過去 1ー(2)
そのためには、解決しなければいけない問題がある。
横目でちらりと彼女を見やる。
あいかわらず、自分の世界に入り込んだままだ。
ぼくはなけなしの勇気を出すことにした。詩集を早く読み返したい気持ちが勝ったのだ。イヤフォンから流れる曲がサビに入る直前。その勢いにも頼って。
心を奮い立たせて、首だけでなく全身を彼女の方に向けた。
互いの耳からイヤフォンが外れる。
音が消えた。
ぼくはトンネルの中で、唯一頼りにしていたろうそくの火が消えて、真っ暗闇に陥った感覚になった。
視線が宙で漂う。視線の置き場所がない。鼓動が速まる。
しばらく視線を漂わせていると、ふと赤いリボンが目に留まった。
彼女の制服の胸部辺りに、アクセントのように収まっている。
ぼくは視線をそのリボンに合わせることにした。
するとすぐに声が飛んできた。
「そんなに凝視するほどのものじゃないでしょう」
その声は皮肉めいた色をしていた。
「いや、違うんだ」
ぼくはそう言うと、ようやく彼女を正面から見据えた。
彼女は唇を少し尖らせていた。
だが、その仕草が素材の良さをかえって引き立てていた。
二重の大きな目で、ぼくを品定めするように見ている。
やはり、華奢で小柄ではあるが、均整がとれていてスタイルが良くみえる。
「何が違うのか説明しなさい」
「いや、あの……リボンを見ていただけで。――をみていたわけではないんだ」
「なに? 聞こえない」
「だから、その、ほんとに、胸を見ていたわけではないんだ」
「そうよね。わたしには思わず見てしまうほどのものはないですから」
彼女はそう言うと、今度は唇を歪めて、薄い唇から舌を出した。
そこまでされて、ようやく、そもそもぼくに落ち度はないのではないか、と思い至った。
いきなり見ず知らずの他人のイヤフォンを奪い取り、自分の物のようにイヤフォンを使い始めたのだから。
ぼくはそんな当然のことに今更ながら気づいた。
少しだが怒りのような感情がふつふつと湧いてきた。
ぼくは思い切って抗議をすることにした。なけなしの勇気を振り絞って。
「だいたい君がいきなりぼくのイヤフォンを取って、音楽を聴き始めたんだよ。ぼくは悪くないんじゃないかな……」
結局、強く避難することはできず、次第に声は小さくなっていった。
「そう。あなたは悪くないわよ。私はあなたが悪いなんて言った?」
「言ってはないけど。でも、普通はあんなことしない」
「そうでしょうね。普通は、ね」
彼女はそう言うと、視線を逸らして目を伏せた。
「君はどうしてあんなことをしたの?」
「うーん、強いて言えば、死ぬ前にやってみたことのひとつだったから」
死ぬ前に。その言葉を彼女は掛け算を言うように言った。
「えっ……死ぬ前に……って、なにを言ってるの?」
「なにって? ただ、事実を言っただけよ」
彼女はぼくを見据えて言った。
その目は、とても冗談を言っているようには見えない。
ぼくは返す言葉に窮して、再び視線を漂わせる。
ぼくに苛立ったのか、彼女がぼくの答えを待たずに言った。
「ねえ、さっきから気になってたんだけど、君、君、って、私にだって名前があるのよ」
そう言われ、再び視線を彼女に合わせる。
彼女は好戦的な顔をしていた。
「じゃあ、名前を教えてよ……」
「いいわよ。その代わり、私が名乗ったら、あなたの名前も教えて」
「それはもちろん」
「私は、美音。美しい音で、みお。大仰な名前よね……」
彼女は名乗り終えると、ほんの一瞬だったが、顔に影が落ちた。
本当にほんの一瞬だったが。
ぼくはその瞬間を見逃さなかった。
「じゃあ、次はあなたの番よ」
そう言った彼女の顔は、すでに元の顔になっていた。
「ぼくは、結城健」
「素敵な名前ね。あなにピッタリよ。健」
彼女は、ぼくに了承も取らず、いきなり呼び捨てる。
ぼくは、呼び捨てにされたことは初めてだった。
少しだけ、鼓動がはやくなった。
「ありがとう」
「じゃあ、お互いの名前もわかったことだし、もっと交流を深めましょう?」
「へっ?」
思わず、間抜けな声が出た。
その間に、彼女は書店内に併設しあるカフェに向かい始めていた。
彼女の足取りは軽やかだった。
ぼくは彼女の後ろ姿をしばらく眺めていた。
彼女はぼくがついてきていないことに気づくと、挑発するような仕草でぼくを手招いた。
まったく。
何てマイペースなんだ。
ぼくは彼女に引っ張られるようについていった。




