第百六十一話:モナカ・モネという少女
ある街の、狭い路地を歩くこと数分、アールは猫書店の看板を見つけた。
アールが扉を開ければ、カランという乾いた鈴の音が鳴った。
アールは店の奥のカウンターを見る。
猫書店の店主は、いつも店の奥にあるカウンター席に座って黙々と執筆をしている。というのに、今日に限って、カウンターに人の姿は無かった。
でも、店の扉に鍵がかかっていなかったから、留守にしているということは無いはずだ。
店の奥に進みがてら「ポーター」と声をかけると、カウンター奥の扉が開き、店主のポーターがぬっと顔を出す。
ポーターはいつも手にインク汚れがついているが、今は幾らかこざっぱりとした旅装姿だった。
「失礼、これから出かけるところだったかな?」
「……あぁ、あんたか」
ポーターはカウンターの上に置きっぱなしにしていた眼鏡をかけ、手にしていた帽子をかぶる。
「ちょうど原稿が終わって、持ち込みに行くところだったんだ。その原稿料で買いつけの旅に出るつもりだった」
「どうやら僕は、奇跡のようなタイミングで到着したらしい」
ポーターは時に年単位で留守にすることもあるらしいので、あと一日でも遅れていたら、しばらく彼に会えなかっただろう。
フィリップが冗談めかしてそう言うと、ポーターは帽子の縁を軽く下げ、口の端を歪めるようにして笑った。
「奇跡、奇跡か……
あぁ、実に陳腐な言い回しだが、お前は奇跡というものを手繰り寄せる力を持っているのだろう。
お前は非凡だ。物語における主要登場人物さ。
それが幸か不幸かまでは、僕には測りかねるがね」
そう言ってポーターは椅子に腰掛ける。どうやら会話に応じる気はあるらしい。
なんとなくだが、ポーターはフィリップが何のために来店したのかを察しているように感じた。なので、フィリップは率直に本題を切り出す。
「ヴィルネ・モネという人物について聞きたい」
それは一週間前にモナカが口にした名前だ。
『この先、わたしが何を選んでも、どんな未来に行き着くとしても……どうか…どうか、この名前だけは、覚えていてください。
絶対に、絶対に、忘れないでください』
フィリップはヴィルネ・モネという人物の名前を聞いたことはない、が、目にしたことはあった。
数ヶ月前、この書店に訪れた時、モナカが欲しがっていた本。その著者の名だ。
アイザックはその本をちらりと見ただけなので、モナカもその本の著者名をフィリップが覚えていたとは思わなかったのだろう。
あの本をモナカが欲しがった時、ポーターが作者は自分の友人だと口にしていたので、フィリップは少しだけ気になって著者名を目にしていた。
ポーターはカウンターに頬杖をつき、ふぅっと息を吐く。吐息に燭台の火が揺れて、帽子をかぶった男のシルエットもゆらゆらと揺れた。
「ヴィルネ・モネ。僕の数少ない友人で、学者だ。
彼が何の学者なのかと言われると、返答に困る。
奴は、医学、数学、物理学、生物学、魔法学……あらゆる分野において抜きん出た知識を持っていた。色々器用なやつでな、小道具から医療器具やら、はてには魔導具まで、色んな物の設計図を書いていたよ。
あれは稀に見る、本物の天才だった」
ポーターはカウンターの上で指を組み、そこに顎を乗せてフィリップを見上げる。
「お前も、僕の小説を読んだことはあるだろう?」
「貴方の作品は一通り読んだと思うけど」
「ならば、こう言えば分かるか。
ヴィルネ・モネは、真実の聖杯に似た魔導具を作ろうとしていた」
真実の聖杯。それは王家の正統な血を引く人間を証明する、重要なアイテムだ。
フィリップの胸の奥が、ざわり、ざわりと嫌な予感にざわつき始める。
無意識に胸を押さえるフィリップを、ポーターは黒い目でじぃっと見つめていた。
「奴は晩年、遺伝子というものについて研究していた。僕には専門的なことは分かりかねるがね。
なんでもそのの魔導具が完成すれば、患者から魔力を吸収し、分析することで、遺伝する病や、血縁者の割り出しなどができるらしい」
もし、本当にそんな魔導具が存在したら、一番困るのは誰か?
