3.屋上
ホームルームはあっという間に終わっていた。僕は、ただ一人、薄暗い教室の一角で机に突っ伏しながら寝ていた。
「…………。もう五時半か」
ほとんどの学生が帰っている時間だ。どこからか吹奏楽部の演奏も聞こえるが、雨の音にかき消され、耳に入る情報が少ない。かすんだ視界は数秒、焦点が微妙に合わず、珍しいものを見たように目をぱちくりと瞬かせた。
「残ってるやつはいないか」
そう呟きながら、僕も帰り支度をした。……そんな時だった。鷲のカバンが置いてあることに気づいた。常に持ち帰り、常に学校へ持ってくるこのカバン。忘れたとは考えにくい。
「屋上……なわけはないよな?」
しかしながら、一抹の不安がよぎり、僕は傘を持って駆け出した。階段を二段飛ばしで、今までのタイムレコードを更新しただろうスピードで、駆け上がる。ドアの前へとたどり着くと、そこにはただのドアがあった。そう、南京錠もナンバーキーも無い、何の変哲も無い屋上への扉が。
僕はドアをゆっくりと開ける。だんだんと開ける視界に、だんだんと現れる彼女の姿。傘を差していない、びしょびしょになった鷲の姿があった。
「何やってんだよ、風邪引きたいのか?」
過ぎた不安を捨て、僕は鷲へと近づく。
「この子に近づかないほうがいいと思うナ」
急に声を出す彼女。"この子"と鷲は言ったが。
「……どうした」
僕は彼女が言った静止の命令であろう言葉を無視し、一歩、一歩と前進した。
「わからずやは、嫌いニャのニャ」
……なんか語尾がおかしくないかな。
そう思いながら、まだ近づく。と思った瞬間、鷲が振り返る。その手には、いわゆるハンドガンのようなものを持っていた。……本物だったとしたら、急激に僕は絶体絶命になったわけで。
「この子には近づかないほうがいいニャ。これは私の忠告」
「お前は誰だ? その子にとって何だ?」
「ずいぶんと、余裕綽々にしゃべるネ。本物じゃないとか思ってるのかニャ?」
「僕の質問に答えないあたり、君は自惚れでもしてるのかい?」
言葉のドッヂボール。お互いぶつけている様で逃げの言葉を選んでいる。
「私は、この子の、まぁすべてを知ってる分身みたいなものニャ」
淡々と鷲に似た分身はしゃべる。鷲のそっくりな顔をした別人だと思ったほうがしっくりくる、まったく違うしゃべり方だ。
「ほう」
「雨の日だけ、私は彼女の意識を乗っ取ることも出来るって感じにゃ」
「で、何でこの子に近づいちゃいけないんだ?」
「諸悪の根源だから、とか言えばわかってもらえるかニャ? 疫病神ともあらわせるネ」
いたって真面目な顔――さっきからほとんど表情が変わってないから、どれが真面目かなんてわからないが――をしている彼女から嘘の要素が汲み取れない。疑う気は無いが、さし当って意味のわからない言葉を先程から羅列している彼女の言葉一つ一つに疑問で迎えないと、この話の真意すら不確定になる。
「つまり、近くにいると、厄をうけるってことか?」
「話が早くて助かるニャ。だから、この子に近づかないほうがいいニャってことニャ」
「まぁ、もちろん断るが」
僕は一歩前進する。
「け、決断が早いニャ」
「僕は人を深く知ろうと初めて思った。それが彼女だからな」
「ち、近づくニャ!」
今のは、今までの"この子に"「近づくな」よりも、"私に"「近づくな」のほうのイントネーションに近かった気がする。両手でハンドガンを持ちながら僕のほうに向けてるし。
撃たれない、そう祈り信じながら僕は一歩また一歩と前進し始める。
「や、やめ、くるニャ!」
彼女の指が引き金に引っかかるのを見る。内心、めちゃくちゃひやひやしてるが、外っ面はそういう動揺を見せなくなっている僕。今、そんな体になったことを、後悔半分、感謝半分程度している。
僕はまた一歩進む。彼女は何も言わないが、指を震わせながら、引き金に指をかけ続けている。彼女の足も少し後ずさっている。
僕はまた一歩進む。彼女の指はもはやあと少しでも力をかければ、そこから弾が発射されるんじゃないかと思うほど、力がかかってるように見える。次進めば、その引き金は引かれるだろう。僕はそう思いながら、次の足が出ていた。
僕はまた一歩進む。もはや正気の沙汰じゃなかった。鷲の姿をした見知らぬ人が銃を構えているのに、僕はそこに向かって歩いているんだ。僕に理性なんてもはや無い。何が僕を動かしてるのか、ぎりぎり動いてる頭は理由もわからない。
僕はまた一歩進む。その一歩は、コップぎりぎりに張られた水に、さらに一滴の雫を落としたように。たった一歩だが、その一歩がコップの水を溢れさせ、すべての均衡を崩した。彼女の指に引っかかっていた引き金が、今、引かれた。




