過去 1ー(3)
カフェで彼女は、ブレンドコーヒーを頼み、ぼくはオレンジジュースを注文した。
このカフェは書店内の書籍の持ち込みが可能だった。
カフェでは、自分で持ってきたであろう本を読んでいる人や、近隣の学校の学生が勉強していた。スーツ姿の男性は険しい顔をしてパソコンのキーボードを叩いている。
ぼくは詩集を持ったままだった。
ぼくたちは奥の丸テーブルの席に座ることにした。
「健はコーヒー飲めないの?」
席につくなり、彼女が言った。
「コーヒーを飲むと体調が悪くなるんだ。香りは好きなんだけどね」
「ふーん」
彼女はぼくの返答にさほど興味がなさそうだった。
彼女の視線は、ぼくが持ち込んだ詩集に注がれている。
「その詩集、どうだった?」
「とてもよかったよ」
「それだけ?」
「いろんな感情が湧いてきたけど、あんまり感想を人に言うのは好きじゃないんだ」
「どうして?」
「だって、ぼくは話すのも苦手だし、感想を口に出してしまうと、感じた想いが消えてしまいそうで……」
「そうなのね」
彼女はそう言うと、テーブルの上の詩集を手に取った。
彼女はしばらくの間、詩集を広げることもなく、沈んだような冷めた目で見つめていた。
出会ったばかりだったが、彼女がそんな目をするなんて思っていなかった。
そのときの彼女の目は、ぼくのイメージする彼女からかけ離れていた。
「ありがと……」
「うん……」
重たい沈黙が降りた。
ぼくは再び、視線を漂わせた。
息苦しさを覚え、軽いめまいがした。
「大丈夫?」
彼女は心配そうな目をしてぼくを見つめている。
先ほどまでの目とは全く違う目で。
「う、うん……大丈夫」
「なんか、ごめんね、空気悪くしちゃって」
「ううん、気にしないで……このアーティスト嫌いだったかな?」
ぼくは恐る恐る聞いた。
「あのね……やっぱりいいや」
彼女は歯切れ悪く言った。
「そっか」
「ねえねえ、それよりも、健ってもしかして歌詞に興味あったりするの?」
「えっ」
「えっ、じゃなくて、質問に答えて。歌詞に興味あるの? ないの?」
彼女は真剣な眼差しでぼくを見据えて言った。
「うん、少し」
「やっぱり。そんな気がしたんだ」
「どうしてそう思ったの?」
「詩集を読んでる目を見てよ」
「ぼくが詩集を読んでるとこ見てたの? ぼくはてっきり音楽に夢中になっているものだと思ってた」
「音楽も聴いてたけど、それより、健の真剣な顔にひかれたから」
「えっ……」
「別に他意はないわよ。勘違いしないでね」
「別に勘違いなんてしてないよ。自分が異性に興味を持たれるなんて考えたこともない」
「ふーん、そうなの? 私の美的感覚からしたら健はいい男よ」
彼女は表情ひとつ変えずに言った。
ぼくは返す言葉に困った。
ただ、口をぽかんと開けていた。
「話がそれた。で、歌詞に興味はあるのね?」
「う、うん……」
「じゃあ、力を貸して」
「力って、ぼくの力を?」
「そう。それ以外に何があるの」
「でも、ぼくの力なんて、全然たいしたものじゃないよ」
「それを決めるのは健じゃないでしょ。私が決めること」
「うーん、そうだけど……」
ぼくは彼女から視線を外し、カフェのカウンターに目をやった。
女性の店員と目が合い、慌てて彼女に視線を戻す。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど。ぼくが歌詞に興味あることが君に何の関係があるの?」
「あっ、ごめん。そう言えば、まだ言ってなかったわね。私は歌手を目指しているの。プロの歌手をね」
彼女はあいさつをするように言った。
プロの歌手。
ぼくの心臓が脈打った。
強く、強く。
その響きは、異国語を初めて聞いたときのような響きを持っていた。
もちろん、歌手がどういう職業かは知っている。
だが、歌手という職業はなろうと思ってなるものではないと思っている。
選ばれた人たちだけがなれる特別な職業。
少なくとも、ぼくはそう考えていた。
「プロの歌手……」
ぼくは漠然とつぶやいた。
彼女にはそのつぶやきは聞こえていたようで、すぐに反応があった。
「そうよ。プロの歌手。必ずなるの。夢じゃないわよ。目標。夢なんて、眠っているときにだけみればじゅうぶんよ」
「なれないときのことは考えないの?」
「考えない。必ずなってみせるから。健は私には無理だと思うの?」
「無理かどうかはわからない。ただ、君なら、なれそうな気がする。でも、ぼくの言うことなんて当てにしないほうがいいよ」
「ううん、そう言ってもらえるだけでも、うれしい。でも、まだ歌を聴かせていないから、ほんとのところはわからないよね。ねえ、今度、お互いに発表しない? 健は歌詞を。私は歌を」
「えっ、でも。ぼくの歌詞は他人に見せられるようなものではないんだ。ほんとに。ただの落書きみたいなものなんだ……」
「もう、うじうじして。こんなかわいい子がお願いしてるのに」
彼女はそう言うと、上目遣いで、ぼくを見つめてきた。
ぼくの心臓が思わず跳ね上がる。
確かに彼女は可愛い部類に入る女の子だろう。
綺麗な二重に強気な性格をそのまま表したような上向きの長い睫毛。小さな顎に、それぞれのパーツが嫌みな主張なくバランス良く正しい位置に配置されている。
ぼくは数秒間も彼女の視線を受け止めることができなかった。
彼女はそれを面白がってか、椅子から体を乗り出した。
ぼくの視線の先に自分の顔を持ってきて、様々な表情で、ぼくを追い詰めてくる。
ぼくは少し意地を張ってみた。
彼女のペースに振り回されるのは決して嫌ではなかったが、ぼくなりの反抗を試みることにした。
ぼくは彼女の視線から逃亡することをやめた。
思い切って、目を閉じたのだ。
両拳も握りしめ膝の上に置く。
彼女の存在を視界から消し去った。
ふーんと彼女が言った。
次は彼女が困る番だ。ぼくは聴覚を頼りに彼女の動きを読もうとした。
だが、彼女はぼくの想像を上回る行動に出る。椅子を引く音がした。目の前から彼女の気配が消えた。
そう思った次の瞬間。
鼻腔を甘い香りが通過していった。彼女はぼくのすぐそばまで来ていた。
それから、耳元で、お願い、とだけ言った。
ぼくは椅子から飛び上がりそうなほど驚いた。思わず、目も開く。
彼女は、ぼくの右側に中腰の姿勢で、小首を傾げている。薄い唇の片方だけを上げて。思い切り勝ち誇った表情をして。
お手上げだった。ぼくは首を左右に振り降参の意志を示す。
すると、彼女は、それでいいのよ、といわんばかりに大きく頷いた。
茶番に過ぎないことだった。だが、ぼくはどこかで満足していた。彼女に相手にされていることに。
「わかったよ。ひとつだけ、条件を出してもいい?」
「なにかしら?」
彼女は女優にでもなったかのような口調で言った。




