第百六十八話:ブラックオートの修道院にて
2月を過ぎれば、レティーラ王国はめっきり春めき、森は新緑の色に染まるものだが、王国北部のブラック山にはまだまだ日陰に雪が残っている。
そんな冬の気配が色濃い山道を、厚手のコートを着込んだ若い修道女が歩いていた。
ただ、修道女、と呼べるのは彼女が修道女の頭巾をかぶっているからで、それ以外はとても修道女とは思えなかった。その修道女は背中には木を編んだ籠を背負い、手にはボウガンを握りしめている。
ザクザクと霜のおりた土を踏みながら歩く修道女は、その場にしゃがみ込み、獣の足跡を確認するついでに、春の山菜をプチプチと摘んで背中の籠に放り込んだ。
(今日は山菜ばかり見つかるわね。できれば、食卓にお肉も欲しいのだけれど)
宗派によっては聖職者に狩りや肉食を禁じている地域も珍しくないが、彼女が仕える精霊神は狩りも肉食も禁じていなかった。食糧が手に入りにくい痩せた北の土地では、狩猟で得た肉は貴重な栄養源だからだ。
彼女が暮らす修道院は年を取った女が多いので、若い修道女である彼女が主な食料調達係だった。月に二度ほど町に下りて買い物に行くが、新鮮な肉はなかなか手に入る物ではない。
久しぶりに脂ののった肉が食べたいなぁ、と密かに唾を飲んでいると、彼女の耳は微かな足音をとらえた。足音は徐々にこちらへと近づいてくる。
獣というのは、自分を脅かすものに警戒するもので、わざわざ狩人に向かってくることは少ない。
怪訝に思いつつボウガンを構えた修道女は、木の影から見えた影に目を丸くする。
「ひぁあっ、ままま待って、ううう、うた、うたた、撃たない、でぇ……っ」
ブルブルと震えているのは、ローブを羽織った小柄な少女だ。
修道女──セリアーネ・サザンドールは、その少女を知っている。
レティーラ王国における魔術師の最高峰、七賢者が一人『沈黙の魔女』モナカ・エルノート。
「…………モナカ?」
セリアーネがボウガンを下ろしながらモナカの名を口にすれば、モナカはへなへなと脱力しながら、頼りなさげに笑った。
「久しぶり、アーネ」
* * *
「そこ、滑りやすいから気をつけて」
「うん、わ、わわっ……」
注意されたそばから転びそうになるモナカの腕を、セリアーネが慌てて引っ掴む。
「大丈夫?」
「う、うん……あり、がとう」
モナカがもじもじと礼を言えば、セリアーネは気まずそうに頬をかいて、また先を歩き出した。
セリアーネと最後に言葉を交わしてから、もう何ヶ月が経つだろう。
セリアーネはもう、モナカのことを友達だと思ってはいないのだろうけれど、モナカはまだセリアーネのことを友達だと思っている。
それでも、ここでモナカが友達気分であれこれ話しかけたら、きっとセリアーネを困らせてしまうだろう。彼女は優しいから、嫌な顔こそしないだろうけれど。
気まずく黙り込んだまま歩く二人は、やがて古びた修道院に到着した。ここが今、セリアーネが身を寄せている施設なのだ。
セリアーネは修道院の扉を開けた。
静謐な礼拝堂の中では、一人の修道女が礼拝堂の掃除をしていた。
丸い眼鏡をかけた、少し厳しそうな雰囲気の老女だ。セリアーネがかぶっている頭巾と色が違うから、おそらく位の高い修道女なのだろう。
「シスター・ラーマ。お客様です」
セリアーネはモナカを中に通しつつ、小声で「ここで一番偉い人よ」と耳打ちしてくれた。
モナカは居住まいを正して、挨拶をする。
「は、初め、まして……」
「ようこそ、お客人。このような何もない僻地の修道院にまで祈りにくるとは、とても信心深い方なのですね」
告げる声はどこか冷たく突き放すような空気があった。少なくとも歓迎はされていない。
この僻地にある修道院は、訳ありの人間が行き着く場所でもあった。当然、礼拝客など殆ど訪れない。
