第74.5話 番号のない鳥
工房が閉じた朝、エヴァとニコは、別々の道から同じ古道具市へ来た。
「休みじゃなかったの」
エヴァが聞く。
「休みだ」
ニコの腰には工具袋がある。
「その袋は」
「財布」
「金槌の柄が出てる」
「重い財布なんだ」
エヴァの外套からも、折り畳んだ拡大鏡が少し見えていた。
ニコは指摘しなかった。
古道具市は、港の北水路に沿って並んでいる。
錆びた錠前。片方だけの長靴。文字盤のない時計。持ち主より先に店へ戻ってきた銀食器。
仕事で来れば、使える部品と使えない屑に分ける場所だった。
今日は何も探さないつもりだった。
三軒目で、ニコが足を止めた。
木の鳥が、工具箱の上に載っている。
胴は手のひらほど。翼は薄い真鍮。腹の横に、小さな回し金具が付いていた。
「回してみな」
店主が言った。
ニコが金具を三度回す。
鳥の右翼だけが上がった。
腹の中で何かが擦れ、声の代わりに息が漏れた。
左脚が半分ないため、その場で傾く。
「二リラ」
「鳴かない。立たない」
「飛ばないとも言っておく」
「もともと飛ぶ作りじゃない」
「なら三リラ」
「なぜ上がる」
「分かる客には高く売る」
ニコは二リラ半を払った。
「買うの」
エヴァが聞く。
「休みだからな」
理由にはなっていなかった。
二人は水路脇の石段へ座った。
工房へ持ち込めば、休業日に仕事をしたことになる。
ここなら、ただ玩具を開くだけだった。
ニコが工具袋を広げる。
細いねじ回し。小槌。油差し。銅線。厚さの違う金属片が六枚。
「財布」
エヴァが言った。
「買える物より、直せる物の方が多い」
エヴァも拡大鏡を出した。
「何も言わないの」
「目が悪い人の外套なんだろ」
胴を開く。
中には、回し金具とつながった歯車が三つ。
翼を上げる軸。小さなふいご。空気を音へ変える真鍮の舌。
故障は一つではなかった。
左翼の軸には塩が固まり、ふいごの革は裂け、真鍮の舌は根元から曲がっている。
ニコは曲がった左翼を持ち上げた。
「先に翼」
エヴァは曲がった真鍮の舌へ触れた。
「先に声」
「立たない鳥が鳴いても、倒れた玩具だ」
「黙って翼を振る方が怖い」
「誰が怖がる」
近くで魚を売っていた女が、こちらを見た。
二人とも声を落とした。
ニコは軸を外し、塩を削った。
エヴァは裂けたふいごを指で押す。
穴は小さい。だが一度空気を送るたび、裂け目が少し開く。
「革を替える」
「新しい革はない」
「財布に入ってないの」
「昼飯ならある」
ニコが平たいパンを出した。チーズを包んだ油紙が、ふいごの革と同じくらい薄い。
エヴァは油紙を二重にし、裂け目へ当てた。
「チーズの匂いで鳴く鳥になる」
「売らないなら、苦情は来ない」
油紙を貼り、翼の軸を戻す。
左脚は、工具袋にあった細い木片を削って足した。
高さを合わせたはずが、新しい脚だけ少し長い。
「削り直す」
「先に動かす」
「傾く」
「倒れた方を見てから削る」
ニコが回し金具を五度巻いた。
鳥は立った。
右翼。
左翼。
一歩。
二歩。
三歩目で右へ曲がり、エヴァのパンへ倒れた。
腹から空気が抜け、パン屑がニコの膝まで飛んだ。
声は出なかった。
エヴァが笑った。
声を立てた後、自分で少し驚いた顔をする。
「試験失敗」
ニコが膝の屑を払う。
「試験ではないわ」
「では、何だ」
エヴァは答えず、チーズの包み紙の端へ書いた。
右へ三歩。ふいご作動。発声なし。
「記録してる」
「次に同じことをしないための覚え書き」
「それを記録と言う」
真鍮の舌を外す。
根元の曲がりを直せば、元の厚みが分からなくなる。
新しい舌を作れば、音は出る。ただし、この鳥が以前どんな声だったかは消える。
「替える?」
ニコが聞いた。
エヴァは曲がった舌を灯りへ透かした。
「裏返して使う」
「真っすぐにはならない」
「今日は、合格品を作っていない」
曲がった舌を逆向きに留める。
ニコは長い方の脚を、爪一枚分だけ削った。
二度目。
鳥は五歩進んだ。
右へ小さく曲がる。
翼を交互に上げ、最後に、潰れた笛のような声を出した。
水路の向こうで、子供が笑った。
鳥も、笑い返したようにもう一度鳴いた。
「まだ脚が長い」
エヴァが言う。
「まっすぐ歩けという注文は受けてない」
さきほどの言葉を返され、エヴァは鳥を見た。
右へ曲がりながら、石段の上を五歩だけ進む。
六歩目で止まった。
倒れない。
古道具屋の店主が、いつの間にか後ろへ来ていた。
「五リラで買い戻す」
「売らない」
二人の声が重なった。
「二リラ半の儲けだぞ」
ニコが算盤の珠を二つ戻す。
「左脚の材料費が入ってない」
エヴァは計算紙の余白へ一行足した。
「試験費も」
「試験じゃないんだろ」
店主は笑い、鳥の声をもう一度聞いてから戻っていった。
昼を過ぎても、二人は石段にいた。
パンは半分、鳥のふいごへ使った油紙は戻らない。
残ったチーズを分けて食べる。
工房の窯は、遠くで煙を出していなかった。
「名前を付ける?」
ニコが聞く。
「製品番号なら付けない」
「名前だ」
エヴァは鳥を見る。
真鍮の翼。長さの違う脚。油紙のふいご。以前の形を残した、曲がった声。
「鳥でいい」
「雑だな」
「名前を付けたければ、あなたが付けて」
ニコはしばらく考えたが、何も言わなかった。
帰り道の分かれ目で、鳥を布へ包む。
「どちらが持つ」
「金を払ったのは俺だ」
「記録は私が持ってる」
「覚え書きだろ」
「次の休みに要る」
ニコは包みを抱え直した。
「それまで触るな、と?」
「壊さないで」
「直すな、とは言わないんだな」
エヴァは答えなかった。
鳥にも答えられない。
それでも布の中で一度だけ、潰れた声が鳴った。
製品番号は付けなかった。
次に包みを開ける日だけ、油紙の裏へ書き足した。
何も探さないはずの休日に、右へ曲がる鳥が一羽増えた。
五歩だけ進んで、潰れた声で鳴く。
まっすぐ歩かせるかどうかは、次の休みに二人で。
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