第百六十六話:ラーク・ヴェルトン
エリックは全てを語り終えると、長い長い溜息を吐いた。
その顔に少しだけ疲労の色が滲んでいるのは、喋り疲れか、或いは過去の強い感情にあてられたからか。
エリックが背もたれに背中を預けるのとは対照的に、メアリートはテーブルの上で手を組み、組んだ手を額に押し当てるようにして、俯いていた。
その美しい横顔は硬く強張っている。
「……まさか、あの時の従者が……あぁ、確かにあの男なら、殿下の思い出を共有しているのも頷けるわ……いつだって、あの従者は殿下のそばにいたんだもの」
呟く声はどんどんか細くなる。
何度も何度も口を開くも声が出ない。メアリーは震える手を押さえて、ただの事実を口に出す。
「……もう、殿下は……亡くなっていたのね」
ポツリと落ちた呟きは、メアリーの静まる感情を表していた。
メアリーは本物のフィリップの死を薄々悟ってはいたものの、それでも、まだどこかで希望を捨てきれずにいたのだろう。
本物の殿下は生きている、どこかに幽閉されているだけだ……と。
「……それも、あの従者のために、自ら命を絶った、なんて……」
メアリーの悲痛な呟きを聞きながら、モナカはそっと目を伏せた。
モナカは既に本物のフィリップが死んでいることも、今の第二王子がアール・クラナータという元従者で、公爵邸の火災で本物と入れ替わったことも知っている。
けれど、モナカが知っているのは過去に起こった「事実」だけ。
その時、彼が何を思っていたのかも、何を願っていたのかも、モナカは知らなかった。
エリックやメアリーと違い、モナカは従者時代のアールを知らないのだ。
(……なんで、公爵の言いなりなんだろう、って思ってたけど……)
エリックの話を聞いて分かった。
あの人は、人々の記憶に残したかったのだ。
アール・クラナータを逃すために死んだ、彼の主人──フィリップ・アルト・レティーラの名を。
そのために彼は顔も名前も捨てて、公爵の言いなりになった。
たまに彼の目に宿る妄執の火は全て……この真実に繋がっていたのだ。
黙り込むモナカとメアリーに、エリックは軽く笑いながら肩をすくめる。
笑っているけれど、その笑顔はどこかぎこちない。
おどけようとして失敗したみたいな顔だった。
「正体を見抜けなかったことを後悔しても仕方ないさ。
アイツの演技は、気持ち悪いぐらい完璧だったんだからな。
ただ皮肉なことに、あいつは俺に対する嫌悪を隠しきれず、結果、一番嫌いな俺にだけ正体がバレてしまったと」
「マージェ様は……今でも、あの人を、愚かだと思いますか?」
平民の身でありながら、王子を名乗る大罪人。それは階級至上主義のエリックにとって、最も忌むべき存在だ。
それなのに、どこかモナカには、エリックがフィリップを
「そう思い切れたら、どれだっけ楽だったと思う?」
エリックは背もたれにぐったりと背中を預け、前髪を雑にかき上げながらぼやいた。
「あぁ、そうだな。
ラークのヤツやオルフェ嬢みたいに、努力と才能で身分の壁を乗り越える奴がいることを、俺は知ってしまった。
そして、そういう奴らを簡単に否定できないことも!
全く、我ながら意志が弱くて嫌になるぜ……あんな偽物王子なんて、さっさと処刑されればいいって、ずっと思ってたのに!」
「……どういうことだ」
入り口の方から聞こえた声に、三人はギョッと振り返った。
生徒会室の扉が少し開いている。そこには、もう死にそうな顔色のラークが立ち尽くしていた。
その背後にはニーアおアーディアもいた。
「聞いてたのかよ……」とエリックが呟けば、ラークは狼に匹敵するような素早さでエリックに詰め寄り、胸ぐらを掴む。
「どういう…ことだっ!
殿下は……っ、殿下は、私と出会った時から、もう偽物だったと言うのか!?」
ラークの叫びは、半ば悲鳴じみていた。
そんな子供のように喚くラークにエリックは哀れみの目を向ける。
「今の話を聞いてたんなら分かるだろ。そうだよ、殿下は十年前から偽物さ。
お前が中等部で出会った時には、もう入れ替わった後だった」
「デタラメだっ!」
ヒステリックに叫ぶラークに、エリックはゆるゆると首を横に振る。
「お前がデタラメだと思いたいんなら、そうすりゃいいさ。
だが、現実にあいつは偽物で、そしてこれから大罪人として処刑されるだろう……大方、何かヘマをして、公爵の逆鱗に触れたんだろうぜ。馬鹿なやつ」
「……っ、このっ!!」
ラークはエリックに向かって拳を振り上げる。
だが、拳を振り下ろすことなく、そのままブルブルと震え、動かなくなる。
平民出身のラークにとって、自分を見出してくれたフィリップは絶対的な存在だ。
フィリップが認めてくれたから、ラークは自分に誇りを持てた。
そんなラークにとって、フィリップが偽物などという事実が、どれだけ残酷なものだったか、言うまでもない。
ラークはしばしフゥフゥと荒い息を吐いていたが、やがてエリックから手を離すと、生徒会室を飛び出した。
「ラーク様っ!」
モナカは慌ててラークの背中を追いかける。
ラークの背中は丁度、廊下の角を曲がったところだった。
だが、そちらは行き止まりの筈だ。鈍足なモナカは足を動かして、ラークを追う。
ラークは廊下の行き止まりで、壁に拳をぶつけて項垂れていた。
その背中にどんな言葉をかければ良いのか、モナカは躊躇う。
真実を知りながらモナカがそれを公にしようと思わなかったのは、アールに死んで欲しくないからであり、そして何より、今のフィリップ・アルト・レティーラを慕う人達のためでもあった。
──第二王子が偽物であると知ったら、きっと傷つく人がいる。
そう考えた時、真っ先に頭に浮かんだのがラークだった。
フィリップに見出され、そのことを誇りに思っていた彼にとって、フィリップの存在を否定されることは、自分の存在も否定されるに等しい仕打ちだろう。
「……実に、愚かな話だろう」
モナカがいることに気付いていた。ラークはモナカに背を向けたまま、鬱な声で呻く。
「私は殿下に選ばれたことを誇りに思ったことは」
ラークは何年も前、中等部のときにフィリップに見出されたときのことを忘れていない。
自分は殿下に選ばれたのだという誇らしさと嬉しさは、生涯忘れることはない。
そして、その誇りを持つかからこそ、自分と同じ平民で、フィリップに選ばれたモナカを大切な仲間と認め、ヘッケランから助け出したりもしたのだ。
だが、そんな誇りも今は、残酷な真実を前に粉々に砕け散ってしまった。
ラークは両手で顔を覆う。寒くもないのに、その体は震えていた。
「あの方が、罪人だと言うのなら、私は……私は、なんだったのだ?
