第百六十五話:敬語を使わなかった理由
生徒会室に残されたモナカは、メアリーをチラリと横目で見た。
彼女は今にも倒れそうな顔色をしていたが、それでも気丈に背筋を伸ばし、テーブルの木目を睨んでいる。聡明な彼女のことだから、情報を整理し、今の状況を把握しようとしているのだろう。
一方エリックは腕を組んで座っていたが、おもむろに頭をかくと、椅子から腰を浮かせた。
「どうしてか落ち着かないな。茶でも飲むか?」
「結構よ」
落ち着かないと言う割に、エリックの方がずっと落ち着いているようにモナカには見える。
エリックはやれやれと肩を竦めると、再び席に戻った。そんなエリックにメアリーは琥珀色の目を向ける。
「随分余裕だこと。殿下の幼馴染みなら、もっと動揺しても良いのではなくって?」
「ピリピリしても仕方ないだろ。俺達にできることなんて何も無いんだから」
二人のやりとりを聞いていたモニカは、思わずエリックを見た。
「……マージェ様は、殿下と、幼馴染み、なんです、か?」
「まぁな、七歳かそこらの頃からの付き合いだ」
メアリーが幼少期のフィリップと知り合ったのも、それぐらいの年齢だったはずだ。
だが、エリックとメアリーはあくまで「フィリップの友人」という共通点があるだけで、この二人の間に交流があったわけではないらしい。
モナカは改めて、様々な疑問が腑に落ちるのを感じた。
(……そういう、ことだったんだ)
モナカは目を閉じ、過去にエリックに言われた言葉を思い出す。
モナカの中にあった幾つかの小さな疑問や違和感が、ようやく少し繋がった。
「……わたし、ずっと、不思議だったんです。マージェ様は身分にすごく拘る方なのに……どうして、殿下には敬語を使わないんだろう、って……」
モナカがぎこちなくそう言えば、エリックは垂れ目を細めて、薄く笑った。
「言ったろ。幼馴染みだって」
「それだけ、ですか?」
エリックがフィリップに対して敬語を使わなかったのは「幼馴染みだから」という理由だけでは、モナカは納得できない。だって、エリックは根っからの階級主義者なのだ。
平民は平民らしく、貴族は貴族らしくということにこだわる男なのだから、王族に対してはもっと敬意を払うのが当然だろう。
実際に、第二王女であるセフィルには、チェス以外では敬意を込めた敬語で話していた。
では、フィリップに対してそうしなかったのは何故か?
「……マージェ様は、もしかして、知っていたんじゃないですか?殿下が偽物だって」
メアリーがギョッと目を剥き、エリックを凝視する。
エリックはやはり薄ら笑いを浮かべたまま、面白がるようにモナカを見ていた。
「おいおい、オルフェ嬢。何を証拠に─」
「さっき、メランさんが殿下が連行されたって報告した時……マージェ様は、驚いていないように見えました」
あの時、モナカは咄嗟にメアリーを見て……そして気づいたのだ。メアリーの隣に座るエリックが、やけに静かな表情だったことを。
──あれは「あぁ、やっぱり」と、何かを悟った顔だった。
「それに、殿下を見るマージェ様の目は、いつもどこか冷たかった……本当は、殿下が偽物だって、気づいてたんじゃないですか?」
偽物に気づいていたのでは?─と、モナカが同じ言葉を放てば、パチパチパチと静かな教室をかき消す音が、エリックの手から放たれた。それは、モナカの推理を認め、賞賛する拍手だった。
「まったく、普段の俺の様子まで覚えてるなんて、そのアーディア嬢並の観察眼と記憶力だと褒めるべきだな」
エリックが苦笑混じりに言えば、メアリーは信じられないものを見るような目でエリックを凝視する。
「どういう、ことなの……」
エリックは答えない。
しばしの沈黙の後、メアリーが痺れを切らして叫んだ。
「どういうことなのッ!!」
「そう怒鳴らないでくれよ」
エリックは髪をかき上げつつ、メアリーをなだめる。それでも、メアリーの今にも掴みかかってきそうな態度に、諦め顔で頭をかいた。
「メアリー嬢は覚えてるだろ。昔の殿下はそりゃあ弱虫で泣き虫で、勉強も運動も苦手な弱い子どもだった」
その話はモナカもメアリーから聞かされている。
幼少期の……本物のフィリップは、とても頼りない王子様だったのだと。
「俺は初めて殿下と会った時に、そりゃもう猛烈に腹が立ったね。
こんな頼りない奴が人の上に立つ王族だなんて。こんな奴に、俺達はヘコヘコしなきゃいけないなんて冗談じゃない!…って」
エリックは基本的に日和っているが、気に入らない相手にはとことん辛辣で、意地悪だ。そういうところは幼少期から変わっていないらしい。
「ある日、俺は周りの目を盗んで殿下に意地悪をした。殿下が大事にしていた本を、木の上に隠してやったんだ。従者に頼らず自分で取り返してみろよ、って。殿下は泣きそうになりながら木に登り……落下して、大怪我をした。脇腹を数針縫うほどの大怪我さ」
王子に一生残る傷を負わせる。
それはどれほど罪深きことだろう。
そんなことをするどころか考えるだけであっても、不敬罪として処刑されるところだ。実行されてしまったとなっては、一家共々処刑ということも全くおかしくないほどの罪だ。
「覚悟が決まりきった父の後ろで、俺はブルブル震えてた。
ところが殿下は俺を庇ったんだ……自分がふざけて怪我をした。俺は何もしてない、ってな」
エリックは言葉を切り、息を吐く。そうして口元に苦い笑みを浮かべた。
「なんで俺を庇ったんだって殿下に訊いたらさ、何て言ったと思う?
