第百五十四話:消えない傷跡
アールがアズノール公爵家に来て一年が経った頃から、屋敷に一人の少年が出入りするようになった。その少年の名前はエリック・マージェ。伯爵家の長男で、年齢はフェリクスと同じ六歳。
恐らく公爵は彼をフィリップの友人にして、社交界の取っ掛かりにしようとでも考えたのだろう。
フィリップはアールによく懐いていたけれど、他に友達はいなかった。
だから、フィリップに友達を作らせる良い機会だと、アールは密かに期待していた。
ところが、エリックはかなりのクソガキなことで、最初の内こそフィリップ相手に丁寧な態度を見せていたが、回を重ねるごとに態度が横柄になっていった。
勉強も運動も苦手なフィリップを、エリックが見下しているのは明らか。その癖、大人達の前では愛想良く、フィリップと親しげに振る舞っている。
その日もフィリップと一緒に乗馬の練習をしていたエリックは、馬に一人で乗れず、アールに支えられているフィリップを鼻で笑い、からかった。
「殿下はま〜だ、一人で乗れないのかよ」
「ぅ〜〜〜」
アールに後ろから支えられて辛うじて馬に乗っているフィリップは、何も反論できずプルプルと震えている。
馬は乗ってみると案外高さがある生き物だ。フィリップはいつ馬に振り落とされるのか、恐ろしくて仕方ないのだろう。
「殿下、僕がついているから、大丈夫ですよ」
アールがフィリップを後ろから支えてそう言えば、エリックは意地悪く笑った。
「ははっ、王子様っていうより、お姫様みたいだな!」
フィリップの顔がカッと赤くなり、目尻に涙が浮かぶ。
アールは冷ややかな目でエリックを睨みつけたが、彼は高慢に鼻を鳴らしてアールを睨み返す。
「なんだよ、使用人。言いたいことがあるなら、言ってみろよ」
「…………」
言いたいことは山ほどある。でも、使用人であるアールは言い返すことなんて許されない。
なによりこの先、フィリップの影武者としてエリックと接する可能性もある。
エリックの記憶に残るような言動は控えるべきである。なるべく目立たない従者でいなければ。
それでも、不快感を完全に消すことなどできないけれど。
アールはせめての反抗として、エリックからプイと目をそらすと、フィリップを支えながら馬を走らせる。フィリップはもう手綱を握り締めているのが精一杯で、馬と意思疎通をするどころではなかった。
エリックの姿が見えなくなったところで馬のスピードを落とすと、フィリップがポツリと言う。
「……ごめんね、アール」
「何を謝ることが?」
「私みたいなのが主人で、恥ずかしいだろう……」
周りに人はいなかったが、フィリップは自分をアールと呼んだ。
友人としてではなく主人として、己の不甲斐なさを恥じているのだ。
そういう生真面目さは、なんとも彼らしい。
「僕が貴方を恥じたことなど、一度もありませんよ」
確かにフィリップは、勉強も運動も苦手だ。人見知りも激しくて、初対面の相手とはまともに話せない。
それでも、アールは知っていた。フィリップが人一倍努力家であることを。誰よりも心優しいことを。
「貴方は僕の自慢の主人です」
アールがそう告げれば、フィリップははにかみながら小さな声で「ありがとう」と呟いた。
* * *
その翌日、アイザックが裏庭で護身術の訓練を受けている最中だった。
「誰か! 誰か来てくれぇ!」
悲鳴じみたその声は、エリックのものだ。
エリックとフィリップは今、二人で一緒にいるはず。そんな状況でエリックだけが悲鳴を上げているという事実に、アールは迷うことなく声の方へ走る。
全身の血が冷たくなり、背筋がゾワゾワする。それは、かつて家族を竜害で失った時に感じた恐怖だ。
どうか、どうか、フィリップに何事もないことを祈るばかりだ。
………
……
…
駆けつけたアールの目に映ったのは、脇腹から血を流してぐったりとしているフィリップの姿だった。
