第百五十五話:知られてしまった秘密
フィリップ・アルト・レティーラは自分のことが嫌いだ。
物覚えが悪くて、少し体を動かしただけで具合が悪くなって倒れて、人前に出ると上手に喋れなくなる。弱くて無能な第二王子。
どんなに頑張ったつもりでも、周囲の期待には届かず、祖父を喜ばせることができない。
フィリップは母の顔も覚えていなかったけど、使用人たちは皆「レイン様は聡明な人物だった」と言う。
祖父にとっても、自慢の娘だったのだろう。だから、祖父はことあるごとに母の名を口にする。
母レインはフィリップを産んだことで体調を崩し、そのまま亡くなったのだという。
──それならば出産は諦めて、レイン様の命を繋ぐべきだったのだ
──命と引き換えに産んだのが、あんな王子だなんて、レイン様が浮かばれない
──お子様など、また産めば良かったのだ
この屋敷の使用人達がそう話しているのを聞いた時、フィリップは消えて無くなってしまいたいと思った。
(私なんかを産んだから、母上は死んだんだ。私なんて、生まれてこなければ良かったんだ)
そう考えたら酷く惨めで悲しい気持ちになり、フィリップは寝台に潜り込んで声を殺して泣いた。
「………フィリップ様?」
毛布の向こう側から声がした。アールだ。
懸命に声を噛み殺したつもりだったが、どうやら泣き声が漏れていたようだ。
「大丈夫ですか? どこか痛むのですか?」
あぁ、優しいフィリップにまで心配をかけてしまった。迷惑をかけてしまった。自分はなんてダメな王子様なのだろう。
──自分のせいで母が死んだのだ。みんなから愛されてた母が死んで、無能な自分が生まれてしまった。迷惑をかけるだけで役立たずの自分なんて、生まれてこなければ良かったのだ。
(私は私が嫌いだ─)
頭から毛布をかぶったまま、みっともなくしゃくれた声で本音を落とせば、アールが毛布の上からフィリップの頭を撫でた。
「……僕は、アルトがいなければ良かったなんて思わないよ」
その言葉が、どれだけフィリップを救ってくれたことか。
* * *
フィリップは八歳の誕生日を迎えた頃から頻繁に熱を出すようになり、寝込むことが増えてきた。
少し前まではそれなりに体調が良くて、エリックと一緒にチェスをしたり、メアリーと茶会やダンスの練習をしたりしていたのだが、こと最近は殆ど自室に篭りきりだった。
その日は天気が良く暖かくて、いつもよりいくらか体調が良かった。とは言え、外出をできる程の体調でもないので、フェリクスは肩掛けを羽織ると文机に座り、日記を開く。
ここ最近はろくに日記も書いていない。毎日部屋にこもっているから書くようなことがないのだ。
だから、フィリップは戯れにペンを動かし、ノートの隅に落書きをした。サラサラとペンを動かして描くのは冠をかぶった王子様の絵。それはフィリップが考える理想の王子様の姿だ。
フィリップはしばし考え、絵の横に文字を書き込む。
【理想の王子様像】
・頭が良い(政治の難しい話も、ちゃんと分かる)
・勇気がある
・みんなに優しい
・剣も乗馬も得意(お姉様ぐらい)
・狩りも得意(お兄様ぐらい)
・魔術もたくさん使える(セフィルに負けない)
・堂々と挨拶できる(舌を噛まない)
・チェスが強い(エリックよりも強い)
・女の人を上手に褒められる(メアリーに怒られないぐらい)
・ダンスが得意(上手にリードができる、相手の足を踏まない)
・アークみたいに、色んなことができる
そこまで書いてペンを置いた。
紙面の王子様像は、どこまでもフェリクスとは遠い姿だ。
たとえば、フェリクスの姉である第一王女アリエルは剣術と乗馬に長けており、つい最近竜を単独で倒したらしい。
それならば、自分は魔術の分野を伸ばしていこうと考えたものの、フィリップの魔力量は平均値。
ついでに、魔術式に関する書物を読んでも、正直ちんぷんかんぷんだ。
フィリップの母であるレイン妃は魔術が得意で、水の上位精霊と契約をしていたという。上位精霊と契約できる魔術師は、国内でもごく僅かだ。
(……私も、精霊と契約ができたら、お祖父様は褒めてくれたかな。みんな、すごいって言ってくれたかな)
フィリップは引き出しの中から、母の形見であるブルーサファイアのネックレスを取り出した。
このサファイアは精霊との契約石で、ここに母と契約した水の精霊が眠っているのだという。
だが、どんなに勉強をしたところで、フィリップはこの精霊を呼び出すことはできない。生まれ持っての得意属性が違かった。
本当に、自分は母から何も継げていない。
はぁ、と嘆息を吐いてネックレスを引き出しの中に戻すと、アールが扉をノックして入ってきた。
アールは椅子に座っているフィリップを見て、少しだけ心配そうに眉を下げる。
「起きても大丈夫なのですか?」
「うん、今日は調子が良いんだ」
「そうですか」
アールは心配そうな顔を少しだけ緩めて、紅茶をのせた盆をティーテーブルに置いた。
そうしてフィリップの方をちらりと見て、瞬きをする。
「日記…ですか?」
「わ、わっ……」
フィリップは慌てて開きっぱなしにしていたページを腕で隠す。正直、ただの日記だったら見られても恥ずかしくないけれど、今日のこれは恥ずかしい。
だって、自分とは程遠い、理想の王子様像を真剣に考えていたのを見られるなんて!
