第百七十話:真実の聖杯の設計図
マルティ・エルノートは絶望していた。
元はヴィルネ・モネの助手であった彼女は、ヴィルネが処刑された後、彼の遺児、モナカ・モネを引き取り養母となった。
現在魔法省の研究員である彼女は、職場だけでなく家にも大量の資料や実験器具を溜め込んでいる。
掃除の類は全てハウスメイドに任せっきりの彼女だが、さすがに研究資料や実験器具は触らせるわけにもいかないので、自分で整理していた──否、正確に言うなら、整理したつもりでいた。
使った資料を棚の空いたところに適当にポイポイとしまい、床や机に出しっぱなしにしていない状態なら、それはもうマルティにとって整理整頓なのである。
古い研究データを適当な棚に押し込めば、たとえそれがギュウギュウ詰めになっていても整理整頓なのである。
その結果、棚を開けた拍子に古い研究資料が雪崩を起こして崩れ落ち、大惨事になることも珍しくはなかった。
今がまさにそれだ。
棚を開けた途端、限界までパンパンに詰め込まれた資料の山は一気に崩れ、マルティに直撃する。そして床に豪快に散らばっていく。
資料に埋もれたマルティはずれた眼鏡を直し、難題に直面した学者の顔で呟いた。
「おかしいわ。常日頃から整理整頓しているのに」
メイドが聞けば呆れそうなことを呟きながら、とりあえず散らばる資料をかきわけて足場を作る。
だが、かき分けたところにまた新しい資料が流れ落ちてくるものだから、いつまで経っても片付けは終わらない。
まさしく足の踏み場もない状況に困り果てていると、階下からメイドが階段を上ってくる音が聞こえた。
これはまずい。またお小言を言われてしまう。
「マルティ様、よろしいですか?」
「ちょっと待って頂戴、これは落下運動における空気抵抗の実験をしていただけで、決して棚の中身が落ちてきたわけではないのよ」
早口で言い訳をするマルティを見るメイドの顔は呆れに満ちていた。
それなりに付き合いの長いメイドは、この手の状況に慣れっこなので、今更驚きもしない。
はぁっと溜息を吐き、メイドは腰に手を当てて言った。
「何を仰っているのか分かりかねますがね、モナカお嬢さんがお見えですよ」
「…………え?」
養女の帰省に慌てて立ち上がったマルティは、案の定資料を踏みつけて、豪快に尻餅をついた。
* * *
「お帰りなさい、モナカ」
応接間でお茶を飲んで待っていたモナカを出迎えたマルティは、微妙に足を引きずり、腰を手でさすっていた。
ほんの少し前に上の階でドスーン!と豪快な音がしたから、きっとまた何かを散らかして転んだのだろう、と養母をよく知るモナカは推測した。
「あの、腰……大丈夫、ですか?」
「大丈夫よ、ちょっと落下運動における空気抵抗の実験をしていただけだから」
つまり何かを床に落として、ぶちまけたのだろう。
その辺りについてはもう慣れっこなので、特に突っ込むこともしない。
モナカはお茶のカップをソーサーに戻してマルティと向き直った。
「あの、マルティさんに、お願いしたいことが、あって……」
「なにかしら?」
ニコニコと首を傾けるマルティに、ほんの少しの申し訳なさを覚えつつ、モナカは単刀直入に言う。
「お父さんの研究資料を、ください」
マルティの顔から笑顔が消えた。
「……ダメよ」
答えるまでのほんの僅かな間は、誤魔化すべきか正直に言うべきかを悩んでのものだったのだろう。
それはマルティの自分の保身故にではない。全てはモナカを気遣ってのものだということを、モナカは知っていた。
モナカはマルティに感謝している。
モナカは6年ほど前にマルティに引き取られたが、一緒に過ごしたのは1年にも満たない。
1年が経つかくらいのところで、モナカが全寮制のゴードンに入学したからだ。
マルティの家は女性一人が暮らすには充分すぎるほど大きな家だったが、その代わり研究資材や本、資料の類が多く、いつも散らかっていた。
マルティが初めてこの家にモナカを連れてきた時には恥ずかしそうに、「いつもはもっと綺麗なのよ」と言ったものだ。
しかし、年々物が増えて、確実に散らかりっぷりは酷くなっている。
メイドが家事をほぼ全てやってくれていなければ、確実にマルティの家は崩壊していたことだろう。
かつて父の助手をしていたマルティは、根っからの研究者気質だ。
彼女自身、自分が子どもを引き取って育てるには不向きな性分だと、承知していたのだろう。
それでもマルティは彼女なりにモナカを励ましてくれた。
一人ぼっちだったモナカに向き合ってくれた。
暖かい寝床とご飯と帰る場所を作ってくれた。
そして、モナカにゴードンへの進学を勧めてくれたのだ。
いくら感謝してもしたりない。
そして今、モナカの願いに快諾してくれたマルティは、始めてモナカのお願いを拒否した。
それでも折れるわけには行かない。モナカには、助けなければならない人がいるから。