そのそばではエリックが半ベソをかいて、泣きじゃくっている。
「フィリップ様っ!」
アールはフィリップに駆け寄り、怪我の具合を確認する。フィリップの右の脇腹には太く硬い木の枝が深々と刺さっていた。ただ転んだだけで、ここまで刺さるとは思えない。
ギラリと向いたアールの目が、鋭くエリックの身にさらされる。
「フィリップ様に何をした」
「ち、ちが……そいつ、木から、落ちて……」
「木から?」
アールは倒れていた地点のすぐそばの木を見上げた。
木登りをするには丁度良い立派な太さの木だが、運動の苦手なフィリップが、自分から木に登りたがるとは思えない。
見上げた木の枝の合間には、一冊の本が見え隠れしている。それだけで、勘の良いアールは事情を察した。
「……貴方が強要したのか。本を返してほしければ、木にのぼれと」
軋む歯の隙間から呻けば、気圧されたエリックは真っ青になって震え上がった。
今すぐその横っ面を殴ってやりたいが、今はフィリップを医師に診せなければ。
アールは己の上着を脱いでフィリップの傷口を止血すると、騒ぎを聞きつけて駆けつけた庭師に、医師を呼ぶよう指示をした。
* * *
「処置、終わりましたヨ」
この屋敷に常駐している医師は手を拭いながら、ベッドのそばでフィリップを見守っているアールと侍女頭に声をかけた。
フィリップが運び込まれた時から、ずっと付きっきりで看病していた二人は安堵の息を吐き、胸を撫で下ろす。老齢の侍女頭であるシーアは涙腺が緩んだようで、エプロンで目元を拭っていた。
アールは大事な人を失わずに済んだ安堵感に、ようやく肩に入っていた力を抜く。
それでも、目の前で苦しげな呼吸を繰り返しているフィリップを見ると胸が痛んだ。
(……僕が、目を離したから……)
フィリップが怪我をした時、アールは公爵の言いつけで護身術の訓練をしていたのだ。責められる理由はない。
それでもアールは、エリックがクソガチであることを知りつつ、フィリップと二人きりにさせた自分の迂闊さを許せなかった。
フィリップの怪我は、幸いにも内臓には届いておらず、簡単な縫合手術で済んだ。それでも引きつった傷痕は一生残ることになるだろう。アールの顔の傷のように。
アールが唇を噛み締めていると、医師が肩を叩いた。
「アール君、ちょっといいデスか?」
「……?」
「大事な話がありますノデ」
医師は少し外国訛りのある、丸眼鏡をかけた男だ。年齢は四十前後だろうか。背は低いが、後ろで束ねている癖の強い灰色の髪が特徴的だった。
彼はフィリップの主治医でもあるのだが、アールは彼のことをあまり知らない。そもそも本名もよく分からないのだ。たまにブレンドと呼ぶ者もいるが、大半はドクターか先生と呼んでいる。
アールだけでなく屋敷の住人の誰もが、この男の素性を知らないのだ。それでも、この医師はアズノール公爵に信用されている、ただそれだけで屋敷の人間には充分だった。
そんなブレンドに「大事な話がある」と言われ、アールは困惑した。フィリップが目覚めるまでそばにいてやりたいのに。
それでもブレンドが真剣な顔をしているので、アールは立ち上がり、侍女頭に頭を下げた。
「シーアさん、殿下をお願いします」
「えぇ、分かったわ」
侍女頭のマーシーは、昔、幼い息子を病気で亡くしたことがあるようで、フィリップのことをいつも気遣っている。
公爵の味方ばかりのこの屋敷で、数少ないフィリップの味方だった。
シーアなら殿下も大丈夫だろうと思い、アールは部屋を出たブレンドに続いた。
* * *
ブレンドが向かった先は、アズノール公爵の書斎だった。
公爵は書物机に座って仕事をしている。こんな時でも、フィリップの様子を見にこようともしない。
公爵は書類と向き合っていた顔を上げて、ブレンドとアールを一瞥する。
「アレは?」
「それがデスね、ちょっと困ったことになったんデスよ」
アレ、というのはフィリップのことを指している。
