過去 1ー(4)
「君の歌を先に聴かせて。それが条件」
「もちろん。じゃあ、いつにする?」
彼女のペースは変わらない。彼女は今までも、こうして生きてきたのだろうか。いつも、他人の顔色を窺って生きてきたぼくにはとうてい真似できそうにない。
「そうだね。平日は学校があるし、土曜日か日曜日はどうかな?」
ぼくは同じ学生なら、土日が都合いいのではないかと思い、気軽に提案したつもりだった。だが、彼女の顔を見ると、急に表情が曇ってしまった。
ぼくは心配になり、彼女に訊ねる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「……ごめん、土日はダメなの。ちょっと外せない用事があってね……。私から言い出したことなのにほんとうにごめんなさい」
彼女は深く頭を下げて言った。ぼくは彼女の突然の変化についていけず、思わず目をしばたかせる。
「そんなに謝らないでよ。土日がダメなら、学校が終わった後でも大丈夫だから」
「ありがとう。その方が助かる」
彼女は弱々しい表情をして言った。
「うん、ぼくはかまわないんだけど」
彼女の表情と土日の用事が気になった。だが、これ以上は追求していけないような気がして、ぼくは口を噤んだ。
「じゃあ、今日はそろそろ帰りましょうか」
沈んだ表情のまま、彼女は言った。それから、立ち上がり、ため息をひとつ吐いた。
「う、うん。そうだね」
ぼくと彼女のドリンクは、氷がすべて溶け、薄くなっていた。そんなドリンクを彼女は一気に飲み干す。
ぼくは薄くなったドリンクは苦手だったので、残すことに罪悪感を抱きつつ、ごめんなさい、と小さな声で言った。
彼女はそんなぼくのことを見ていたようで、えらいわね、とだけ言い、出口に向かいあるき始める。彼女は早くこの場所から立ち去りたいようにぼくには感じた。やはり、何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。
ぼくは慌てて残ったドリンクを片付け、手に持ったままだった詩集を購入して、彼女の後を追った。
店内には、まだ入店したときと同じアイドルグループの曲が流れていた。
外に出ると、夏特有の体にまとわりついてくるようなぬるい風が吹いていた。夏は苦手だ。
スマー卜フォンで時刻を確認すると、十八時前だった。空はまだ明るい。空には月が出ている。空の色は絵の具のオレンジを原色のまま用紙に塗りたくったような色をしている。
彼女はどこに行ったのだろうか。ぼくは彼女の機嫌を損ねてしまったのかもしれないと思って、さきほどまでの話はなかったことになったのだろう、と思い直していた。
辺りを見回しても、彼女の姿はない。やっぱり、冷やかしだったのだろう。そう思い始めたときだった。
彼女の姿を駐車場の隅にある自動販売機の近くに認めた。
彼女は壁に背を預けて、何かを飲んでいるようだ。カフェのコーヒーは残したのに。
ぼくは車に注意しながら彼女のもとに小走りで向かった。
彼女がぼくに気づくと、彼女は苦笑いを浮かべた。ぼくは彼女に向けて、軽く手を上げて応える。
「大丈夫?」
「どうかな」
彼女は、ぼくから視線を逸らして言った。
「いったい、どうしたの?」
「健に言っておかないといけないことがあるの。きっと驚くだろうけど」
「なんだろう?」
ぼくの心臓がドクンと脈打つ。
「あっ、詩集、買ったんだね。その詩集に関係あることなんだ」
「えっ?」
「私の兄なの。リバースのボーカルの亮……。まあ、兄と言っても血縁関係はないんだけどね。義理の兄……」
「えっ?」
ぼくは、もう一度反応をした。だが、先ほどとは違って、少しだけ声が裏返った。動揺を悟られないように言葉を紡ごうとしたが、彼女にはそんなことはお見通しだろう。
「驚いたよね。健には、知っていてほしいと思ったんだ。誰にもいってないんだけどね」
彼女はそう言うと目を伏せた。睫毛が長く太いので目元に影ができる。
「ぼくに言って大丈夫なの? まだ知り合ったばかりなのに」
「うん。健は信用できるって感じているから。大丈夫だよ。それより、こんな話をいきなりされて信じるの? 新手の詐欺かもしれないよ」
「それはそうだけど、ぼくからだまし取れるものなんてなにもないから」
「ふーん、健は卑屈なのね」
「そうかもしれない……」
「それじゃあ、健の歌詞、たのしみにしてくるから」
彼女はぼくを真っ直ぐに見て言った。
ぼくは思わず視線を逸らしそうになる。でも、逸らさなかった。ここで視線を逸らせば、彼女の期待に背いてしまうことになると思ったからだ。
「がんばってみる」
ぼくは今言える精一杯の言葉を彼女に言った。
「じゃあ、またね」
「あっ、次はどこで?」
ぼくがそう訊くと、彼女は、うーん、と考えるような仕草をして言った。
毎回、カフェを使うとお金がかかるので、彼女はとある公園の名前を口にした。その公園はぼくも知っている公園だった。自宅からは自転車で十分とかからない距離にある。
ぼくは、その公園で問題ない、と返事をした。
すると、彼女は、ごめんね、と突然言った。
どうして謝るの? ぼくがそう訊くと、彼女は、本当は連絡先を教えたいんだけど、と言った。本当に悪いことをした、というような顔をして。
ぼくは口約束だけでも十分だと思っていたので、彼女のそんな表情を見て心が少し痛んだ。
「ちょっと事情があってね」
彼女は呟くように言った。
「気にしないで。その公園なら自宅から近いし、何度か行ったことあるから」
「それならよかった」
彼女が言った。
それから、次に会う日時を決めて、彼女は帰路についた。
ぼくは彼女の姿が見えなくなるまで、視線を定めず、漠然と彼女とオレンジ色に染まった空を見ていた。
彼女の姿がぼくの視線から完全に消えて、ぼくは自動販売機でブラックコーヒーを初めて買った。
初めて飲んだブラックコーヒーの味は、思ったよりも悪くはなかった。だが、もう二度とブラックコーヒーを飲むことはないだろうとも思った。
ぼくは半分以上残ったブラックコーヒーを捨てて、ため息をひとつ吐いた。
これから何か大きなことが始まりそうな予感がする。
心は今まで感じたことがないほどに弾んでいたが、彼女の陰のある表情が頭から離れなかった。