……上手に木登りできない自分が悪いんだ、なんて抜かすんだ」
メアリーがポツリと「あの方らしいわ」と呟く。
エリックもまた、少しだけ視線を落とし、懐かしむような目をした。
「あぁ、参るよな、本当……」
その一言だけで、エリックが本物のフィリップをどう思っていたかが伝わってくるようだった。
エリックもまた、メアリーと同じように慕っていたのだ。
弱虫で、泣き虫で、勉強も運動も苦手な……それでも、誰よりも優しい王子様を。
「俺が八歳ぐらいの時だった。殿下が大きい病を患った。
面会もできない、手紙の返事も書けない、そんな大病だ。当然、心配したさ。
そうして一年以上が経って、やっと会えたと思ったら……」
あぁ、そうだ。この先どうなったのかをモナカは知っている。メアリーもまた。
……エリックの顔が皮肉げに歪む。
「あいつは完璧な王子様になっていた」
* * *
久しぶりに会ったフィリップは、一年前と比べてすらりと背が伸びていた。いつも青白くて血の気の薄かった肌も、すっかり健康的な色になっている。
以前のフィリップは折角綺麗な顔をしているのに、オドオドと俯いていて、その美貌を全く活かせていなかった。
だけど、今の彼は立ち振る舞いが自信に満ちていた。
まだ十歳にもならないのに、自分の容姿の使い方を心得ているかのように。
公爵家別荘地でのパーティに招かれたエリックは、そんなフィリップの姿にただただ唖然としていた。
いつだって自信無さげで、粗相をしないよう、祖父に叱られないよう、周囲の視線を気にしながらジッとしていたフィリップが、今は堂々たる振る舞いで大人達との会話に混じり、令嬢達のダンスに応えている。
誰もがフィリップのことを「素晴らしい王子だ」と称賛している。
パーティが終わった後、エリックは父親の目を盗み、たった一人でフィリップの私室を訪ねた。
どうしても一対一で話さねば、と思ったのだ。
「やぁ久しぶり、エリック」
エリックを出迎えるフィリップの笑顔は柔らかく穏やかで、エリックの知るフィリップと寸分違わない。なのに、どうしてこんなにも違和感があるのだろう。
「……なんだか、別人みたいだな」
「久しぶりに会うからね」
「……本当に、殿下、なんだよな?」
固い声で問うエリックに、フィリップはクスクスと笑うと、シャツの裾をたくし上げた。
白く滑らかな肌に残る傷痕は、かつて彼が木から転落した時のものだ。
「ほら、ちゃんとあの時の傷痕があるだろう?」
確かに、その傷痕はあの時と同じものだった。それなのに違和感はますます募っていく。
フィリップの顔を凝視していたエリックは、そこでふと気がついた。
一瞬……本当に一瞬だけ、フィリップの目に嫌悪が見えたのだ。
瞬き一回分の時間で嫌悪の残滓は消えた。だが、エリックはその嫌悪を見逃さなかった。
──だって、エリックはその目を知っている。
「あいつ」はいつだって、エリックを嫌悪の目で見ていた。
エリックがフィリップを苛めていた頃も、フィリップが怪我をした事件をきっかけに親しくなってからも。
ずっとずっと、「あいつ」はエリオットを嫌っていた。
エリックが来るたびに、すました顔で出迎えて。そのくせ、その水色の目に強い嫌悪を滲ませて!!
