十一
「……そうだな、ここは『ミスター・ハント・オブ・テック』として、責務を全うせねばならないだろう」
そう言ったとき、あの男の空気がわずかに変わった。威圧的なものではなく、むしろ重たくも静かな、深海のような何か。
「私は、本来、ただの観測者だった。だが今回は違う。君のケース、そしてこの『バグ』は、観測だけでは済まされない。『介入』が必要と判断した。だから私は名乗る。これは責任の宣言でもある」
責任、宣言。その言葉が持つ重みを、俺は理解しきれていなかった。ただ、この男は今までとは違う「何か」になったのだという確信だけはあった。
「『バグ』の修正には、情報の改変が避けられない。……具体的には、記憶の書き換えだ」
「記憶……?」
思わず聞き返すと、「司令官」は頷いた。
「君と彼女は、本来交わるはずのなかった『魂の地』で接触した。通常ではあり得ない。そして、その事象は記憶を持ち越したことに因る。ゆえに、記憶と干渉の痕跡を消す必要がある」
「干渉の痕跡……つまり、俺と彼女の、出会いを?」
「そう。出会いの記録、対話の記録、共有した記憶。全てを抹消する。もちろん、君が保持している過去の転生記録も対象だ」
頭が真っ白になる。 ここまで来て……全部忘れる?
(そんな……どうして……)
彼女の声が震えていた。俺の中のどこか深い部分で、彼女の想いがじわりと染み出していく。こんなにも確かに、ここにいたというのに。
「だが、感情そのもの……いや、『痕跡』までは消せない。記録は消えても、心に染みついたものまで完全には抹消できん。……このことが、唯一の救いと言えるかもしれないな」
そう言ったとき、男の目がわずかに揺れて見えた。ほんの少しだけ、人のように。
「記憶はなくなっても、感情は……残る?」
「厳密には、『記録としての感情情報』は消えるが、『魂に刻まれた痕跡』は、まれに次の転生先に影響を及ぼすことがある。それは完全な制御下にはない。……だが希望はある」
希望か……
「了承を得たい。これは形には残らない、記録されない、ただの口頭による「同意」になるが……」
「司令官」がそう言ったとき、俺はふと横を見た。なぜだろうか。
そこにはこの娘がいるような気がした。彼女は、何も言わずに、でも確かに俺を見ていた気がした。
(私は……記憶を失っても、あなたが幸せに生きてくれるなら、それでいい。あなたが笑って生きていけるなら、私は……もう十分)
(それは……卑怯じゃないか?)
(違うの。私はもう、覚悟ができてる。だからあなたが、自由に決めて)
(いいんだな?)
目を閉じて、深く息を吐く。
どこかで、こうなることは分かっていた。あの場所で出会ったときから。ずっと一緒にはいられない、いつか別れる時が来ると。俺たちは、きっと何も持ち帰れない。
「……分かりました。消してください。俺も、彼女も……」
言葉にならない想いが喉に詰まった。
俺は強がっている。分かってる。
「消してください」なんて言いながら、本当は、怖くて仕方ないんだ。失うのが、嫌だ。消えるのが、嫌だ。でも、彼女のために俺が泣くわけにはいかない。最後ぐらい、強くありたい。
……でも。
……でも、俺は、……彼女のことを、忘れたくない……
「では、処理を開始する。ありがとう。これで、すべてが修正される。あとそうだ、君からデータを取るのはまたいつかの機会にしよう。別に急ぐことじゃないからな」
「ああ、分かりました……あとそうだ、この部屋なかなか良かったけど、少し風情ってものが足りませんでしたね。風の音とか虫の声とか、そういうのが日本人の好みってこと、覚えておいてください。このお茶菓子はかなりの絶品でした!」
「そうかい。覚えておくよ」
光が満ちていく。
情報が剥がれ落ちるように、俺の中から何かが消えていく。
(……また、どこかで……会えるといいね)
次にまた、どこかで会うとしても、俺らは互いのことを覚えていない。他の体に転生しているだろうからそもそも分からないだろうし。永遠の別れとなるだろうな。
……最後に彼女に伝えなければ。
(ああ……短い間だったが楽しかったよ……ありがとう)
今度は言えた。感謝の言葉。
……と思った次の瞬間、俺の前に彼女が立っていた。
顔は、あの時のままだ。笑って、泣いて、でもどこか穏やかな表情だ。……俺は幻でもみているのかな。
「あなたの記憶が消えても、私は……あなたを忘れない。……たとえそれが嘘でも、言わせて」
「ありがとう。私、あなたのこと絶対忘れたりなんてしない」
彼女の言葉とともに、世界が白く塗りつぶされた。
言葉にならない祈りが、沈黙の中に浮かんで、そして——
……ここは?俺はさっきまで何を?……思い出せん。何があったんだ?なぜ俺は泣いている?なぜこんなにも悲しいんだ?
泣いている。
俺の意志じゃない。けど、止まらなかった。
たぶん俺は、何かを……とても大切な何かを、置き去りにしてきた。
思い出せないまま、それだけは確かに感じていた。誰かが、俺の中で、「さようなら」と言っていた。
ちくしょう、何も分からん。せめてここがどこなのかさえ分かれば……
誰だ、この女は?おい待てよ、なぜ俺が抱ける?そんなに軽かったっけ?
ん?なんでこんなに俺の手は小さい?ああ、声が出ない!クソっ、泣き声しか口から出ねぇ。この人は俺の母親か?若いな。
そうか……俺は赤ん坊に「転生」したのか。でもなんでだよ!どうして死んだ?俺はどうなっちゃったんだ?
俺は確かにさっきまで日本にいたはずなんだが……どうなったんだ。何でここへ来た?
困った。まさかここは、しょうもない設定の世界じゃないよな?俺は普通の人生を歩みたいんだぜ。チート設定もコスプレ衣装も舞台セットも要らんからな。
ただまあ、せっかくどこかに生まれ変わったんだ。しかも過去の記憶持ち!完全に人生有利じゃないか!どうせだし、楽しませてくれよ……!




