第十三章 あなたのために生きたい
あの戦闘の後、三日間、私は動けなかった。
熱が出たわけではない。
傷があるわけでもない。
ただ、体の奥が重く、力が戻らない日が続いた。
朝に目覚めても体が鉛のようで、起き上がるのに時間がかかる。
薬草茶を飲んで、横になって、また眠る。
それを繰り返す三日間だった。
マリアが傍に付きっきりでいてくれた。
「ドルト様が、無理をしすぎたとおっしゃっていました」
二日目の夜、彼女が静かに言った。
「わかっていたのに」
「わかっていても、止まれなかったのでしょう」
マリアが窓の外を見ながら言った。
責める声ではなかった。
ただ、知っているという声だった。
「リリアーナ様は昔からそうです。自分のことは後回しにして、誰かのために動いて、気づいたときには限界を超えている」
「……そうね」
「王都でもそうでした。毎朝早く起きて、誰も見ていないのに力を使って、夜は最後まで笑顔を作って。誰も見ていなかったけれど、私は見ていました」
マリアの声が、わずかに揺れた。
「だからここでも、同じことをするのかと、心配で」
私は天井を見ながら、黙っていた。
同じこと。
誰かのために、自分を削る。
それが当たり前だと思っていた。
それしか、私には価値がないと思っていた。
でも、本当にそうだろうか。
三日目の夕方、アルヴェインが見舞いに来た。
右肩の包帯は取れていたが、まだ動きに固さがある。
それでも毎日砦へ行って、指揮を続けているらしい。
無理をするなと言ったのは私の方なのに、と思いながら、何も言えなかった。
椅子を引いて、ベッドの傍に座った彼は、私の顔を見て短く言った。
「顔色が戻ってきた」
「おかげさまで」
「無理をした」
「しました」
「反省しているか」
「……少し」
アルヴェインが、眉を動かした。
「少しか」
「全部は反省していません。あの戦闘で、防衛線が守れたから」
沈黙があった。
「結果が良ければ、過程は問わないのか」
その問いは、静かだったが鋭かった。
私はしばらく答えられなかった。
「……違います、それは」
「では何だ」
言葉を探した。
探しながら、自分の中を見た。
なぜ止まれなかったのか。
なぜあの場で、消費が増えると知りながら力を絞り続けたのか。
「怖かったんだと思います」
やがて言った。
「誰かが傷つくのが。あなたが傷つくのが。止まったら、守れなくなると思って」
アルヴェインが、私を見ていた。
「だから体を削った」
「そうなります」
「それは、自分を大切にしていない」
真っ直ぐな言葉だった。
反論できなかった。
「お前が倒れたら、俺はどうすればいい」
低い声だった。
怒りではなく、真剣な声だ。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
私が倒れたら、この人はどうすればいい。
そんなふうに考えてくれる人がいる。
私のことを、消耗しても構わない力の持ち主としてではなく、倒れたら困る人間として見ている人がいる。
目の奥が、じわりと熱くなった。
「泣くな」
「泣いていません」
「目が赤い」
「光の加減です」
アルヴェインが、短く息をついた。
それから、少し迷うような間があって、口を開いた。
「俺は、お前に生きていてほしい」
「……はい」
「国のためとか、力があるからとか、そういうことではなく」
一息ついた。
「ただ、お前に。この先も、ここにいてほしい」
部屋が静かだった。
外で風が鳴っている。
春の終わりの、柔らかい風だ。
私はしばらく、天井を見ていた。
この先も、ここにいてほしい。
その言葉を、ゆっくりと体に染み込ませた。
王都にいた五年間、誰もそんなことを言ってくれなかった。
いてほしい場所に置かれ、去れと言われ、終わった。
居場所は与えられるものだと思っていた。
誰かが決めるものだと思っていた。
でも今、この人は言う。
いてほしい、と。
命令でも、義務でもなく。
「私も」
声が出た。
「ここにいたいと思っています。ここで生きていきたいと思っている」
アルヴェインが、私を見た。
「今まで、誰かのために力を使うことしか考えていなかった。自分が削れても、誰かの役に立てるなら、それでいいと思っていた。でも」
一度、息を吸った。
「それは違うと、今ならわかります。自己犠牲は、本当の意味で誰かのためにはならない。私が倒れたら、あなたが困ると、あなたが言ってくれたから」
アルヴェインが、静かに聞いていた。
「だから、生きたいと思う。国のためでも、義務でもなく。あなたのために、ここで生きていたい」
言い切った後、急に恥ずかしくなった。
直接的すぎたかもしれない。
でも、取り消す気にはなれなかった。
アルヴェインは、しばらく何も言わなかった。
ただ、灰色の目が私を見ていた。
その目の奥に、いつもより柔らかいものが宿っていた気がした。
やがて、ゆっくりと手が伸びてきた。
私の手の上に、重なった。
大きくて、傷跡のある、温かい手だ。
「それでいい」
低く、静かな声だった。
「それで十分だ」
私は、その手を握り返した。
力を込めるでもなく、ただそっと。
窓の外で、夕陽が沈もうとしていた。
橙色の光が部屋に差し込んで、二人の間を照らしている。
自己犠牲でも、義務でも、役割でもない。
ただ、生きたいと思える理由が、今ここにある。
それが何よりも確かな気がして、私は静かに目を閉じた。
手の温もりだけを感じながら、今夜は穏やかに眠れそうだと思った。
翌朝、私は自分から起き上がった。
体の重さが、ずいぶん引いていた。
窓を開けると、朝の空気が入ってくる。
遠くの野に、春の緑が広がっている。
マリアが盆を持って入ってきた。
私の顔を見て、目を細めた。
「顔色が、全然違いますよ」
「そう?」
「昨日と別人みたいです。何かいいことでもありましたか」
私は少しだけ笑った。
「ありました」
それだけ答えると、マリアが満足そうにお茶を置いた。
朝の光の中で、薬草茶を飲んだ。
温かくて、少し甘い。
今日から、また動ける。
今度は、削るためではなく、生きるために。
その違いが、こんなにも大きいとは思わなかった。




