第74話 一日だけ閉じた屋敷
春の終わり、灰冠の屋敷を一日閉じた。
襲撃でも、葬儀でもない。
休業日だった。
診療所は当番医二人。
工房は窯を止める。
倉庫は緊急荷だけ。
会計室も窓口を閉じる。
用心棒の見回りは各傘下が担当し、ベランディ直系は半数ずつ休む。
「敵に日付を教えるのか」
古参は反対した。
「毎年変える」
「休んでいる日に来る」
「来なければ休めない」
家が大きくなるほど、誰も止められなくなっていた。
母を止める規則は作った。
ルカが眠る前に追い出す規則もある。
組織全体には、止まる日がない。
休業日の掲示を出すと、街の反応は予想以上だった。
「喧嘩の仲裁は?」
「翌日です」
「今夜、倉庫を狙われたら?」
「契約した傘下の見回りがいます」
「若頭の署名が必要な荷は?」
「今日持ってこないでください」
休むと告げただけで、苦情が朝から門へ並んだ。
当日、俺たちは港外れの丘へ行った。
母、ソフィア、テオ、リーナ、ルカ、マルコ。
ブルーノは屋敷へ残ると言い張ったが、母に外套を持たされて来た。
食べ物は各自一品。
俺はパン。
正確には、料理人が焼いたパンを運んだ。
「それは一品を持ってきたことになる?」
ソフィアが聞く。
「運搬を担当した」
「部下の成果を自分のものにする経営者の言い方ね」
テオは焼き栗。
季節が違うため、去年の乾燥栗だった。
リーナに呆れられる。
ルカは人数分ぴったりに切った菓子。
余りも不足もない。
マルコは酒。
母は薬の都合で飲めない。
母は酒瓶を見ただけで眉を寄せた。
「私の前へ置かないで」
ブルーノが自分の背中へ隠した。
丘から港が見える。
列車の煙。
共同工房の煙突。
休業日でも、ほかの家の煙は上がる。
「何を話す」
テオが聞く。
「仕事は禁止」
ソフィアが決めた。
全員、黙った。
一分。
二分。
母が、幼い俺が布の犬を離さなかった話を始めた。
「それはもう聞いた」
「皆は知らないでしょう」
皆へ聞かせたいらしい。
俺が五歳まで暗い部屋で眠れなかったこと。
パン粥の豆を父の皿へ移したこと。
ソフィアに干し杏を渡す前、落とした一個を自分で食べたこと。
「母上」
「仕事の話ではないわ」
正しい。
止められない。
ソフィアが楽しそうに聞いている。
テオは知っていた話へ、さらに失敗を足す。
俺も彼が靴紐を結べなかった話を返した。
「仕事の話をしないなら、何をしたいか話しましょう」
ソフィアが言った。
「いま、している」
「今日ではなくて。仕事がなくても一日使えるなら、何をしたい?」
また全員が黙った。
先ほどより長い沈黙だった。
「寝る」
最初に答えたのはテオ。
「扉の外に誰も立たない部屋で、昼まで」
リーナが見る。
「私の部屋の外にも立たないで」
「寝ているか確認するだけだ」
「それを立つと言います」
「では、隣の部屋で寝る」
「壁へ耳をつけずに?」
テオは答えなかった。
皆が笑う。
「私は、朝市へ行きたい」
母が言った。
「薬草を買わず、患者を探さず、果物を一つ選ぶの」
「何を」
「その日に見て決める。決めずに行くのが大事なのよ」
リーナは、川上の温泉を見たいと言った。
治療のためではない。
湯の成分も測らない。
「測る道具を持っていかない?」
エヴァがいないのに、誰かが彼女の声で聞いた。
リーナは迷った。
「小さい道具なら」
ルカは、料理を習いたいらしい。
「会計と違って、同じ量でも同じ味にならないのが気になります」
マルコは、ルカの皿へ菓子を一切れ戻した。
「もう仕事の顔をしてる」
ブルーノは、答えない。
母が待つと、酒瓶を背中から出した。
「誰にも注がず、一人で一本飲む」
「健康に悪いわ」
「だから、あんたがいない日にする」
母が瓶を取り上げた。
「いま没収された」
マルコは、海の向こうへ行きたいと言った。
逃げるためではなく、帰る船を最初から決めて。
ソフィアは、名乗らなくてよい町へ行きたいと言った。
オルシーニでも、ベランディの共同責任者でもない。
宿帳へソフィアとだけ書く。
「偽名になる」
「名前でしょう」
皆が、俺を見る。
答えがなかった。
仕事がなければ、休む。
休めば、次の仕事へ備える。