だからこそ、警戒されているのだろう。
モナカは精一杯背筋を伸ばすと、緊張に声を震わせながら、己の目的を口にする。
「わ、わたし、会いたい人が、いて……その方が、この修道院に、身を寄せていると、聞いて、やってきました」
「その者の名前は?」
探るような目を向けるシスター・ラーマに、モナカは顎を引いて答える。
「……シーナ・アウターさん、です」
シーナ・アウター。それは、かつてアズノール公爵邸に勤めていた侍女頭の名前だ。
『繁茂の魔女』ラウル・アウラバァラの協力のもと、アズノール公爵邸に潜入した時、モナカは庭師に、フィリップ殿下は誰になついていたのかを聞いていたのだ。
そして聞いたのが、侍女頭のシーナである。
だから、シーナに会えば、幼い頃のフィリップやアールの話が聞けるのではないかと、モナカは考えたのだ。
しかし、シーナの居所をネイアに調べてもらったところ、意外なことが判明した。
本物のフィリップ王子が亡くなった直後に公爵家の仕事を辞めたシーナは、その後は行方不明という扱いになっていたのだ。
どうやら彼女は親戚のツテを頼って土地を渡り、人の少ないこの修道院に身を寄せていたらしい。
そこまでしてシーナが身を隠している理由は何なのか。
……恐らく彼女は知ってしまったのだ。
アズノール公爵にとって都合の悪い真実……第二王子とアール・クラナータの入れ替わりを。
「シーナ・シーナさんに、会わせてもらえません、か?」
「できません」
シスター・ラーマは、きっぱりと言い放つ。
モナカが食い下がろうとすると、シスターは片手を持ち上げてそれを制した。
「何故なら、シスター・シーナは一年前に肺炎で亡くなっているからです」
あぁ、とモナカは吐息を溢す。
アールのことを知る数少ない人物が亡くなっていたという事実は、素直に胸が痛かった。
「貴方はシスター・シーナの血縁者なのですか?」
シスターの問いにモナカはゆるゆると首を横に振る。
「……いいえ」
モナカはシーナという侍女頭のことを人伝に聞いただけだ。どんな人物なのかすら、ろくに知らない。
どう話したら良いものかとモナカが躊躇っていると、シスターは礼拝堂の椅子に目をやり「おかけなさい」と静かに促す。
モナカがおずおずと腰掛けると、セリアーネが「それでは、私はこれで」とシスターに一礼し、そのまま礼拝堂を出ていった。
おそらく、自分が聞いてはいけない話だと判断し、気を利かせれくれたのだろう。
「さあ、お聞かせください」
シスターはまるで懺悔を待つかのように、モナカを見つめた。
その静かな顔には聖職者特有の穏やかさと厳しさが両立している。それは、どんな話でも受け止めてくれる穏やかさと、虚言を許さぬ厳しさだ。
モナカは自分でも上手く整理できていない言葉を、なんとか形にして絞りだす。
「わたしの…………知り合いの人が、大変なことに、なってるんです」
──知り合いの人。
口にすると、なんて薄っぺらい響きだろうと改めてモナカは思う。
それでもモナカは、アールの存在をどう定義づければ良いのかが分からなかった。
アールにとって、モニカはフィリップを思い出させる人物だ。
学園での彼にとって、モナカは生徒会の後輩だ。
そして彼にとって『沈黙の魔女』は尊敬する偉大な魔術師だ。
だが、モナカにとっての「彼」は何なのか、と問われたら、モナカは上手く言葉にできない。
だから「知り合いの人」としか言えない。
「その人は……あることに、執着していて、わたしは、その人が、何故そこまでするのか、理解できなかった」
「でも、理解したいと考えているのですね」
「……はい」
そうだ。モナカはアールのことを少しでも理解したかったのだ。だから、こうして北の土地までやってきた。
