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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第1部<灰冠を継ぐ子> 1章 愛を知らない子

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第8話 祭礼の銃声

2章 父の夜の顔


十五歳の春。


聖燈祭の朝、ヴァレノの港は七年前よりずっと大きく見えた。


子供だった俺の目線では、屋台の布と大人の腰ばかりだった広場も、今は人の流れが線になって見える。


魚市場から来る労働者。劇場街から来る馬車。


教会へ向かう家族。診療所へ寄付を置いていく老婆。


俺はその線を、つい数えてしまう。


数える癖は抜けなかった。


父は昔、「覚えるために生きるな」と言った。


母も、役に立つことを愛される条件にするなと、何度も遠回しに教えてくれた。


それでも俺は、見て、覚えて、並べる。


そうしていないと、温かいものが急に消える気がするからだ。


「坊ちゃん、顔が仕事です」


横を歩くテオが、焼き栗の袋を片手に言った。


十六歳になった彼は、俺より肩幅がある。


髪は相変わらず跳ねていて、祭りの日でも靴だけは走れるものを選ぶ。

マルコに仕込まれているせいだ。


「仕事の顔って何だ」


「眉間に、港湾名簿って書いてあります」


「読めるならお前も字の勉強を続けろ」


「俺が読める字は、肉、酒、危険、逃げろ、くらいで十分です」


軽口に笑いかけて、俺は止まった。


広場の西側。


花売りの娘たちが並んでいる場所で、人の流れがわずかに途切れた。


祭りの混雑なら押し合う。道化師が来たなら集まる。喧嘩なら輪になる。


でも今は、そこだけ薄くなっている。


誰かが道を空けているのではなく、空けさせられている。


「テオ」


俺が呼ぶ前に、マルコの手が俺の肩へ来た。


「見ています」


いつから隣にいたのか、わからなかった。


マルコ・セラは相変わらず影みたいな男だ。


俺が三歳の頃から変わらない。


年を取ったのは、こめかみに少し白いものが混じったことくらいで、沈黙の硬さは同じだった。


広場の向こうで、母の白い帽子が見えた。


エミリアは診療所の女たちと一緒に、教会前の仮設救護所へ向かっていた。


祭りの日は酔っぱらいも、転んだ子供も、熱を出す老人も増える。


母はそれを「祭りの税金」と呼ぶ。


母の横で、痩せた少年が籠を持っている。


知らない顔だ。


それだけなら珍しくない。


でも、彼は救護所へ向かわず、人波の薄い方へ母たちを誘導しようとしていた。


「母さん」


声を出した瞬間、鐘楼の上で鳩が飛び立った。


いや、鐘はまだ鳴っていない。


何かが乾いた音を立てた。


広場が一拍遅れて悲鳴を上げる。


テオが俺の腕を掴んだ。


マルコが俺を屋台の柱の陰へ押し込む。


焼き栗の袋が地面に落ち、踏まれて、潰れた甘い匂いが上がった。


俺は柱に肩をぶつけながら、母の方を見た。


母は倒れていない。


診療所の女の一人が母を庇うように身を低くしている。


別の男が腕を押さえて膝をついた。血が指の間から落ちる。


撃たれた?


