第百五十三話:アークとアルト
本来使用人は一部屋に複数人寝泊りするのが一般的だが、フィリップ付きの従者に選ばれたアールは特別に、フィリップの部屋から比較的近い個室を与えられた。
稀に見る特別待遇なのは、アールがいずれフィリップの影武者になる時のことを考えてのことだろう。
アールは日中はフィリップの従者を務め、その合間に護身術や乗馬を教わり、夜に自室に戻ったら公爵から与えられた膨大な課題をこなすという、多忙な日々を過ごしていた。
フィリップの従者をするのは、彼の行動や仕草を真似るため。護身術や乗馬、それに大量の課題はいずれ、彼が影武者を務める時のためのものだ。
そんな暮らしを続けていく内に、アールは何故アズノール公爵が影武者の用意を急いでいたのかを理解した。
フィリップはあまりにも体が弱すぎた。少し走ればすぐに目眩を起こして倒れるし、筋力も同年代の子どもと比べて圧倒的に弱い。ちょっとした気候の変化で熱を出す。
第二王子は長くは生きられないだろう…と、周囲の大人達は心無い噂をしている。
アールがフィリップの従者になって最初の夏が過ぎ、朝晩が冷え込むようになった頃、フィリップは高熱を出して寝込んだ。
食事もろくに受け付けず、頬を真っ赤にして苦しそうな呼吸を繰り返している姿は、痛々しかった。
それなのに同じ屋敷に暮らす公爵は、孫のことを顧みようともしない。死んだらそれまで、と思っている節すらあった。
アールは高熱でうなされているフェリクスに、つきっきりで看病をした。こまめに汗を拭いて、水差しの水を飲ませて。そうして何かをしてやるたびに、フィリップは潤んだ目でアールを見て、苦しそうに言うのだ。
「……迷惑かけて、ごめんなさい」
「迷惑だなんて思っていませんよ」
アイザックが穏やかにそう言っても、フェリクスの悲しげな顔は晴れない。
王族なら尽くされて当然だろうに、フェリクスはいつだって誰に対しても申し訳なさそうにしている。
勉強が分からなくて、ごめんなさい。
乗馬ができなくて、ごめんなさい。
上手に挨拶ができなくて、ごめんなさい。
みんなの期待に応えられなくて、ごめんなさい。
今まで公爵がフィリップをどう扱ってきたのかが、手に取るように分かる。
期待に応えられない者などいらないと、公爵の目はいつも言っていた。
だから公爵はアールを影武者として育てているのだ。役立たずの王子様が本来すべきことを、全てアールにさせるために。
「……アイザック」
「はい」
「わたしは、どうして、いつも上手にできないのだろう……おじいさまの期待に応えたい、のに……」
ぐす、と鼻をすする音がした。どうやらフィリップは体だけでなく、心まで弱ってしまっているらしい。
「きっと、わたしは大人になる前に死んで……みんなに忘れられてしまうんだ。
弱くてみっともない第二王子なんて、まるで最初っからいなかったみたいに、忘れられるに決まってる……」
そんなことありませんよ、と気休めを言ったところで、フィリップの涙が止まることはないだろう。
フィリップは泣きすぎて腫れぼったくなった瞼を閉ざし、掠れ声で呟いた。
「……わたしが死んだら、お星様になれたらいいのに……初代国王バルスのみたいに。星座になったら、みんなに、わたしのことを覚えていてもらえる」
それは、最近フェリクスが読んでいた本の物語だ。
初代国王バルスは死後、人々に存在を忘れられてしまうことを恐れていた。
それを知ったバルスの妻シーナは、バルスの葬儀の際に闇の精霊王に頼み、彼を星座にしてもらうのだ。
星好きなフィリップらしい発想に、アールは苦笑する。
(……星座になんてならなくても、僕は忘れたりしないのに)
でもきっと、アール一人が覚えているだけでは駄目なのだ。
アールはフィリップの額を冷やした布で拭うと、汗で貼りついた前髪を払ってやった。
