第6話 煙突と灰青の石
六歳の春。
屋敷の古い柱時計が、三日続けて同じ時刻に止まった。
父は「俺より頑固だ」と言い、母は「あなたより静かよ」と返した。
使用人たちは笑っていいのか迷い、俺だけが少し笑った。
時計を直しに来たのは、痩せた若い男だ。
名前はニコ・バルディ。
時計技師の見習いで、正式な職人ではないらしい。
大きな道具鞄に振り回されるように歩き、玄関で二度帽子を落とした。
「す、すみません、坊ちゃん」
「俺は何もしてない」
「いえ、その、床に謝りました」
変な人だと思った。
マルコは遠巻きに見ている。父は外出中。
母は診療所。俺は風邪明けで外へ出してもらえず、工房の入口から見学する許可だけもらった。
屋敷の裏には小さな工房がある。
家具の修理、馬具の手入れ、時計や電話機の調整をする場所だ。
油の匂いと鉄粉の匂いが混ざり、煙突から細い煙が上がっている。
窓辺には歯車、螺子、割れたガラス板が整然と並んでいた。
ニコは柱時計の腹を開けた。
中から真鍮の歯車が見える。
「すごい」
思わず言うと、ニコは少しだけ得意そうになった。
「時間は、歯車がみんなで我慢してくれるから進むんです。一個だけ急ぐと、止まります」
「人みたい」
「人より正直です」
そう言ってから、ニコは慌てて口を押さえた。
「い、今のは旦那様のことでは」
「父さんは歯車じゃない」
「はい。もちろんです。旦那様は、その、時計で言えば」
「鐘?」
「……鳴ると全員が動くので、近いかもしれません」
俺は笑った。
ニコもほっとしたように笑う。
彼は怖がりだ。
でも、道具を触るときの指先は迷わない。
小さな螺子を拾い、歯車を外し、油を差す。
その動きが面白くて、俺は入口の線から少しずつ前に出た。
「坊ちゃん」
マルコの声。
俺は足を戻す。
「そこまで」
「わかってる」
子供の身体は不自由だ。
前世の記憶があっても、手は小さく、力は弱い。
理解できることと、できることの間に深い溝がある。
それを忘れると、大人が怖い顔をする。
ニコが道具鞄から小箱を取り出した。
革の留め具を外した瞬間、工房の隅が薄く光った。
灰青色。
海の曇り空を固めたような色。
俺は息を止めた。
小箱の中に、小石のような結晶がいくつか入っている。
大きさも形もばらばらで、欠けたガラス片に似ていた。
「それは?」
ニコが肩を跳ねさせる。
「あ、見えました?」
「光った」
「やっぱり、この屋敷の煙突は熱が強いんですね」
ニコは小箱を慌てて閉じようとした。
その前に、俺はもう一度聞いた。
「何の石?」
「魔晶石です」
魔晶石。
言葉は知っている。
この世界にある、少しだけ幻想じみた鉱物。
衝撃や熱で光ったり、熱を出したり、音を吸ったりすることがある。
でも、安定しない。貴族の珍しい玩具か、舞台奇術の種か、軍の研究所が失敗する材料。
子供の記憶と、前世の知識では説明できない現実が重なり、頭の奥がざわついた。
「高いの?」
「高いものもあります。でも、これは安いです。旧銀鉱山の残滓に混じっていた厄介な混じり物で」
「厄介?」
「同じように見えても、同じ働きをしません。少し温めただけで光るもの、何も起きないもの、急に熱くなるもの。職人泣かせです」
ニコは小箱を机に置き、ひとつだけ小さな欠片をピンセットで挟んだ。
「触らないでください。坊ちゃんの指には危ない」
「ニコの指は?」
「私の指にも危ないです」
「じゃあ、どうして持ってるの」
ニコは気まずそうに笑う。
「好奇心が、危険より少しだけ重いので」
俺はその答えが気に入った。
ニコは灰青の欠片を金属皿に置き、工房の炉から少し離した。
直接熱するわけではない。ただ、暖かい空気の流れに当てるだけ。
最初は何も起きない。
次の瞬間、欠片が淡く光った。
本当に、息をするみたいに。
灰青から白へ、白からまた灰青へ。
工房の壁に小さな影が揺れる。
「きれい」
言ってから、俺はその言葉の軽さに引っかかった。
危ないものを、きれいと言う。
前世でも似たことがあった。
壊れていく自分のことを、どこかで物語みたいに眺めてしまった。
誰にも愛されない自分が消えれば、何か意味が生まれるのではないかと勘違いした。
意味などなかった。
残るのは、怖さと後悔だけだ。
だから危ないものを、きれいだけで終わらせてはいけない。
「何に使うの」
俺が聞くと、ニコは肩を落とした。
「そこなんです」
「使えない?」
