第十二章 辺境戦線
王都へ向かう準備を始めた翌朝、砦から伝令が走ってきた。
夜明け前のことだ。
まだ空が白みかけていた時間に、馬蹄の音が響いて、宿の扉が激しく叩かれた。
飛び起きて扉を開けると、鎧に土埃をつけた若い兵士が立っていた。
「辺境伯様に、至急! 北の第二防衛線が突破されました!」
その声で、眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「アルヴェイン様は砦ですか」
「はい、昨夜から詰めております!」
私は外套を羽織り、薬箱を掴んで外へ出た。
夜明けの空は、まだ薄暗い青だ。
遠くの北の方角が、かすかに赤く滲んでいる気がした。
砦は村から徒歩で半時ほどの距離にある。
石造りの古い建物で、長年辺境を守ってきた要塞だ。
到着すると、中は騒然としていた。
兵士たちが武具を確認し、負傷者を運び込み、声を飛ばし合っている。
アルヴェインは中央の指揮台に立っていた。
地図を広げ、部下から報告を受けながら、次々と指示を出している。
「状況は」
私が駆け寄ると、彼は一瞬こちらを見て、また地図に視線を戻した。
「第二防衛線の北側が破られた。大型魔物が三体、それに続く中型が十数体。現在は第三防衛線で食い止めているが、時間の問題だ」
「私は何をすればいいですか」
「後方で待機を」
「それでは足りない。私が前に出れば、瘴気を薄めることができます。魔物の動きが鈍くなるはずです」
アルヴェインが顔を上げた。
その目が、私を見た。
「危険だ」
「それはわかっています。でも今は、できることを全部やらないといけない」
しばらく、視線がぶつかった。
アルヴェインが、低く息をついた。
「俺から離れるな」
それが許可だった。
第三防衛線は、砦から北へ一里ほどの地点だ。
石と木で作られた柵と堀が続く、辺境軍の防衛陣地だ。
到着したとき、すでに戦闘が始まっていた。
黒い霧のようなものが、北から流れてくる。
瘴気だ。
濃い、重い、今まで感じたことのない密度の瘴気だった。
それに混じって、低い唸り声が地面を震わせる。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。
霧の中から、巨大な影が現れた。
四足の魔物で、馬よりもひと回り大きい。
黒い体毛が瘴気を纏って揺れている。
赤く光る目が、防衛線の兵士たちを捉えた。
「全員、構え!」
アルヴェインの声が、空気を切った。
私は一歩前に出た。
目を閉じる。
体の奥から、力を引き出す。
いつもより深く、強く。
流れ出る感覚が、広がっていく。
波紋のように、周囲へ、周囲へ。
黒い霧が、薄れ始めた。
「瘴気が引いている!」
兵士の誰かが声を上げた。
魔物の動きが、確かに鈍くなっていた。
瘴気に守られていた体表が弱まり、黒い体毛が揺れを落ち着かせる。
「今だ、射て!」
弓兵が一斉に矢を放つ。
魔物が咆哮を上げながら突進してくる。
アルヴェインが大剣を構えて、前へ出た。
その動きは、迷いがなかった。
重い鎧を着ているとは思えない速さで、魔物の側面へ回り込む。
大剣が一閃、魔物の脚に深い傷を与えた。
魔物が体勢を崩し、兵士たちが一斉に畳み掛ける。
一体目が倒れた。
しかし霧の中から、また影が現れた。
二体目だ。
今度は前の魔物より大きく、瘴気の密度も濃い。
私は力を絞る。
もっと深く、もっと広く。
体の中が熱くなる感覚がした。
消費が増えているのがわかった。
でも、止まれなかった。
霧がまた薄れる。
兵士たちが動きやすくなる。
アルヴェインが再び前へ出る。
戦闘は、長くなった。
日が昇りきる頃には、大型魔物は三体とも撃退されていた。
中型の魔物も、辺境軍が各所で対処した。
防衛線は、辛うじて守られた。
私は疲弊していた。
立っているのがやっとで、石の壁に背中を預けていた。
体の奥が、冷えたように重い。
いつもと違う感覚だ。
力を使いすぎたのだと、わかった。
「リリアーナ」
声がした。
目を開けると、アルヴェインが立っていた。
血がついていた。
右肩から、鎧の継ぎ目を伝って。
「怪我を」
「大したことはない」
「大したことあります、今すぐ手当てを」
立ち上がろうとして、膝が笑った。
アルヴェインが素早く手を伸ばし、私の腕を掴んだ。
「お前こそ」
間近で、顔を見下ろされた。
いつもより険しい顔だった。
「顔色が悪い」
「少し使いすぎました。休めば戻ります」
「使いすぎるなと言った」
「でも、おかげで防衛線が守れました」
アルヴェインが、低く息をついた。
それから、私の体を静かに支えた。
大きな手が、肩に触れる。
「砦へ戻る。歩けるか」
「歩けます」
「強がるな」
言いながら、彼は私の腕を自分の腰に回させた。
支えながら歩く形になる。
鎧の硬い感触と、その下の体温が伝わってきた。
「アルヴェイン様の方が、怪我をしているのに」
「俺の方が重い。文句を言うな」
文句、ではなかった。
ただ、心配だった。
右肩の傷は、見た目より深いはずだ。
あの魔物の爪なら、骨まで届いているかもしれない。
砦への道を歩きながら、私は横目でその横顔を見た。
顔に痛みの色はない。
でも、少しだけ、呼吸が浅い気がした。
「痛いでしょう」
「慣れている」
「慣れないでください、そういうことに」
アルヴェインが、一瞬だけ目を向けた。
それから、前を向いた。
「……心配性だな」
「するに決まっています」
言い返してから、少し恥ずかしくなった。
でも撤回はしなかった。
砦に着くと、私はすぐにアルヴェインの傷の手当てをした。
鎧を外させると、右肩の傷は予想通り深かった。
縫合が必要な傷だ。
「痛くしますよ」
針と糸を持ちながら言うと、アルヴェインが短く言った。
「いい」
手当てをしながら、力を少しだけ流した。
傷の回復を促す、ほんの少しだけ。
体の奥がまた重くなったが、これくらいは構わなかった。
縫合が終わって、包帯を巻いていると、アルヴェインが静かに言った。
「ありがとう」
「お礼を言うのは私の方です。今日、何度守っていただいたか」
「数えていたのか」
「三回です」
アルヴェインが、かすかに目を瞬いた。
それから、口の端が少し動いた。
笑った、のかもしれない。
「よく見ている」
「大切なものは、ちゃんと見ます」
言葉が出てから、今度こそ顔が熱くなった。
アルヴェインも何も言わなかった。
でも、包帯を持つ私の手に、一瞬だけ彼の手が重なった気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、気のせいではない気もした。
砦の窓から、戦場跡の野が見えた。
霧は晴れていた。
空が、高く青い。
今日もここを守った。
それだけが今は、確かなことだった。




