めているが、じり貧だ」
アルヴェインの声は淡々としていたが、その目の奥に疲労の色があった。
この男は毎朝夜明け前に起きて、夜遅くまで働いている。
それを見続けてきた私には、その疲れがわかる。
「私にできることは、していきます」
自然と言葉が出た。
「王都へは戻らない。でも、ここで力を使うことはできる。辺境の瘴気を薄めることなら、今もできているはずだから」
アルヴェインが、私を見た。
「無理はするな」
命令ではなく、心配の声だった。
そのことに、胸がさざ波のように揺れた。
「はい」
外では、また雪が降り始めていた。
窓越しに見える空は厚い雲に覆われ、白い粒が静かに落ちてくる。
村の灯りが、雪の中でぼんやりと滲んでいた。
王都では今頃、宮廷が騒ぎ立てているのだろう。
使者の準備が整えられ、私を連れ戻すための段取りが話し合われているかもしれない。
でも私は今、ここにいる。
雪の辺境で、薬草の香りがする部屋で、囲炉裏の火を見ている。
それが今の私の場所で、今の私の生き方だ。
連れ戻せ、という声は、ここまでは届かない。
少なくとも、今夜は。
囲炉裏の火がまた、ぱちりと鳴った。