「お、前……っ……片目の従者……っ!!」
エリックはわざわざ他所の家の従者の顔と名前を覚えたりはしない。それでも、その従者のことだけはよく覚えていた。
そこそこ整った顔をしているのに、顔の右半分を長い前髪で隠していたのも印象的だったし、なによりその従者は常にフィリップについて回っていたのだ。
エリックがフィリップを揶揄えば、従者のくせに生意気にも睨み返してきた。
フィリップが木から落ちて大怪我をした時は、エリックに殴りかかりそうなぐらい殺気立っていた。
その従者の目の色はフィリップの青によく似ていた。だが、フェリクスの鮮やかな青と違い、透き通った空のような水色をしている……そう、目の前にいる『フィリップ』と同じ色だ。
「なんで、だよ……本物の、殿下は……っ」
目の前の『フィリップ』から表情が消えた。
次の瞬間、エリックは足を払われて、絨毯の上に仰向けにひっくり返っていた。
そうして『フィリップ』は──否、フィリップの顔をした従者は、エリックに馬乗りになり、エリックの喉に親指を軽く食い込ませる。
「やっぱり貴方は目障りだ…………今も、昔も」
低く抑揚の無いその喋り方は、間違いなくエリックの知る従者の少年のそれだった。
「なんだよ、それ。どうなってんだよ、その顔……まるっきり、フィリップと同じじゃないか……っ!」
もはや、ぶつけた後頭部の痛みなど気にしている場合ではない。
エリックが引きつった声で叫べば、フィリップの顔をした従者は不愉快そうにエリックを見下ろす。
「当然だ。僕はあの方の影武者になるために育てられたのだから。この顔も、そのために作り替えてもらった」
「影、武者……? じゃあ、本物のフィリップは、今、どこに……」
ギシリ、と何かが軋む音がした。目の前の『フィリップ』の歯が軋む音だ。
もはや目の前の少年は、フィリップの表情を取り繕ってはいなかった。
フィリップと同じ顔で、フィリップが絶対にしなかった憎悪に満ちた顔をしている。
……その憎悪が誰に向けられたものなのかまでは、分からなかったけれど。
「僕が影武者であることを知ったフィリップ様は、僕を逃すため、自ら命を絶たれた」
憎悪に満ちた声で、呪詛のように、フィリップの顔をした従者は言う。
まるで噛み締めるかのように、自分に言い聞かせるかのように。
「僕が、殺したも同然だ」
フィリップが、死んだ?
あの誰よりも優しかった少年が……自ら命を絶って?
「あの方は自ら屋根に登られ、落ちて死んだ。
………エリック・マージェ、貴方がフィリップ様に木登りを教えていなければと何度思ったことか」
絶句するエリックに、従者は暗く笑う。
「フィリップ様は自分が死んだ後、人々から忘れられることを恐れていた。
だったら、僕がフィリップ・アルト・レティーラになるんだ。誰にも忘れられることのないよう、優秀な王として、歴史にこの名を刻んでみせる」
俺は今、何と向かい合っているんだ──とエリックは混乱した。
フィリップと同じ顔に作り替えられた元従者が、エリックには人外の何かに見えた。
少なくとも、こんなの正気じゃない。
「イカれてるぜ、お前。
平民風情が王族を騙るなんて、おこがましい……いいや、おぞましい……!」
「それが、何か?」
エリックの喉に添えられた指に、クッと力がこもる。その指に少し力を込めるだけで、従者はエリックの息を止めることができるのだ。
額に脂汗を滲ませるエリックの顔を従者が覗き込む。暗く淀む目に映るエリックは、恐怖に引きつった顔をしていた。
「マージェ家の繁栄を願うなら、この話は忘れることだ。
口にしたが最後、アズノール公爵はあらゆる手を使って、貴方の家を滅ぼすだろう……だからどうか、僕の邪魔をしないでくれ」
あぁ、そうだ。こんな大それたこと、たかが従者一人で実行できるはずがない。あの大貴族が、糸を引いているのだ。
ともなれば、エリックが「第二王子は偽物だ」と吹聴したところで、誰も信じてくれない。
それどころか、間違いなくマージェ家は潰される。
だから余計なことはするなと、しっかりと釘を刺して、従者はエリックの上から退いた。
エリックはゆっくりと体を起こし、従者を睨みつける。
「俺は知っている。軽率に身分の垣根を越えた奴は、いつだって自滅する。
……お前もきっといつか身を滅ぼすぜ!」
精一杯の負け惜しみと強がりを口にするエリックを、フィリップの顔が嘲笑う。
「英雄として歴史に名を刻んだ後ならば、どんな滅びでも受け入れるさ。
それこそ、主人を死なせた愚かな従者に相応しい」
この従者は、もはや自分の破滅など恐ろしくないのだろう。
この従者にとって最悪なのは、フィリップ・アルト・レティーラの名が忘れられること。
フィリップの名誉さえ守れるのなら、この従者はなんだってする。
「だったら俺は、傍観者として見届けてやる。
王族を騙る道化の行く末を……お前が破滅したら、盛大に嘲笑ってやるさ!
ほれ見たことか、ざまぁ見ろ!ってな」
エリックの言葉に、今まで淀んでいた水色の目が少しだけ透明さを取り戻す。
「あぁ、その時は是非とも見届けてくれ……道化の末路を」
今更エリックは気がついた。
この従者が憎んでいるのも、嘲笑っているのも、呪っているのも……全て彼自身なのだと。