そう考えた瞬間、身体が冷えた。


七年前、父の指輪からした鉄の匂いが、鼻の奥によみがえる。


「坊ちゃん、頭を下げて」


マルコの声は静かだった。


静かすぎて、怖い。


「母さんが」


「奥様は生きています」


「でも」


「見るなとは言いません。立つなと言っています」


命令。


俺は歯を噛みしめ、膝を折った。


「全員、膝をつけ」


大声ではない、父の声だ。


それでも、港が黙った。


本当に黙った。


祭りのざわめきも、

商人の怒鳴り声も、

子供の泣き声も。


一瞬だけ父の声の下へ沈んだ。


ヴィットリオ・ベランディ。


俺の父。


家ではパンを船にして母に叱られる人。


俺が熱を出せば会合を捨てて帰ってくる人。


その同じ声が、百人を超える大人を地面へ伏せさせた。



父は母のところへ走らなかった。


走りたかったはずだ。


俺にはわかる。母を見る父の目を、俺は十五年見てきた。


それでも父は最初に広場を見た。


どこから狙われたか。誰が逃げようとしているか。誰が怯え、誰が怯えたふりをしているか。


守るための目。


同時に、人を支配する目。


俺はそれを初めて、隠し布なしで見た。


「マルコ、奥様を」


父の部下の一人が叫ぶ。


「動かすな」


父が短く返した。


「救護所ごと囲め。子供を先に出せ。追うな。顔を覚えろ」


具体的な手順ではない。


でも命令を受けた男たちは、迷わず散った。


彼らは祭りの客ではなかった。


屋台の主人、酒場の給仕、荷役の老人。


さっきまで普通の街の人に見えていた何人かが、一斉にベランディの人間として動いた。


俺の知らなかった港が、祭りの皮を脱いでいく。


「坊ちゃん、こちらへ」


テオが俺を引く。


俺は動けなかった。


母がこちらを見たからだ。


遠い。人の背と布の間に、一瞬だけ母の顔が見えた。


母は俺に頷いた。


大丈夫、ではない。


来るな、でもない。


生きている者を先に動かしなさい、と言う目だった。


その目に従いかける自分が嫌だった。


俺は母の息子で、同時に父の息子なのだ。



屋台の陰に、見慣れない制服の男が二人いた。


地元警察の青ではない。襟の形が違う。


胸に小さな徽章があるが、布で半分隠れていた。


「中央の連中だ」


テオが小さく吐き捨てる。


「中央警察?」


「地元を飛ばして来るやつら。祭りの警備に口を出してたって、朝から荷役頭がぼやいてました」


男たちは怪我人へ駆け寄らなかった。


人の流れを見ていた。


父の部下が動く位置を、目で数えていた。


正義の側にいるはずの制服が、母を助けない。


制服にも言い分はあるのだろう。


旧い港の力を放置すれば、別の誰かが泣く。


ベランディの名で黙らされた人間もいる。


母が昔、見せしめにされた側も誰かの家族だと言った。


その言葉を、俺はまだ聞いていない未来のように感じながら、今、広場の真ん中で見ていた。



父が近づいてきた。


外套の裾が人の血を踏まないよう、わずかに避ける。


「レオーネ」


俺は立ち上がった。


「母さんは」


「かすり傷もない。庇った男が腕をやられた」


よかった、と思った。

同時に、よくない、と思った。


庇った男にも名前がある。家がある。

彼の腕が動かなければ、明日のパンが減る家がある。


父は俺の顔を見て、少しだけ目を伏せた。


「そういう顔をするようになったか」


「どういう顔」


「助かった者を数えたあと、傷ついた者を数える顔だ」


父の手が俺の肩に置かれる。


昔より、手は大きく感じない。


俺が大きくなったからだ。


でも、その重さは変わらない。


「父さん」


「聞きたいことがあるな」


いくつもあった。


なぜ母が狙われたのか。

なぜ父の部下が祭りの中にあれほどいたのか。

なぜ中央警察が見ているだけだったのか。

なぜ父の声で、港の大人たちが黙るのか。

七年前の血は誰のものだったのか。


今まで見ないふりをしてきた問いが、全部喉へ押し寄せる。


けれど口から出たのは、ひどく子供じみた言葉だった。


「父さんは、何者なの」


父は逃げなかった。


母の診療所の白い手も、

指輪の鉄の匂いも、

港の地図の空白も。


疑問は無視できないほど、もう目の前にある。


「ベランディ家の頭だ」


「港の」


「港の一部だ」


「犯罪者なの」


テオが息を呑んだ。


マルコは黙っている。


父はゆっくり頷いた。


「そう呼ばれる仕事をしている」


「母さんの診療所も、その金で」


「全部ではない。だが、混じっている」


言い訳をしない。


それがかえって、逃げ道を奪った。


「俺たちは人を守ってきた。仕事を回し、飢えを防ぎ、警察が来る前に揉め事を収めた」


父の声は低い。


「そして、恐れさせ、取り立て、傷つけた。守ると言いながら、別の誰かを黙らせた」


広場では、負傷した男が母の手で包帯を巻かれている。


男は痛みに顔を歪めながら、父に向かって頷いた。


感謝なのか、忠誠なのか、恐怖なのか。


たぶん、全部だった。


父は俺の前に膝をつかなかった。


もう子供の目線に降りる話ではない、ということなのだと思った。


「レオーネ」


父は言った。


「俺はドンだ」


その言葉で、祭りの鐘がようやく鳴った。


祝福の音のはずなのに、俺には広場に落ちた薬瓶の割れる音みたいに聞こえた。


ソフィと出会った祭りから十年。

色布、焼き菓子、港の鐘。同じ祭りの灯の下で、今度は銃声が鳴った。


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作者の励みになります。


ps.

8話が抜けていたことに後から気づいた人が居たらしい。

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