「シーナさんは、その人のことを知っている数少ない人だから……会って、お話が聞きたかったんです」
シーナからアールと亡きフィリップ王子のことを聞けば、アールの執着を理解できるかもしれないと思っていた。
……結果は、空振りだったけど。
消沈するモナカに、シスターは問う。
「その人物が大変なことになっているとのことですが、貴方はその人物のことを助けたいのですか?」
「はい」
その言葉は、驚くほどするりと出てきた。
そうだ。モナカは助けたいのだ……妄執に取り憑かれながら、それでも、魔術や『沈黙の魔女』に目を輝かせてしまう子どもっぽい一面もある、あの人のことを。
モナカはいまだに、自分がフィリップのことをどう思っているのか、定義づけができない。
アーリアは友人、ラークは尊敬する先輩、ならアールは?と問われると、モナカは答えに詰まってしまう。
強引に生徒会に勧誘して、モナカのことをいつもからかっていた。
歓楽街では、唯一残ったと言ってもいい父の本を贈ってくれた。
『沈黙の魔女』として会った時は、尊敬の眼差しを向けてくれた。
自分がヘッケランに誘拐されれば、ラークと共に怒ってくれた。
たとえ、彼のしてきたことが許されなくても。
モナカの父の死に深く関わっているとしても。
それでも、モナカは彼のことを憎みきれない。
魔術が好きなのだと少年みたいに目を輝かせていた彼を、また見たいと思ってしまうのだ。
「わたしは、あの人を、助けたい、です。だからこそ、あの人のことが、知りたい」
自分に言い聞かせるように言葉を紡げば、モナカを見るシスターの顔から厳しさが消えたような気がした。
「その方の名前は、なんと仰るのです?」
「アール・クラナータです」
モナカがその名を口にすると、シスターは何やら考え込むように黙り込んだ。そして「しばしお待ちなさい」と言いおき、礼拝堂を出て行く。
(……どうしたんだろう?)
モナカが怪訝に思っていると、シスターはすぐに戻ってきた。その手に、小さな布包みを大事そうに抱えて。
「これを、どうぞ」
そう言ってシスターは布包みをモナカに差し出す。重さと手触りから察するに、本だろうか。
モナカが困惑顔でシスターを見れば、シスターは少しだけ何かを懐かしむような顔をした。
「これはシスター・シーナの遺品です。
彼女は死の間際にこう言いました……『もし、アール・クラナータという人物が訪ねてくることがあれば、これを渡してほしい』と」
「……わたしが、預かって、いいんです、か?」
戸惑いがちに訊ねれば、シスターは目を伏せる。その横顔には、いかにも人間らしい葛藤が滲んでいた。
「貴方の様子から察するに、クラナータ氏本人がここを訪れるのは難しいのでしょう。ならば、わたくしの独断で貴方にこれを託します」
シスターは皺だらけの指で布包みをそっと撫でる。悼むように、慈しむように。
「シスター・シーナは常に何かに怯え、後悔していました。彼女は死の間際まで、魘されながら、誰かに謝り続けていた……貴方にこれを託すことで、シスター・シーナが女神の膝下で安らかに眠れることを、わたくしは願っています」
モナカは一度だけ頷き、布包みをそっと開く。
包みの中身は一冊の日記帳だ。それと、日記の一ページ目には封筒が挟まれている。
日記帳はだいぶ古びていたが、装丁や箔押しなどの手のこんだ装飾から察するに、決して安い物ではないのだろう。
これはシーナの日記なのだろうか?そう思いながら封筒の挟まったページを開いたモナカは、目を丸くする。
そこに綴られている文字は辿々しくも拙い、子どもの字だ。
(……これ、は)
そう、それは今は亡き本物の第二王子、フィリップ・アルト・レティーラの日記帳だった。