「使える時もある、が一番困ります。時計に組み込めば夜に文字盤が光るかもしれない。でも、光らないかもしれない。熱くなって木枠を焦がすかもしれない。お客様は同じ値段なら同じ働きを欲しがります」
同じ値段なら同じ働き。
当たり前だ。
でも、その当たり前がこの石にはない。
「形が違うから?」
「形も、色も、重さも、中の筋も違います。割るともっと機嫌が変わる。粉にすると怒るものもある」
ニコは本気で困っていた。
俺の中で、前世の記憶が動いた。
工場見学の動画。
規格品。
品質管理。
用途から逆算する設計。
俺は専門家ではない。発明家でもない。
前世でもただ、部屋の中でネット記事を読み漁っていただけの人間だ。
何かを作って誰かを救ったことなどない。
でも、言葉だけなら知っている。
形を揃える。
条件を記録する。
使い道を先に決める。
それがどれほど難しいことか、六歳の俺にはわからない。わからないから、言うのが怖い。
言えば期待される。
期待されれば、応えられなかったときに捨てられる。
俺は黙った。
ニコは別の欠片を取り出した。
それはさっきより丸い。皿に置くと、何も起きなかった。
「ほら、こっちは怠け者です」
「怠けてるわけじゃない」
「では、何でしょう」
「……条件が違う」
ニコが俺を見た。
「条件」
「温度とか、形とか、置く向きとか」
「坊ちゃん、難しい言葉を」
まただ。
言いすぎた。
俺は口を閉じようとした。
その時、最初の欠片が急に強く光った。
「離れて」
ニコが叫ぶ。
マルコが俺を抱え上げた。
金属皿の上で、欠片がぱちんと音を立てる。大きな爆発ではない。火花が一粒跳ね、焦げた匂いがした。
ニコが布をかぶせる。
工房が静まり返った。
俺の心臓だけがうるさい。
マルコの腕は硬く、俺を逃がさない。
「怪我は」
「ない」
俺の声は震えていた。
ニコの指先が少し赤くなっている。
「ニコは」
「平気です。よくあります」
「よくあったら駄目だ」
母みたいな言い方になった。
ニコは目を丸くし、それから小さく笑った。
「奥様に似ていますね」
俺は黙った。
似ていると言われて、嬉しかった。
怖いくらい嬉しかった。
夕方、母に工房でのことが伝わり、俺はしっかり叱られた。
「危ないものに近づく時は、大人の許可を待つこと」
「見てただけ」
「見ているだけで危ないものもあります」
母は俺の手を取り、指の一本一本を確かめた。
熱を持っていないか、火傷がないか。手のひらに唇を近づけ、ほっと息を吐く。
「あなたの手は、まだ小さいの」
「小さかったら、何もできない」
口に出た声は、自分でも驚くほど苦かった。
母は俺を見た。
「小さい手にできることもあるわ」
「何」
「危ないと思ったら止まること。痛いと言うこと。誰かの火傷に気づくこと」
俺はニコの赤い指を思い出した。
父は夜に帰ってきた。
俺が魔晶石を見たと知ると、難しい顔をした。
「あれは玩具ではない」
「知ってる」
「知っている子供が一番危ない」
父はそう言ってから、俺の頭を撫でた。
「だが、怖がるだけでも扱えない。今日は覚えておけ。光るものが、人を温めるとは限らない」
その言葉は、石の話だけではない気がした。
寝る前、俺は自分の手を見た。
小さい。
何も作れない。
誰も救えない。
前世の俺は、自分の命さえ扱えなかった。
でも、灰青の石が光った瞬間、俺の中で何かが動いた。
役に立てるかもしれない、という期待。
役に立たなければ、また居場所を失うという恐怖。
その二つが絡まって、眠れなかった。
翌朝、ニコが修理を終えた柱時計の確認に来た。
俺は工房の入口で彼を待った。
「昨日の石」
「もう片づけました」
「石じゃなく」
言いかけて、迷う。
子供の思いつきだ。
でも、言葉はもう舌の上にある。
「形を揃えたら」
ニコが道具鞄を抱えたまま止まった。
「今、何と?」
俺は急に怖くなった。
期待されるのが怖い。
でも、何も言わずに終わるのも怖い。
「石じゃなくて、形を揃えたら、同じに近づくのかなって」
ニコはしばらく俺を見ていた。
それから、ひどくゆっくり笑った。
「坊ちゃん」
彼の声は、時計の奥で新しい歯車が噛み合うみたいに小さかった。
「それ、忘れないでください」
【人物紹介】
・ニコ・バルディ
時計技師の見習い。
理屈より先に、壊れ方と直し方を覚えてきた。
灰青色の石に興味を持つ少し変わった職人。
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