「……み、見た?」
「少し、絵が見えたように思いますが……僕が見ると、不都合な物なのですか?」
「うぅぅぅ〜〜〜」
フィリップは口をムズムズさせていたが、やがて観念し、ノートに被せた腕を退けた。
「…アールなら、いいよ」
従者に見られると思うと恥ずかしいが、親友のアークなら構わない…かもしれない。
フィリップがポソポソと小声でそう言えば、アールはどれどれと日記を覗き込む。
そうして、そこに書かれた文字を見て目を丸くした。
「……『女の人を上手に褒められる』?」
「だって、この間、メアリーにいっぱい叱られたじゃないか……『殿下は社交辞令も理解できないのですか!』って」
物語の中の王子様は、いつだって甘く素敵な言葉で女の人を上手に褒めるのだ。
まるで絹のように美しい髪ですね、とか、貴女は一輪のバラのようだ、とか。
フィリップは大真面目にそう主張するも、アールはいまいちピンときていないらしい。
「それは、王子様の条件と、違うんじゃないかな……
「……メアリーだって、褒め上手で素敵な王子様の方が良いに決まってる。私の婚約者候補にされて……内心、迷惑だって思ってるはずだ」
フィリップは日記に描いた理想の王子様像を見直して、だんだんと悲しくなってきた。
誰からも愛される理想の王子様と自分は、なんて程遠いのだろう。
グスッと鼻を啜ると、アイザックが手を伸ばして羽ペンを取り上げる。
一体、何をするのだろう? と思いきや、アールはフィリップが書いた理想の王子様の条件の一つ「みんなに優しい」の文字に花丸をつける。
「僕は、君より優しい王子様を知らないよ」
そう言ってニコリと笑うアールに、彼の方が王子様みたいだ、とフィリップはこっそり思った。
* * *
その日の午後、フィリップはベッドからもぞもぞと抜け出すと、部屋の窓を開ける。
フィリップの部屋は、窓を開けて少しだけ身を乗り出すと、中庭の奥の様子がよく見える。
アールの前でこれをやると「危ないからダメです」と叱られてしまうのだけれど、今はその心配もなかった。だって、アールはその中庭の奥の方で、剣の訓練を受けているからだ。
アールは勉強ができるだけでなく、身体能力も高い。今も大柄な剣の師範を相手に、互角の立ち回りを見せている。その訓練の様子をこっそり窓から眺めるのが、フィリップは好きだった。
「……かっこいいなぁ」
アールはフィリップと二歳しか違わないけれど、頭の回転も速いし、立ち振る舞いも品がある。フィリップが挨拶の言葉に困っていると、さりげなく助け舟を出してくれたりもする。
(……メアリーも、アークが王子様の方が嬉しかっただろうな)
はぁ、と溜息を吐きながらフィリップはアークの姿を目で追う。
剣の訓練は一休みになったのか、アールは剣を置き、汗でぐっしょりと濡れた上着を躊躇なく脱いで、頭から水をかぶった。その引き締まった背中には鞭で打たれた痕が残っている。
その傷痕を見るたびに、フィリップは痛ましさと罪悪感に胸が潰れそうになった。
鞭の痕から目を逸らすように視線を落としたフィリップはふと気づく。アークの右の脇腹に目立つ傷痕があるのだ。
「………………え?」
フィリップは思わず窓から離れ、自分の上着の裾を捲った。フィリップの脇腹にもよく似た裂傷がある。いつだったか木から転落し、枝が刺さった時の傷だ。アイザックの脇腹の傷はフィリップの傷痕と位置も大きさも、ついでにいうと治り具合も酷似していた。
「……なん、で?」
出会ったばかりの頃は、アークにあんな傷痕なんて無かったはずだ。
それにアークがあんな大きな怪我をしたという話を、フィリップは今まで一度も聞いたことがない。
(……まさか、お祖父様が?)
