母について 1
ぼくが初めて人の夢の中に入ったのは、今から六年前、小学六年生のときだ。
相手は母親だ。
母は毎日、ぼくが眠りにつくとき、ぼくの背中をさすってくれていた。
ぼくはそうしてもらわないと眠ることができなかったのだ。
母親はぼくを否定もせず、深海のような深い瞳でぼくをじっと見つめて、気にしなくていいのよ、といつも言ってくれた。
ぼくは母にそう言われると、何も言い返せなくなり、ただぎゅっと目をつぶっていた。
母はそんなぼくを見て、力まなくていいのよ、と言い、笑いかけてくれた。
母には持病があり、ほとんどの時間を自室で過ごしていた。
父も母も、病名については一切教えてくれなかった。
ぼくは学校から帰ると、ランドセルを背負ったまま、母の部屋に直行していた。
母はいつも、おかえり、と優しい声音で、ぼくを部屋に迎え入れてくれた。
父には母に負担をかけないように言われていたが、その頃のぼくは、母の隣しか居場所がなかったのだ。
ある日。
帰宅すると、父がいた。もちろん、父の家だから、父がいることは当然なのだが、昼間に父が自宅にいることは珍しいことだった。
父は、ぼくを見て、おかえり、と何の感情もこもっていない声で言った。
ぼくは、ただいま、と小さな声で返した。
母の部屋に向かおうとしたとき、父の視線を感じたので、一瞬だけ振り返り、父の顔を見た。
父の目には、声と同様、何の感情も感じ取れなかった。
背筋に寒気が走り、父から逃げるように母の部屋に向かった。
母は、いつものように、おかえり、と言ってくれた。
だが、すぐに母の表情が変わった。
眉尻が下がり、不安そうな顔になった。
ぼくはそのとき、よほどひどい顔をしていたのだろう。
母がそんなに心配そうな顔をしているのを見たことはなかったから。
母は、おいで、と言い、ぼくを布団に迎え入れてくれた。
ぼくは母に吸い込まれるように、布団のなかに滑り込んだ。
母は何も言わなかったが、ぼくと父の間に何かがあったことに気づいていたのだろう。
布団に入ったぼくの頭を優しく撫でてくれた。
ぼくはそれだけで、心の空洞が埋まった。
母が、今日は特別に歌を歌ってあげる、と言った。
ぼくは目を輝かせて、うん、と答えた。
母はぼくの手を握り、歌を口ずさみ始めた。
聴いたことのない歌だった。
でも、心地よかった。
ぼくのまぶたはすぐに重たくなった。
眠りに落ちる最後の瞬間に見た母の顔は、いつものように優しい表情だった。
だが、少しだけ泣きそうな顔をしていた。
そして、母がこう言った気がした。
「あなたにも、人の夢の中に入る力があるはず」と。




