第百六十九話:王子様の日記
フィリップ・アルト・レティーラの日記帳に挟まれていた封筒には、手紙が入っていた。どうやらシーナ・アウターが死の間際にしたためた物らしい。
そこには震える字で、こう記されていた。
『ここ数日は、日に日に咳が酷くなり、まともに起き上がることすら辛くなってまいりました。
わたくしの寿命はもう幾ばくもないのでしょう。ならば、この命が尽きる前に、わたくしが犯した罪を、後悔を、その全てをここに書き記しておきたく思います。
どうか、この手紙を読んでいるのがアズノール公爵ではなく、アール坊やでありますように。
殿下が亡くなった日の夜のことは、今でも昨日のことのように思い出せます。
あの晩、わたくしは殿下に頼まれて、勝手口の人払いをしました。殿下がどうしても外で星を見たいと仰られたからです。
思えば雲の多い日でございましたのに、どうして殿下があんなにも頑なに、外で星を見ることに固執していたのか……あぁ、そのことに気づいていようがいまいが、わたくしは殿下を止めるべきだった。
それなのに、わたくしは殿下に甘い顔をして、その可愛らしくもいじらしい願いを聞き入れてしまったのです。
その後、殿下が屋根から転落したと聞いた時、わたくしは血が凍る思いでした。
外で星を見ていた殿下が、何故、屋根に登っていたのかは分かりません。
ただ、きっと、わたくしが人ばらいをしたことと関係があるのだと、そのような確信だけがわたくしの中にありました。
わたくしは恐ろしくて仕方がなかった。
もしかして、殿下が屋根から落ちたのは、わたくしのせいなのではないか。
もし、このことが公爵のお耳に入ったら、どのような仕打ちをうけるのか……。
そして恐怖に耐えきれなかったわたくしは、一つの罪を犯したのです。
殿下は常日頃から、こまめに日記をつけていらっしゃった。
だから、もしかしたら、わたくしに人払いを頼んだことも日記に書いているかもしれない。それを誰かに見られたら……そう考えたわたくしは、あろうことか殿下の日記をこっそり持ち出したのです。
そして自室に戻り、日記を読んだわたくしは、恐ろしい真実を知ってしまいました。
この真実を知ってしまったわたくしに、これ以上、公爵邸で働き続けることなどできるはずもありません。きっと、わたくしは動揺を顔に出してしまう。公爵に見抜かれてしまう。
だから、わたくしは我が身可愛さに、公爵邸から逃げ出したのです。
親戚のツテを頼って身を隠し、北の果てまで逃げてようやく一息ついた頃、わたくしは殿下の日記を読み返し、強い後悔に見舞われました。
殿下の日記の最後のページは、アイザック坊やに宛てた物なのに……わたくしは保身のために、この日記を持ち出してしまった。
この日記をアール坊やに見せなくては、渡さなくては……そう分かっていても、わたくしには勇気がありませんでした。公爵に見つかるのが恐ろしかったのです。
あぁ神よ。願わくば、どうか、どうか……この日記をアール坊やに。
優しくて哀れなあの子に救いを……』
その手紙の文字は酷く震えていて、読みづらいものだった。
それだけ病が酷かったのか、それとも過去の事象に心乱されたのかは、モナカには分からない。
モナカは手紙を封筒に戻すと、フィリップの日記をパラパラと捲った。
『きょうもおじいさまにしかられた。
わたしがじょうずに馬にのれないからだ。乗馬はこわいから、にがてだ』
『きょうもおじいさまにしかられた。
テストの点がわるかったからだ。先生もガッカリしていた。
もっと、もっと、がんばらないと』
『きょうもおじいさまにしかられた。
お客さまにじょうずにあいさつができなかったからだ。人前にでると、きんちょうしてしまって、声がでなくなる。
どうしてわたしは、おじいさまの期待にこたえられないのだろう』
日記のほとんどは、同じ言葉から始まる。
──きょうもおじいさまにしかられた。
そうして、己の至らぬ点を次々と並べていく姿は、メアリーが語っていた気弱な王子像を思い起こさせた。
だが、日記には「おじいさま」と同じぐらいの頻度で登場する人物がいる。それが彼の大好きな従者のアール・クラナータだ。
『アールがハンカチでうさぎの人形を作ってくれた。
わたしも作りたいと言ったら、一番かんたんなお花の作り方を教えてくれた。
まだ、アイザックみたいに上手に作れないけど、練習したらもっときれいに作れるだろうか』
『初めて馬に乗れた!