「殿下の熱が下がったら、なんでもおねだりを聞いてさしあげますよ」
「………なんでも?」
「えぇ。だから、あまり弱気なことを仰らないでください」
アールが穏やかに頷くと、フィリップは毛布の端をもじもじと弄りながら、恥ずかしそうに言った。
「じゃあ……友達が、欲しい」
「では、公爵に頼んでみましょう。ご友人に相応しい良家のご子息を紹介してくれるはずです」
アールがそう提案すると、フィリップは毛布の隙間から手を伸ばしてアールの上着の裾を控えめに掴んだ。
「……アールがいい」
「僕は使用人ですよ?」
「……他の人がいない時だけでいいから」
そう言ってフィリップは、恥ずかしそうに口をモニュモニュとさせる。
アールは小さく噴きだすと、もう一度フィリップの額を拭いてやりながら言った。
「アルト」
それは、あまり呼ばれることのないミドルネームだ。
フィリップは水色の目をキョトンと見開いて、アールを見上げている。
アールは少しだけ恥ずかしそうに、茶目っ気まじりにウィンクをする。
「呼び方を変えると、友達っぽいだろう?」
途端にフィリップの顔はパァッと明るくなる。さっきまで、しょぼくれて泣き言を言っていたのが嘘みたいに。
「じゃあ、じゃあ、わたしもアークって呼ぶ!」
「アークかぁ。アルトとアーク、そっくりだね」
「うん! ……うんっ!」
フィリップは目をキラキラさせて、満面の笑みで何度も何度も頷いている。とても嬉しそうに。
もし、アールがフィリップの影武者になることを知ったら、きっとアークは絶望するだろう。自分は公爵から必要とされていないのだと。
だから、アールは自分が影武者になることをアークには教えていなかった。
貴方が弱くて無能だから、ボクは公爵に買われたんです、だなんて言えるはずがない。
……いずれ言わねばならぬ日が来ると、分かってはいても。
アールはその真実から目を逸らして、フィリップとの秘密の友達ごっこに夢中になった。
フィリップは大人の見ていないところでアークの服の裾を引き、年相応の子どもらしい笑顔で「アーク」と呼ぶ。
フィリップが「アーク」と口にしたら、秘密の時間の始まりだ。
「どうしたんだい、アルト?」
「うん、あのね、今夜は流星群が見えるらしいんだ。窓からで良いから、一緒に見よう?」
子どもらしいおねだりに、アールは少しだけ困ってしまった。夜中に部屋を抜け出すのは簡単だが、彼には公爵から与えられた大量の課題があるのだ。
それでも可愛いアークのおねだりを叶えてあげたくて、はニコリと微笑んだ。
「いいよ。夜になったら、こっそり君の部屋に行く。でも、それまで起きていられるのかい、アルト?」
「う、ちゃんと起きてるよ……わたしが寝そうになったら、アークが起こしてくれる?」
「ビスケットとミントのお茶を用意しておこう。それがあれば起きていられるだろう?」
「うん!」
その晩、二人は窓に張りついて、お茶を飲み、ビスケットを齧りながら夜空を眺めた。
フィリップは星が好きだ。お世辞にも物覚えが良いとは言えないフィリップでも、好きなことを覚えるのは得意だった。
フィリップは輝く星を一つ一つ指差して、星座の名前や由来などを語って聞かせてくれた。
まぁ結局、途中でフィリップがウトウトしてしまって、アールがベッドまで運ぶのが常だけど。
スヤスヤと眠るフィリップの髪を、アールはかつて幼い妹にしてやったように優しく撫でる。
「……おやすみ、アルト」
アールにとって、フィリップは主人であり、友人であり、弟のような存在だ。
家族を失い空っぽになっていたアールの心を、この小さな王子様は優しく満たしてくれる。
所詮ごっこ遊びと言うには、その時間はあまりに優しすぎた。
アール・クラナータの頭文字をとって「アーク」




