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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第1部<灰冠を継ぐ子> 1章 愛を知らない子

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第7話 指輪の血の匂い



俺の誕生日の宴は、屋敷の食堂で開かれた。


今日で八歳になる。


宴といっても、貴族の舞踏会のようなものではない。


長いテーブルに料理が並び、屋敷の使用人、父の古い部下、

母の診療所を手伝う女たちが入れ替わりに顔を出す。


子供の誕生日にしては大人が多い。


でも、俺はこの賑やかさに少し慣れていた。


焼いた肉の匂い。

魚介のスープ。

レモンを搾った揚げ魚。

母が作らせた蜂蜜の菓子。


港の冬風は窓の外で唸っているのに、食堂だけは人の熱で暖かい。


「坊ちゃん、八歳おめでとうございます」


古参のブルーノが大きな声で言った。


彼は父の部下の中でも特に声が太く、笑うと壁が震える。


片耳が少し欠けていて、俺が五歳の頃はそれが怖かった。


でも、彼が俺の皿に肉を山ほど乗せようとして母に叱られる姿を見ると、ただ怖いだけではなかった。


「育ち盛りですぜ、奥様」


「八歳の胃を何だと思っているの」


「未来の旦那様の胃です」


「今は私の息子の胃です」


ブルーノは父を見る。


父は笑って肩をすくめた。


「エミリアの裁定に従え」


「旦那様まで」


食堂が笑う。


俺も笑った。


楽しいと、失う未来まで想像してしまう癖は残っている。


けれど最近は、その想像に飲まれる前に、母が手を握ってくれる。


父が名前を呼ぶ。マルコが黙って温かい茶を置く。


近い場所が増えた。


母が昔言っていた通りに。


「兄ちゃん、これ食わないの?」


横から手が伸びた。


俺より一つ年上の少年、テオ・リッチだ。


屋敷で働く下男の甥で、最近マルコに雑用として連れられてくる。


栗色の髪はいつも跳ね、目はよく動く。


初めて会った日に俺を「坊ちゃん」と呼び、二度目には「兄ちゃん」と呼んだ。


「俺の皿から盗むな」


「盗んでない。救助」


「魚が救助を求めたのか」


「俺の腹が求めた」


テオは悪びれずに揚げ魚を口に入れる。


母が見ている前ではしない。父の前でもしない。


俺の前だけでやる。


「マルコに言う」


「言ったら、マルコさん俺にも礼儀を教えるって言うぞ。兄ちゃんも巻き込まれるぞ」


それは困る。


マルコの礼儀は、背筋と沈黙が中心だ。八歳の身体にはつらい。


俺は黙って皿を少しテオの方へ寄せた。


「貸しだから」


「出世払いで」


「出世する気あるの」


「兄ちゃんの護衛になれば、食いっぱぐれないだろ」


軽口。


でも、テオの目が一瞬だけ真面目になった。


彼の父親はいない。


母親は洗濯仕事で身体を壊し、エミリアの診療所に通っている。


ベランディの扶助で冬を越した家だ。


俺はそのことを知っている。


テオも、俺が知っていることを知っている。


「護衛なら、まず俺の魚を守れ」


「敵は俺の腹だった」


また笑ってしまった。


マルコが壁際でこちらを見ている。


無表情だ。


でも、目元がほんの少しだけ緩んでいた。



父は宴の途中で出ていった。


珍しくない。


港の仕事は、誕生日を待ってくれない。


それでも以前なら、胸の中に冷たい穴が開いた。


帰ってこなかったらどうしよう。仕事の方が大事ならどうしよう。


俺がいい子でなかったから出ていったのではないか。


今も少し思う。


でも母が俺の皿に菓子を置いた。


「お父様は戻るわ」


「聞いてない」


「顔に書いてある」


母は俺の髪を整える。


「待つのがつらいなら、つらいと言っていいのよ」


「八歳で?」


「八歳でも、十八歳でも」


前世の十九歳の俺にも、誰かがそう言ってくれていたら。


そう考えて、すぐやめた。


過去は戻らない。


「少し、つらい」


母は頷いた。


大げさに慰めない。


ただ、俺の肩に手を置いてくれる。


手は温かい。


少し荒れ、薬品の匂いが少しする手。


夜が更けると、客は少しずつ帰っていった。


ブルーノは酔ったふりをしているが、足取りは乱れていない。


マルコはテオの襟首を掴み、厨房から余った菓子を持ち出そうとした現行犯を静かに回収した。


「兄ちゃん、助けて」


「護衛が捕まってどうする」


「訓練だって」


マルコはテオを見下ろす。


「盗みを訓練にするな」


「救助です」


「魚に続いて菓子もか」


俺が言うと、テオは裏切られた顔をした。


母が笑い、厨房の女たちも笑った。


こういう夜が、ずっと続けばいい。


そう思った瞬間、胸が痛む。


ずっと、という言葉は危うい。


前世で俺は、続くものなどないと思っていた。


家族も学校も友達らしきものも、少しずつ剥がれていった。


最後には自分の命まで、自分で手放した。


でも今は、手放したくないものが増えすぎている。


父。

母。

マルコ。

テオ。


診療所の匂い。

港の鐘。


そして、ソフィとの契約。


ソフィとは、あの夏から何度か会った。


いつも偶然のように。


鐘楼、古本屋の裏、祭りの片づけが終わった広場。


彼女は相変わらず名字を言わず、俺も言わない。


互いに嘘はつかない。全部も言わない。


この関係が何なのか、俺にはわからない。


