現在 2ー(1)
帰宅すると、ぼくはコップ一杯分の水を一気に飲み干し、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。
海斗に連絡するために。
彼女に会いに行くことを決めたとき、海斗に声をかけた。それは、ぼくに課せられた責務のように感じたからだ。
電話越しで、海斗は、
「俺は行かない。おまえ一人で行ってこいよ」
とだけ言った。
海斗の声には、どこか諦めの色が感じ取れた。現在まで、深淵病を克服した人間がいないからだろうか。
海斗はそうは言ったが、昔馴染みの病状が気にならないわけはない。
ぼくは彼女の現状を伝えるためにも海斗に電話をかけた。
「かけてくると思ってた」
ぼくが声を出す前に、海斗は平板な声で言った。
「天野さんのお見舞いに行ってきたよ」
「知ってる」
「それだけ?」
「それだけだ」
「天野さんのこと、心配じゃないの?」
「……あいつが克服できなかったことは、俺が知る限りないからな」
「そうなんだね」
「ああ」
「状態は変わっていないみたいだよ。良くも悪くも」
「悪くなっていないなら、じゅうぶんだ」
海斗がそう言った後、重たい沈黙が降りた。
ぼくは少しだけ気まずさを覚えたので、部屋の本棚に視線を合わせた。
視線の先には、亮の詩集があった。
「ねえ……」
「どうした?」
「天野さんから、亮に会ってきてってお願いされたんだ」
「そうか」
「海斗にもついてきてほしい」
電話越しで息を吐く音がした。
「わかったよ。ついていく」
「ありがとう」
「別にお前のためじゃない」
「わかってる。天野さんのためだよね?」
「美音のためでもない。俺自身のためさ」
「そっか」
「じゃあ、またな」
「うん、また連絡する」
電話が切れる音がした。
ぼくはスマートフォンを机に置いて窓を開けた。
空に浮かぶ月は、面積の半分以上を雲に覆われている。
ぼくは、しばらくの間、雲の流れを目で追った。
ぼくが見ている間、月が全身をあらわすことはなかった。
亮に会うのは、もちろん初めてだ。
亮の連絡先は、彼女に言われた通り菅原さんに教えてもらった。
菅原さんはそのとき、何か言いたげな目をしていたが、ぼくは問いたださなかった。
亮と彼女のこと。
夢の世界に入ったからといっても、まだ一度だけだ。
二人について、ぼくは知らないことが多すぎる。
湿った風が窓から吹き込み、部屋の中を通り過ぎていった。
ぼくは眠りにつくために、スマートフォンで彼女の歌声を流して、ベッドで横になった。
瞬く間に、まぶたが重くなる。
ぼくは、今日も彼女の歌声で眠りにつくことができた。