何をしたいかを、役に立つかどうかと切り離せない。
「布の犬を直したら?」
母が言った。
「まだあるのか」
「片耳だけ」
俺が幼い頃、何度も引きずって布が擦り切れた。
父が針を持ち、指を刺して投げ出した。
母が耳を縫い、左右の大きさが違っている。
「直したら、母上の縫い目が消える」
「では、新しい耳を足すのではなく、古い方を洗いましょう」
次の休業日には、布の犬を持ってくることにした。
ソフィアは、俺の返事を聞いて笑わなかった。
ただ、来年の予定を覚えるように頷いた。
昼過ぎ、丘の下で火事鐘が鳴った。
全員が立つ。
母の顔が強張る。
俺の足は港へ向いた。
テオが前に出る。
その時、別の鐘が二度鳴る。
鎮火の合図。
市場の油鍋。
市の消防組とロッシ団の見回りが消した。
負傷者なし。
丘まで伝令が来て、報告する。
「戻りますか」
テオが聞く。
戻れば、現場を確認できる。
火元の責任も、明日の補償も早く決められる。
「戻らない」
俺は座り直した。
「明日、報告を聞く」
街は、俺たちが丘にいても火を消した。
母が俺の顔を見る。
「必要とされない時間が、怖い?」
「少し」
「私も」
二人で港の煙を見た。
火事鐘が止んでも、俺の足だけはしばらく港へ向いたままだった。
夕方、屋敷へ戻る。
扉の前に書類が十七通積まれていた。
「休業日と書いたのに」
ルカが顔をしかめる。
すべて明日の日付で受け付ける。
その夜は開かなかった。
翌朝、十七通の書類を置いた者たちは、全員生きて門の前へ戻ってきた。
翌年から、休業日は二日になった。
書類は十七通から二十三通へ増えた。
火事の補償申請。
遅れた荷の受領証。
休業と知らずに来た仲裁依頼。
『今日休むとは聞いていない』という苦情が四通。
知らせは三週間前から出していた。
文字を読めない者へ届いていなかった。
掲示を出しただけで、伝えたつもりになっていた。
「次回は市場と港で口頭の告知をする」
ルカが改善欄へ書く。
火事の報告には、ロッシ団の見回りが最初の水桶を運び、市の消防組が隣家の屋根を剥いだとある。
油鍋の店主は、消火用の砂を切らしていた。
罰金だけでは、次も隠す。
市場組合から砂箱を共同購入し、費用の半分を店主、半分を市場の安全費から出す。
「結局、休んだ翌日に全部決めるのね」
ソフィアが言った。
「休めていない?」
「昨日は休んだ。今日は働いている」
昨日置いてきた仕事は、二十三通になって待っていた。それでも壊れてはいなかった。
二十三通を昼までに分ける。
俺の署名が必要なのは六通。
ルカが処理できるものが八通。
各傘下へ戻すものが五通。
返事の要らない報告が四通。
以前なら、全部に俺が目を通した。
六通だけを持って執務室へ戻る。
机の端に、昨日のパンが一切れ残っていた。
固くなっている。
ソフィアが半分に割る。
「丘では食べなかったわね」
「母上の話を止めるのに忙しかった」
「止まっていなかった」
「努力はした」
固いパンを、二人で茶へ浸した。
窓の外では、屋敷の扉が開いている。
人が入り、紙を置き、別の者が運ぶ。
「昨日、少し怖かった」
俺は言った。
「火事が?」
「戻らなくていいと言われたことが」
ソフィアはすぐ慰めなかった。
「私は、嬉しかった」
「知ってる」
「あなたと一日いても、誰かが死ななかった」
「それを嬉しいと言うのか」
「ずっと、それができなかったでしょう」
彼女の言う「ずっと」には、祭礼の銃声も、父の死も、劇場裏の交渉も入っている。
俺たちの時間は、誰かの危機の隙間にしかなかった。
昨日は初めて、隙間ではなく、一日だった。
「来年も丘へ行く?」
「別の場所がいい」
「仕事のない場所」
「港が見えない場所」
それは難しい、と二人で笑った。
ソフィアは翌年の予定表へ、港の見えない場所、とだけ書いた。
その欄には、俺の署名も灰冠の印も要らなかった。
人数分ぴったりの菓子に、季節外れの焼き栗。
パンを運ぶだけでも、若頭はひと仕事した顔をする。
食べそびれた一切れは、翌朝の茶へ半分ずつ。
丘から持ち帰ったものが、執務室にも少しある。
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