あの方に見出されて、浮かれて、一人前になれた気になって……」
両手の下で、その薄い唇が引きつった笑いを浮かべる。
それは、常に高慢でプライドの高いラークらしからぬ……卑屈に歪んだ笑いだ。
「……まるで、道化じゃないか」
愚かな自分を嘲笑う、酷く掠れた自嘲の言葉。
けれど、それはラークが自身を嘲笑うよりも早く、モナカの心の奥に届いた。
一瞬で、モナカの頭が真っ白になった。
………
……
…
「違う!」
その強い否定の声が自分の口から出たものだと、モナカは一瞬気付かなかった。
それぐらい、考えるよりも先に飛び出た言葉だったのだ。
「違うっ、違うっ!……違いますっ!」
強い衝動がモナカの胸を揺さぶる。これは、この感情はきっと……悔しい、という感情だ。
地団駄を踏みたいほどの悔しさを胸に、モナカは叫ぶ。まるで駄々っ子のように。
「ラーク様は、すごいんですっ!
数字のことしか分からないわたしと違って、色んなこといっぱい知ってて、仕事を教えるのも上手で、周りのことよく見てて、いつも自信があって、堂々としてて……だからっ……、だから……っ」
自分でも何を言いたいのか分からない、支離滅裂な言葉ばかりが感情的に喉から出てしまう。
それでもモナカはスカートをギュッと握りしめ、衝動のままに口を動かす。
「……だから……わたしが尊敬するラーク様のこと、悪くっ、言わないで……」
ラークは呆気にとられた顔でモナカを見ていた。
モナカは気まずくなって俯く。
今になって、自分が酷く子どもなことを言ったのだと気がついたのだ。
ラークは何も言わない。
モナカがチラリとラークを見上げると、ラークは勢いよく顔を逸らした。
その横顔が赤く見えたのは気のせいだろう。
ラークはぐしゃりと前髪をかき乱しながら、「あー」だの「うー」だのと不明瞭な言葉を口の中で転がしていたが、やがて気まずそうに咳払いをした。
「……私が中等部に入学した時、侯爵家の養子である私は立場が低く、誰からも声をかけられなかった」
ラークが養子であることは、エリックから少しだけ聞いたことがある。
だが、ラークの口から彼の過去を聞くのは、これが初めてだ。
「そんな私に声をかけてくれたのが、あの方だ。
………侯爵家の人間だからではなく、私だから選んだのだと、あの方は仰ったのだ。
それが私は誇らしかった……私の実力を認めてもらえたのだと」
いつも滑舌の良いラークが、今は珍しくボソボソとした早口だった。
モナカがおずおずとラークを見れば、ラークは顔を覆っていた手を下ろす。
「あの方は肩書きを見ずに、私を選んでくれたのだ。
それなのに、私はあの方の肩書きが変わったことで、必要以上に取り乱して……なんと恥ずべきことか」
伏せられていた長い睫毛がゆっくりと持ち上がる。澄んだ青い目は真っ直ぐに前を見据えていた。
いつもの彼らしく。高飛車に、高慢に。
「あの時、私はあの方の力になりたいと思った。自分の意思で差し伸べられた手を取った。ならば、その時の私の意志を、今の私が裏切るべきではない、な」
しっかりと自分に言い聞かせるような強い声は、もういつもの生徒会副会長のラークのものだった。
「なにより、私は頼まれた。生徒会を任せると……ならば、任期が終わるまで副会長としての務めを全うするのみ」
モナカが泣き笑いのような顔をすれば、ラークはゴホンと不自然に咳払いをする。
「あー、つまり、だな。その…………み、見苦しいところを、見せたな」
「……そうね、見苦しいところばかり見せて…まさに、お似合い…って感じ」
ラークの肩がビクッと跳ね上がる。
モナカが振り向けば、廊下の角からセフィルの右半身だけがのぞいていた。
アーディアは美貌の令嬢であったが、体の半分だけをきっちり隠し、いっそ堂々と出てきてほしいぐらいには不気味である。
「……この廊下から生徒会室って、そんなに離れていないのよね……扉が開いてると、会話がダダ漏れなのはご存知?」
ラークが「うぐっ」と言葉を詰まらせる。モナカは頬を両手で押さえて訊ねた。
「も、もしかして、わた、わたた、わたしの、声、も……」
アーディアは首肯するかわりに、ニタリと邪悪に笑う。その笑顔が全てを物語っていた。
モナカの駄々っ子じみた叫びも、全部聞かれていたのだ。恐らく、エリック達にも……
「……今日が休校日で、良かったわね?」
モナカとラークは二人揃って耳まで真っ赤になった。