─偽物の王子を擁護する、アズノール公爵だ。
「結局、その魔導具が完成する前に奴は死んだがね」
「……病気か、何かだったのかい?」
「禁術使用罪で処刑された。
審問官はろくに調査もせず弁明も聞かず、不自然なほどの速さで火刑を執行した」
「……処刑が執行された場所は?」
「ロマリアという街だ」
ロマリアは公爵の領地ではないが、領主が公爵の忠臣なのだ。
頭によぎった仮説を否定するには、あまりにも条件が揃いすぎていた。
(……そんな、まさか……)
顔を強張らせるフィリップを、ポーターは無表情にじぃっと見つめている。
それは観察者の目だ。ポーターはフィリップの僅かな表情の変化すら見落とすまいと観察している。
「奴は嫁を早くに亡くしていたが、娘が、一人いてね」
「…………」
「僕の小説を土産に持っていったりもしたんだが、これっぽっちも興味を示さず、数学書ばかり読んでいる変な娘だった」
「……その娘は、どうなったんだい?」
「父親が死んだ後は、親戚に引き取られたらしい。その後は知らん」
もし、フィリップの予想が正しいなら─いや、それは予想ではなく、確信に変わっていた。
モナカの父、ウィリアム・モネはアズノール公爵に謀殺されたのだ。
第二王子の正体がバレるのを防ぐために。
アールの目的のために、モナカの父は死んだのだ。
かつて、その手で大事な人の亡骸を燃やした彼は、目的のためならその手を汚すことを厭わない。
『黎明の魔術師』を脅したように……フィリップ・アルト・レティーラの名を残すためなら、なんだってできる。
なのに、今初めてフィリップの頭は軋み、思考を放棄したい衝動に駆られていた。
(僕のせいで、モナカの父親が死んだ?
……モナカはそれを知っていた?
知っていたから、あの時、父親の名を出した?)
『願いを叶えるために、何かを犠牲にしないといけない時……わたしは、それが簡単にできるって、ずっと……ずっと、思ってたんです』
『誰かの願いのために、お父さんが死んだと知って……どうしたら良いか分からなくなりました』
モナカの願いは何か?
そんなの決まってるじゃないか。
父の無実を証明し、無念を晴らすことだ。
そして、その願いのために犠牲にしなくてはいけないものとは何か。
(……僕だ)
あの日、悩めるモナカに彼は言った「私のことは頼ってくれないのかい?」と。
薄っぺらい、ありふれた親切心で。
(……まるで、道化じゃないか。父を死なせた原因が「頼ってくれ」だなんて)
気がつけば手のひらにジワリと冷たい汗が滲み、口の中がカラカラに乾いていた。頭が、痛い。
無言で立ち尽くすフィリップに、ポーターは告げる。
「さっき僕はこう言ったな。
お前は非凡で、物語における主要登場人物であると」
ポーターは椅子を鳴らして立ち上がった。それだけで、彼の影がやけに大きく見える。
「だが、お前の物語が語られることはない。歴史の闇に葬られるだろう」
顔も名前も失い、主人の名を残すことに固執する亡霊のような青年は、乾いた声で問いかける。
「……それは、予言かい?」
「まさか。小説家の妄言さ。新作のネタにもなりやしない」
ポーターは、どこまでが本気か分からぬ態度で肩を竦めた。
その様子を目で追いながら、アイザックは己に言い聞かせる。
(あぁ、その通りだよポーター。
「僕」の物語など、歴史の上に必要ない)
アール・クラナータの物語は影に隠れる。
歴史に語られるのは、フィリップ・アルト・レティーラの物語なのだ。
だが、そのために、一人の少女が父親を失ったという事実が、今になって重く彼の胸にのしかかっていた。