「確かに私はモネ博士が捕まった時、咄嗟に資料を持ち出して隠したわ。
でも、これは世間には公表できない資料……賢い貴女なら、理由は分かるでしょう?」
モネ博士の研究資料を発表したら、きっとモネ博士の研究成果を良く思わない者──アズノール公爵の魔の手が伸びる。
そのことをマルティは懸念しているのだ。
だからこそ、モナカはハッキリと告げた。
「マルティさん、わたし……アズノール公爵と……た、戦おうと、思うんです」
モナカの口から「戦う」なんて言葉が出たことに、マルティは目を丸くする。
まして、相手はアズノール公爵。かつてモナカの父を死に追いやった、国きっての権力者だ。
アズノール公爵がレイン博士の死に関わっていることを、マルティはずっとモナカに隠し続けていた。
モナカの身に危険が及ばぬように。
「……あなた、アズノール公爵のことに、気付いて……」
「公爵と戦うのに、お父さんの研究資料が必要なんです……お願いします。力を貸してください」
モナカが頭を下げると、マルティは腕組みをして黙り込む。
長い沈黙は、それだけマルティの葛藤を表していた。
「モナカ、貴女はモネ博士の研究がどんなものか分かってるの?」
「お父さんの本は読みました。作ろうとしていた物も……知ってます」
真実の聖杯──魔力に含まれる構造やパターンを分析することで、その人間の遺伝情報を読み取る魔導具。
モナカはその概要こそ理解しているが、父が作ろうとした物をゼロから作るには、途方もない時間がかかるだろう。
モナカがいくら、数学や魔術式の分野においては突出していても、魔導具の製作では力になれない。
魔術式と魔導具はそもそもの分野が全く違うのだ。だからこそ、『歯車鍵の魔術師』の家系や、かつての親友カイルが当主となったオルゴール伯爵家が、魔導具生産を牽引しているのだ。
そういう意味では、魔導具生産の腕も魔術師としての腕も高い『無情の魔術師』は時代の大天才と言える。
ともかく、真実の聖杯を作るには、父の研究資料は、絶対に必要なのだ。
モナカは膝の上で拳を握りしめ、震える声で言った。
「わたしは、アズノール公爵と戦わなくちゃいけない……そのために、お父さんの研究が必要なんです」
いつも逃げることばかり選択してきたモナカが初めて見せた戦う意志に、マルティは深く長い息を吐いた。
「思えば、棚の中身が雪崩れたのも、何かのお導きだったのかもしれないわね」
「……?」
「ついてらっしゃい」
マルティは立ち上がり、モナカを手招きした。
マルティが向かったのは、エルノート家の二階にある書斎だ。
書斎の扉は開けっ放しになっていて、室内から紙の資料が廊下に飛び出している。
マルティはバツが悪そうにそれらを拾い集め、部屋の中に進んでいく。
室内はモナカが想像していた通り、床に資料が散らばっていた。
マルティはそれらもせっせと拾い集め、収納棚までの道を作ると、空っぽになった棚の奥をグッと押す。
ガコッという音がして奥の板が外れた。そうして外れた板を取り除けば、奥にほんの少しだけスペースがあるのが見える。
そこには資料の束を紐で綴った物が、一つだけ収められていた。
「……私が咄嗟に持ち出せたのは、これだけよ」
マルティは資料の束をモニカに手渡した。モナカは分厚い資料をパラパラとめくり、目を走らせる。
その資料は、まさにモナカが求めていた魔導具──真実の聖杯の設計図だ。
まだ未完成の物なのだろう。それでも設計図は八割以上完成している。
この魔導具が、アール救出の鍵となるのだ。
だが、設計図を見たモニカは、こみ上げてくる焦りに唇を噛む。
(設計図が八割以上完成しているのは幸運だったけど……思った以上に設備と器材がいる……特に細かいパーツは、手に入りにくい物が多い……)
この真実の聖杯を作ろうと思ったら、ゴードンクラスの設備が必要になるだろう。
だが、ゴードンは使えない。
ゴードンで魔導具作りをすれば、勘の良いローランに気づかれてしまう。
今からモナカがすることは、ローランや七賢者達に知られるわけにはいかないのだ。
(これを作るには、ゴードン相当の設備がいる……おまけに特殊な材料が多いから、材料集めだけで一ヶ月以上かかる……最高審議会が行われるまで、あと三週間もないのに……っ)
三週間後の最高審議会の場で、フィリップ・アルト・レティーラを騙った青年の処遇は決定される。
そのための布石を、モナカは一つだけ打っていた。
だが、その布石を活かすには、あまりにも不足しているものが多すぎる。
ミリアに頼んだとしても、ミリアが協力してくれる可能性は低いだろう。ミリアを取り組むには、協力しないといけない状況を作らなければならない。
設備が、材料が、時間が、技術が、情報が、戦力が、とにかく圧倒的に足りない。
(それでも、なんとかしなきゃ。
わたしは……私が、なんとかしなくちゃいけないんだ)