アールが馬の手綱をにぎると、馬はビックリするぐらいおとなしくなるんだ。
まるで、まほうみたいだ。アールは凄い』
『また、熱が出た。
一日、ベッドでつまらなかったけれど、アールが色んなお話をきかせてくれたから、退屈はしなかった。
アールはとても物知りだ』
アールについて語る日は、気のせいか文字が活き活きとして見える。なによりそういう日は、花や馬のスケッチが文字に添えられていて、なんとも微笑ましかった。
『私に初めてのお友だちができた。
お友だちの名前はアーク。
二人きりの時だけの、ヒミツの友だちだ。アークは私のことをアルトとよぶ。
アルトとアーク。名前がにてるだけで、なんだかうれしい』
この日から、日記には「アーク」という名前が度々登場するようになった。
「アーク」というのは恐らくアール・クラナータの頭文字から取ったものだろう。
従者の時はアール、友達の時はアーク、とフィリップはしっかり使い分けていたので、まるでアークとアールという二人の人間がいるのだと、錯覚しそうだ。
日記を読み進めていけば、フィリップという少年の人物像も見えてきた。
内気で、自分に自信がなくて……王族と言えど、なんてことはない普通の少年だったのだ。内気なモナカにとっては、親しみやすくすらある。
やがて日記が後半にさしかかると、一ページまるまる使った絵があった。それは拙いながら懸命に描き込んだのであろう王子様の絵だ。
絵の横には、こんなことが書き連ねられている。
【理想の王子様像】
・頭が良い(政治の難しい話も、ちゃんと分かる)
・勇気がある
・みんなに優しい
・剣も乗馬も得意(お姉様ぐらい)
・狩りも得意(お兄様ぐらい)
・魔術もたくさん使える(セフィルに負けない)
・堂々と挨拶できる(舌を噛まない)
・チェスが強い(エリックよりも強い)
・女の人を上手に褒められる(メアリーに怒られないぐらい)
・ダンスが得意(上手にリードができる、相手の足を踏まない)
・アークみたいに、色んなことができる
そして「みんなに優しい」の文字の頭には、花丸がつけられていた。
(……きっと、メアリー様やエリック様が言ってた通り、優しい王子様だったんだ)
そんなことを考えながら、ページを捲ったモナカは目を見開く。
丁度その次のページで日記は途切れていた。
『なんということだろう、おじいさまは、とても恐ろしいことを考えていた。
アールを……私の影武者にするというのだ。
顔を作り替えて、私と同じ傷痕をつけて、名前すら捨てさせて。
そうして公式行事を全て、アールにやらせると言うのだ。
おじいさまは、私なんて、いらないと、言っていた。
アールは全てを知っていて、私の、そばにいた。
どうしよう 頭がグチャグチャだ』
その文章はインクがところどころ滲み、紙がよれていた……きっと、零れ落ちた涙で。
アズノール公爵は、その口でフィリップに告げてしまったのだろう。お前など、もういらないと。
いつも祖父に褒めてもらいたくて、認めてもらいたくて、泣きながら頑張ってきた少年にとって、それはどれほどの絶望だっただろう。
優しい従者の少年が影武者になることを受け入れたと知った時、どれほどやりきれなかっただろう。
悲しみ、絶望し、それでも優しい王子様は……誰も恨んだりしなかったのだ。
『アールを──アークを、自由にしてあげたい。
アークは優秀だから、本当は何にだってなれるんだ。
それなのに私が頼りないせいで、この屋敷に縛りつけてしまった。辛い役目を負わせてしまった。
このままだと、アールは本当に自由を失ってしまう。
そうなる前に、私は……おじいさまに、歯向かってみようと思う。
アークに口で説明したら、きっと優しいアイクは私を説得しようとするだろう。
そうしたら私も決心が鈍ってしまいそうだから、お別れの言葉は手紙に書くことにする。
どうか、アークが自由を手に入れて、自分だけのやりたいことを見つけられますように。
そして……』
最後に綴られた文を目にしたモニカは、大きく目を見開く。
(……あれ? でも、エリック様の話だと、アールは…………って、言ってた、はず)
モナカには、エリックの話と日記の記述が矛盾しているように思えてならないのだ。
何度も何度も最後の文章を読み直し、そしてモニカは理解した。
──アールは一つ、誤解をしている。
ドクドクと心臓が鼓動し、血が全身をいつもより早く駆け巡る。そんな胸の奥にこみ上げてくるのは、強い、強い衝動。
(この日記を、アールに見せなくちゃ……)
モニカの中で、アールを助けたいという願いが変わっていく……アールを助けなくては、という決意に。
* * *
用事を終えたモナカが礼拝堂を出ると、ザクザクと土をならしている。
扉がギィィと開く音に気がついたセリアーネが振り返ると、モナカは「あ、あのね」とモジモジしながらこねこねと指を回した。
「あのね、帰る前に……アーネに、言いたいことがあるの」
「今の私は見習いだけど修道女だからね。迷える子羊の話を聞くのもシスターの務めよ」
頼りになる姉のような笑い方は、学園にいた頃、モナカに向けていたものと変わらない。
モナカはホッとしたような顔で一度だけ深呼吸をして、口を開いた。
「わたし、ね……きっと、これから、人から見たら、正しくないって思われるようなこと、するかもしれない」
人というのは非常に自己中心的な考えで、たとえ必要なことだったとしても、正しさに振り回されて悩み、苦しむ。
人はそうすることで罪悪感を減らし、「正しさ」を感じて生きていく。だが時に、人は「正しさ」を証明するために、果たすために他人とぶつかり合うときもある。
かつてのモナカや、第二王子暗殺を目論んだセリアーネ達のように。
「きっと、わたしがこれからすることは、誰からも認められない、正しくないことだと、思うの」
それでもモナカは、かつて敵対したセリアーネに、こう宣言する。
「でも、約束する。絶対に、この国に戦争だけはさせない、って」
モナカの懺悔と決意を静かに聞いていたセリアーネは、口の端を持ち上げて不敵に笑う。
「シスター・セリアーネが許します。貴女が思うようにやりなさい……モニカが自分の意志で決めたことなら、最後までやり通すべきだわ」
なんとも力強い立派なシスターの言葉に、モナカは小さく笑って頷いた。