ただ、彼女と話すときだけ、子供のふりも大人のふりも少し薄くなる。



宴が終わりかけた頃、玄関の方が騒がしくなった。


マルコの表情が変わる。


母も立ち上がった。


俺は椅子から降りた。


「ここにいなさい」


母が言う。


その声は優しいが、診療所で患者を叱るときの硬さがあった。


俺は頷いた。


頷いたのに、足が動いた。


廊下へ出る。


燭台の明かりが揺れている。


外の冷気が玄関から入り、石床を這った。港の夜の匂いがする。


雨、煙、遠い酒場、そして何か鉄に似た匂い。


父が帰ってきた。


黒い外套の肩が濡れている。


右手の手袋を外している途中だった。


袖口に、暗い汚れがあった。


赤ではない。


夜の光では黒く見える。


でも匂いでわかった。


血だ。


父は俺に気づき、すぐに手を背へ回した。


「レオーネ」


父の声はいつもの父の声だった。


誕生日の夜に戻ろうとする声。


「起きていたか」


俺は返事ができない。


母が父の袖を見た。


一瞬だけ、顔から血の気が引く。


でも次にはもう看護師の顔になっていた。


「奥へ」


「たいしたことはない」


「奥へ」


父は従った。


母は俺を見る。


「レオーネ、食堂へ」


「父さん、怪我」


「浅いわ」


「誰の血」


聞いた瞬間、廊下が静かになった。


マルコが俺と父の間に立つでもなく、横にずれる。


隠さない位置。逃がせる位置。


父は少しだけ目を閉じた。


「今夜は、まだ話せない」


嘘ではない。

全部でもない。


俺はソフィの契約を思い出す。


でもこれは遊びではない。


鉄の匂いがある。


俺が大好きになってしまった人の手に。


「父さんが悪いことしたの」


八歳の問いは幼い。


でも、俺の中の十九歳も同じことを聞いていた。


父はすぐには答えなかった。


使用人たちは息を殺している。


ブルーノの姿も廊下の奥にあった。彼の顔は宴の時とは違い、硬い。


「お前を守るためだと、父さんは言うだろう」


父はゆっくり言った。


「だが、それで全部が許されるわけではない」


母が父の腕を取る。


「ヴィットリオ」


「この子は匂いを覚えた」


父は俺を見ている。


逃げない目でこういった。


「なら、嘘で塗るな」


「旦那様、処置を」


マルコが低い声でそう言うと、父は頷き、母に連れられて奥の部屋へ入った。


扉が閉まる前、母が俺へ言った。


「ここで待っていて。怖いなら、怖いままでいい」


怖い。


そう言えるまで、少し時間がかかった。


「怖い」


声に出すと、膝が震えた。


マルコが椅子を引き寄せる。


「座ってください」


「父さんは死ぬ?」


「死なせません」


命令のような答えだった。


マルコらしい。


それでも、今はその硬さに縋りたかった。



しばらくして、父が戻ってきた。


袖は替えられ、手には包帯が巻かれている。


顔色は悪くない。母が後ろで厳しい目をしているので、本当に浅い傷なのだろう。


父は俺の前に膝をついた。


八年前、熱を出した俺の前に膝をついた時と同じ高さ。


「誕生日に遅れてすまなかった」


「それは、いい」


本当はよくない。


でも今は別のことの方が大きい。


父は上着の内側から小さな包みを出した。


「贈り物だ」


黒い布を開くと、小さな銀貨があった。


本物の通貨ではない。片面に灰冠の紋章。もう片面に、俺の名前。


レオーネ・ベランディ


この世界の文字で刻まれている。


「家の紋章だ。持っていれば、困った時にベランディの者が助ける」


「俺は困らせる側じゃないの」


「違う」


父は即答した。


「子供は困っていい。助けを呼んでいい」


その言葉は、前世の俺に届かなかった言葉だ。


届いていたら、俺は生きていただろうか。


わからない。


俺は銀貨を受け取った。


父の指輪とは違い、銀貨からは血の匂いがしなかった。


布と、父の懐の煙草の匂いがするだけだった。


「父さん」


「何だ」


「俺、知らない方がいいの」


父の顔が陰る。


「何を」


「父さんの仕事」


母も、マルコも黙っている。


父は俺の頭に手を置いた。包帯のない方の手。温かい。


「知らなければ失わない、ということはない」


胸が痛くなった。


「なら、知ったら守れる?」


「それも、簡単ではない」


「じゃあ、どうすればいいの」


父は苦笑した。


困った大人の顔だった。


「まずは八歳を生きろ」


「答えになってない」


「父さんも、全部の答えを持っていない」


五歳の冬に聞いた言葉を思い出す。


全部できると言う大人を信用するな。


俺は銀貨を握った。


硬い縁が手のひらに食い込む。


痛い。


痛いのに、離せない。


その夜、父は俺が眠るまで部屋にいた。


母は椅子で編み物をし、マルコは廊下に立った。


いつもより人の気配が近い。守られているのだと思う。


守られているからこそ、外に何かがあるのだとも思う。


父の指輪から漂った鉄の匂いは、洗われても記憶から消えなかった。


俺は銀貨を握り、暗い天井を見た。


知らなければ失わないのか。


知れば守れるのか。


答えはまだない。


ただ、ひとつだけわかる。


俺はもう、この家を失いたくない。


父が手を温めてから触れてくれたことを、レオーネは覚えている。

同じ右手には、灰冠の指輪があった。


--

第1章「愛を知らない子」は、ここまで。

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