フェリクスが木から転落した事件の時、もしかしたらアイザックは監督不行届きで祖父から責められたのではないだろうか? その罰でアイザックがあの傷を与えられたとしたら?
(……そんなの……そんなの……っ)
フィリップは肩と足を震わせる。それが悍ましさからか怒りからかは分からなかった。
ただ、そこから祖父の部屋の前に行くまでの記憶は………思い出せない。
* * *
祖父であるアズノール公爵の部屋の扉は、いつだってフィリップにはとてつもなく大きく見える。
きっと祖父に対するプレッシャーが、彼をそう感じさせるのだろう。
この扉を前に、逃げたいと思ったことは一度や二度じゃない。それでも、フィリップは自分の中にある勇気を振り絞って、扉をノックした。
「フィリップです。お祖父様にお話ししたいことがあります」
しばしの間を開けて「入れ」と短い返事が聞こえた。
フィリップは震える手でドアノブを握り、ゆっくりと開く。
公爵はフィリップに背を向けるようにして、書類を書いていた。いつだってそうだ。公爵がフィリップに目を向けるのは、侮蔑の目を向ける時だけ。
それを分かっていたから、フィリップは祖父の背中に率直に話しかけた。
「アールのことで、訊きたいことがあります」
返事はない。だが、黙れと言われないのなら、言葉を続けて良いのだろう。
フィリップはコクリと唾を飲み、舌を噛まないように気をつけつつ、言葉を紡ぐ。
「アールの右の脇腹に、大きな傷痕がありました。私の脇腹にあるのと、全く同じ傷痕です。彼の傷について、お祖父様は何かご存知なのではありませんか?」
書き物をしていた公爵の手が止まる。やはり、何か知っているのだ。
公爵はゆっくりと振り向き、始めて無表情に己の孫を見た。
「そろそろ、良い時期か」
「……?」
訝しむフィリップに、公爵は端的に告げた。
「アールは、お前の影武者として育てるべく引き取った。いずれ、肉体改造魔術で顔もお前と同じに作り替える」
「…………は?」
飲みこみの遅いフィリップは、言われた言葉の意味をすぐに理解できなかった。
アールが己の影武者? 顔を作り替える?
混乱するフィリップを見据える公爵は、いつもの侮蔑に満ちた目をしていた。
それは、理解の遅い孫を見放す目だ。
「ゆくゆくは、公式行事でもアイザックを表に出す。お前はもう、何もしなくていい」
その言葉は明確に、フィリップを切り捨てる言葉だった。
全てを代役に演じさせるから、役立たずのフィリップなどもう必要無いと祖父は言う。
足元から崩れ落ちていくような深い絶望がフィリップを襲った。
それでもフィリップの舌が辛うじて動いたのは、彼がアールを信じて─否、そう願っていたからだ。
「……そのことを、アールは……知っているのですか?」
「引き取られた時から承知済みだ。だから、お前と同じ傷を受け入れた」
それだけ言って、公爵は再び机に向き直る。その無言の背中が語っていた。
……お前に期待することも話すことも、何も無い、と。
それはフィリップにとって、侮蔑されるよりも辛いことだった。
自分はもうとっくの昔に、祖父に見限られていた。だから、祖父は代役を用意した。
アールは最初から、自分がフィリップに成り代わることを知っていた。知っていて、友達になってほしいというフィリップの幼いおねだりを受け入れたのだ。
深く絶望した時、人は声も涙も出ないほど心が凍りつくということを、フィリップは初めて知った。