アイザックは不快感に少しだけ眉をひそめたが、ブレンドは気にした様子もなく、少し大袈裟に両腕を広げてみせた。
「殿下の傷は、内臓に及ぶほどではなかったんデスけどね。あの傷痕は、どうしても残っちゃいマス……ワタクシの術で傷痕を消しても構わないんデスがね、今回の事故はかの伯爵家も知るところ。
これは、入れ替わりの際に、都合が悪い」
入れ替わり、の一言にアールは思わずブレンドの顔を凝視した。アールがフィリップの影武者になることを、彼は知っているのだ。
その上で、フィリップの傷痕が入れ替わりの際、禍根にならないかを懸念している。
公爵は薄い水色の目で、ブレンドの背後に立つアールを見て、顔色一つ変えずに告げた。
「ならば、ソレにも同じ傷を」
まるで、そうするのが当然と言わんばかりに、公爵は言い捨てる。アールにもフィリップと同じ傷痕をつけよ、と。
今まで、公爵から折檻をされたことは何度もある。フェリクスの世話にかまけて課題が遅れた時、或いは、出来の悪いフェリクスへの見せしめのために、アイザックは何度か折檻を受けていた。
今でも残っている傷もある。だが、ブレンドの手にかかればそれも綺麗さっぱり消せるらしい。
必要ない傷は消され、必要な傷はナイフでムチで刻まれていく。
そうして、アールは「フィリップ」に作り替えられていくのだ。
自分事であるはずなのに、どこか自分事とは思えなかった。
自分を達観して見れるからこそ、自分が人形になっていくこともよく自覚できていた。
だが、入れ替わりがどんなに苦痛でも、アールは今だけはフィリップのそばにいたかった。そのためには公爵に従うしかないのだ。
「…………分かりました」
暗い目で答えるアイザックに、公爵は「それでいい」とだけ告げ、また書類と向き合あった。
* * *
その後、アールは拘束具に掛けられた上で、焼かれたナイフで体を刻まれた。そして縫合された。
傷跡が糸に隠れ、清潔な包帯を巻かれても、ズクズクと疼くような痛みは消えない。
「アール・クラナータ」という人物が薄れ、自分が人形になっていくのを感じる。
それでも、フィリップと共に生きる未来があるのなら、きっと自分は狂わずにいられる。
(あぁ、早く、アルトの元に行かないと。看病をしないと。きっと、寂しがってる……)
アールはふらつく足取りでフェリクスの部屋に向かう。
フェリクスはまだ眠っていた。そばに控えていたシーアは、アールを見てギョッとしたような顔をする。
「どうしたんです、アール坊や。顔が真っ青じゃありませんか。それに酷い汗!」
「……看病、替わります」
シーアは「そんな顔色で何を言っているのです!」とアールを叱るも、彼が頑として動かないと知ると、呆れたような顔で溜息を吐いた。
「……少しだけですよ。良いですね、アール?」
「ありがとう、ございます」
シーアに礼を言い、アールはベッドサイドの椅子に腰掛ける。
シーアはアールに気遣わしげな視線を向けつつ、そっと部屋を後にした。
そのパタンと扉が閉まる音に、フィリップの目蓋が震え、ゆっくりと持ち上がる。
「…………アー、ク?」
まだ痛みにうなされているであろうフィリップが、掠れた声でアールを呼ぶ。
アールは自身の苦痛を全て押し殺し、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「痛かっただろう? よく、我慢したね、アーク」
乱れた髪をそっと撫でてやれば、フィリップは安心したような笑みを浮かべる。
「…………うん」
「ボクはここにいるから。まだ、寝てた方がいい」
「……うん」
小さく呟き、フェリクスは再び目を閉じる。その寝顔は、先程までよりいくらか安らかだ。
その寝顔を見つめ、アイザックは己に誓う。
たとえ、アール・クラナータという一人の人間が忘れられたとしても。元の顔と違う人形に作り替えられても。
(……今度こそ……今度こそ、守るんだ)




