第5.5話 白い前掛けの洗濯日
父子で港の地図を囲んだ日から数日後、冬の雨の日だった。
ヴァレノの冬の雨は冷たい。港の煤と魚市場の匂いを抱えて、診療所の裏庭まで重く落ちてくる。
エミリアは袖を肘までまくり、桶の中で前掛けを押した。
昨日、荷役の若者が額を切って運び込まれた。傷は浅かったが、付き添ってきた母親が泣き続けた。泣いた手で前掛けを掴んだので、血の跡は胸のあたりに広がっている。
血は水にほどける。
煤は布の目に残る。
夫の仕事に似ている、とエミリアは思った。
誰かの傷は洗えば薄くなる。けれど、なぜその傷ができたのかは、布の奥に残る。白く戻ったように見えても、同じ場所を指でなぞればざらつく。
「奥様、旦那様の者が外に」
診療所の手伝いをする少女が、裏口から顔を出した。まだ十一歳のリーナだ。水差しを持つ手は細いが、患者の名前を覚えるのは早い。
「誰?」
「サロさんです。明日の巡回に護衛をつける、と」
エミリアは前掛けを絞った。
サロは悪い男ではない。
雨の夜、薬箱を持つ彼女の後ろを歩いてくれたこともある。酔った男が診療所の戸口で怒鳴った時、黙って間に立ったこともある。
ただ、彼が扉の横に立つと、患者は声を小さくする。
痛いと言う前に、払えない金のことを思い出す。
「今日は断ります」
「でも、路地裏の母子のところへ行くなら危ないって」
「危ないわ」
エミリアは頷いた。
「だから、明るいうちに行く。表通りを通る。リーナ、薬包を二つ増やして。子供用の咳止めと、熱冷まし」
「足りますか」
「足りるようにするの」
足りないものを足りるようにする。
診療所の仕事は、治療より先にそれだった。
清潔な布。
子供用の薬。
雨の日でも滑らない古靴。
全部が少しずつ足りない。
エミリアは前掛けを干し、髪をまとめ直して薬種商へ向かった。
薬種商の店は市場の端にある。乾いた草と酒精の匂いが濃く、雨の日だけ少し息苦しい。店主のバルトは、彼女を見ると帳簿を閉じた。
「奥様。旦那様の名でつけておけば、咳止めも布も安く出しますよ」
「その値引きは、どこで埋めるの」
バルトは笑った。
「別の客から少しずつ」
「別の患者から、でしょう」
笑いが止まった。
彼も家を守っている。仕入れ値は上がり、港湾税は増え、雨で薬草は湿る。ベランディ家に逆らえば怖い。従えば別の客の帳尻が狂う。
エミリアは財布を開いた。
「通常の値で。量を減らして」
「それでは奥様が困る」
「困るわ」
彼女は小さな薬瓶を二つ選んだ。
「でも、私が困る分は、往診の順番と洗い直した包帯で埋められる。あなたが怖がらせた分は、誰の診療所にも戻らない」
バルトはしばらく黙り、最後に古い包帯布を一束、台の上へ置いた。
「これは値引きじゃない。売れ残りです」
「なら買います」
「強情な人だ」
「看護師はだいたいそうよ」
午後、雨は細くなった。
エミリアは薬箱を抱え、リーナに古靴の包みを持たせて路地裏へ入った。石畳の隙間には黒い水が溜まり、煙突の煤が壁を伝っている。
熱を出した子は、母親の膝で眠っていた。
部屋は湿っている。窓の隙間から雨が吹き込み、桶が二つ置かれていた。母親はエミリアを見るなり立とうとして、ふらついた。
「座って。まず水」
エミリアはリーナへ目をやる。
リーナは水差しを差し出した。
「名前は、後で」
母親が泣きそうな顔をする。
「払えません」
「名前を聞くのは、取り立てのためではありません。次に熱を出した時、誰から診るか間違えないため」
子供の額は熱い。
呼吸は苦しそうだが、まだ深い。薬を少しずつ飲ませ、濡れた布を替える。古靴は母親の足に合わなかった。リーナの顔が曇る。
「子供用にしましょう」
エミリアは包み直した。
「外へ出られるようになった時、石畳で足を切らないように」
帰るころ、サロが路地の入口に立っていた。
雨に濡れ、帽子を胸に抱えている。
「奥様。旦那様に叱られます」
「あなたが?」
「俺も、奥様も」
「では二人で叱られましょう」
サロは困った顔をした。
「俺は役に立ちたいだけです」
「知っているわ」
エミリアは歩みを止めた。
「でも、診療所の扉にあなたの影が濃くなりすぎると、来られない人がいる。あなたに守られる人もいる。あなたを見て怖がる人もいる。その両方を、私が忘れたらいけないの」
サロは何も言わなかった。
ただ、少し離れて歩いた。
それが今日の彼の善意だった。
屋敷へ戻ると、レオーネが食堂の机に港の地図を広げていた。
父の地図を真似たらしい。線は曲がり、倉庫番号のひとつがパン屋の印になっている。
「ここはパン屋じゃないわ」
エミリアが言うと、レオーネはびくりと肩を跳ねさせた。
叱責を待つ顔。
まだ五歳の顔ではない。
「でも、パン屋があった方が覚えやすい」
小さな声だった。
「なら、別の色で描き足しましょう。間違えた線を消すより、何のための印か書く方が大事」
彼女は濡れた外套を脱ぎ、針箱を開いた。
レオーネの袖口がほつれている。地図に夢中で机の角に引っかけたのだろう。
「母さん、怒らないの」
「袖は直せばいいわ。地図は、次に見る人が困らないように直す。人も同じ」
糸を通す。
白い前掛けには、まだ薄い煤の影が残っている。
全部は落ちない。
それでも洗う。
「レオーネ」
「うん」
「名前を先に書きなさい。場所より先に」
「どうして」
「同じ家賃でも、赤ちゃんのいる家と、働ける大人のいる家では必要なものが違う。地図の点だけ見ていると、そこにいる人を忘れるから」
レオーネはしばらく考え、曲がった地図の端に小さく書いた。
パン屋のマルタ。
診療所のリーナ。
雨の日の子。
最後の名前は、彼にはまだわからなかったのだろう。
エミリアは訂正しなかった。
いつか、彼自身が名前を聞く日が来る。
その時、家名で安く買えるものと、家名で失う声の違いを覚えていてくれればいい。
雨はまだ窓を叩いていた。
干した前掛けは完全な白には戻らない。
それでも明日、エミリアはそれを身につける。
白く見せるためではなく、汚れた場所を忘れないために。
冬の雨の中、白い前掛けを洗う。血は早く落ちたが、煤は薄く残った。
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「.5話」は、主人公以外の視点や、物語の隙間にある日常を描く小話。
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