第5話 父の膝、港の地図
五歳の冬。
外では雨が降っている。
ヴァレノの冬の雨は、雪になるほど優しくない。
冷たい針みたいに窓を叩き、港の石畳を黒く濡らす。
遠くで汽笛が鳴るたびに、暖炉の火が小さく震えた。
俺は父の執務室にいた。
本来、子供が入る場所ではない。
壁には鍵のかかった棚があり、机には封蝋のついた手紙が積まれ、革張りの椅子には大人の匂いが染みついている。
煙草、インク、雨に濡れた外套、磨かれた革靴。
でも今日は、母が診療所で急患を診ている。
俺が熱を出しかけたので、父が自分の部屋で見ていると言った。
使用人たちは明らかに困った顔をした。
父は気にしなかった。
「退屈か」
「少し」
「正直でよろしい」
父は笑い、机の引き出しから大きな紙を出した。
それが港の地図だった。
「絵本より面白いぞ」
「字ばかり」
「字は絵より嘘が下手だ」
父は俺を膝に乗せた。
まだ、少し身構える。
父は気づいているはずなのに、気づかないふりをしてくれる。
片腕で俺の腹を支え、もう片方の手で地図を押さえた。
指輪が紙に触れる。
灰冠の紋章。
診療所の帰りに見た、男が口づけした指輪だ。
「ここが魚市場」
父の太い指が、港の東側を叩く。
「朝は臭い。昼も臭い。夕方はもっと臭い」
「ひどい説明」
「事実だ」
父は楽しそうだった。
「だが、魚市場が止まると食堂が止まる。食堂が止まると働く男が倒れる。働く男が倒れると船が遅れる。船が遅れると、街の全員が少しずつ困る」
線がつながる。
魚。
食堂。
男。
船。
街。
俺の頭の中で、地図がただの絵ではなくなる。
「ここは?」
「学校」
「父さんの地図に学校もあるの」
「ある。子供が字を読めない街は、契約で必ず負ける」
父はさらりと言った。
「ここは教会。こっちは共同炊事場。ここが母さんの診療所」
白い建物の印。
俺はそこを指でなぞった。
「母さん、今日も遅い?」
「急患が落ち着けば帰る」
「落ち着かなかったら?」
「俺が迎えに行く」
父の声に迷いはなかった。
俺はその声に安心しかけて、慌てて心を引いた。
安心は危ない。
すぐに壊れる。
でも、雨の日の暖炉と父の膝は、危ないほど温かかった。
「ここが南埠頭」
父は地図の下側へ指を動かす。
倉庫が番号で並んでいる。第一、第二、第三。線路。桟橋。荷役小屋。
「荷物が入る。出る。保管される。盗まれる」
「盗まれるの?」
「人は腹が減ると悪い知恵も出る」
「父さんは止めるの」
「止めることもある。取り返すこともある。盗まれる前に、盗まなくて済む仕事を回すこともある」
「全部?」
父は少しだけ黙った。
暖炉が薪を割る。
「全部ではない」
その答えは、俺には意外だった。
父なら全部できる、と屋敷の人たちは思っているように見えた。
港の男たちは父を見ると背筋を伸ばし、父の言葉で黙る。
でも父は、全部とは言わなかった。
「全部できると言う大人を信用するな、レオーネ」
「父さんも?」
「俺が言ったら、特に疑え」
父は笑った。
俺は笑えなかった。
疑えと言われても、俺はこの人を信じたい。
信じたいからこそ、疑うのが怖い。
昼に、厨房から薄い豆の煮込みと黒パンが運ばれてきた。
父は執務机では食べず、地図の端を重石で押さえたまま、暖炉の前の低い卓へ皿を置いた。
俺にはパンを小さく千切り、煮込みに浸して渡してくれる。
「自分でできる」
「知っている」
父は手を止めない。
「今日は父さんがしたい」
したい。
義務ではなく。
俺がこぼす前に先回りして怒るのでもなく。
ただ、父がそうしたいから。
俺は湿ったパンを受け取った。豆と塩漬け肉の匂いが強い。外の雨で冷えた指に、器の熱が移る。
「港の人も、これを食べる?」
「食べられる日はな」
「食べられない日もあるの」
「ある」
父は自分の皿を見た。
「だから、食堂がいる。炊事場がいる。母さんの診療所もいる。腹が減った人間は、約束より先に今日を選ぶ」
「悪いことをする?」
「することもある」
「じゃあ、パンをあげればしない?」
「それだけでは足りない」
父は黒パンを割った。
「仕事、寝床、借りた金の待ち方、揉めたときに話を聞く誰か。腹の問題は、腹だけで終わらない」
難しい。
でも地図の線が、また増えた気がした。
倉庫だけではない。
食堂と診療所と教会と学校が、父の言う港を支えている。
俺が父を喜ばせるために番号を覚えるより先に、人が明日も起きるための場所がある。
「父さんは、それを全部見てるの」
「見ようとしている」
「見えないものは?」
「母さんに叱られる」
父は真顔で言った。
俺は少し笑った。
今度は父を喜ばせるためではなく、自然に。
「覚えられるか」
父が聞いた。
俺は地図を見下ろす。
魚市場。学校。教会。診療所。共同炊事場。
南埠頭。倉庫番号。荷役小屋。線路。
前世の俺は、覚えることが得意だった。
正確に覚えれば褒められた。テストの点数だけは、俺が家にいても許される理由になった。
覚えることは、居場所を買うための通貨だった。
だから俺は、地図を頭に入れた。
番号の並び。
通りの曲がり方。
診療所から屋敷までの近道。
父の指が触れた順番。
全部。
「魚市場、学校、教会、診療所、共同炊事場、南埠頭。倉庫は第一から第十二まで。線路は中央駅へ」
父の腕が止まった。
「……もう覚えたのか」
その声に、俺は胸の奥が熱くなった。
やった。
役に立つ。
愛される。
俺はさらに言おうとした。
「荷役小屋は三つ。古い桟橋は今は使ってない。倉庫の裏道は」
「レオーネ」
父の声が静かに俺を止めた。
怒られるのかと思った。
俺はすぐ口を閉じる。
父は俺の身体を向き直らせた。
目線が合う。
「覚えるのは良い。お前の目はよく見ている」
褒められた。
なのに、父の顔は少し悲しそうだった。
「だが、覚えるために生きるな」
意味がわからなかった。
「役に立つのは悪いことではない。だが、役に立たない日のお前も俺の息子だ」
喉が詰まる。
そんなはずがない。
役に立たない子供は、空気を重くする。
邪魔になる。
親の人生の失敗になる。
前世の俺はそうだった。
「でも、覚えたら父さんが喜ぶ」
「喜ぶ」
父はすぐ頷いた。
「お前が俺を喜ばせようとしたことも嬉しい。だが、喜ばせるために息を詰めるな」
俺は返事ができなかった。
父の手が俺の背を撫でる。
手のひらは温かい。
五年前、俺が払った手だ。
今は、完全には逃げないでいられる。
それが成長なのか、諦めなのか、まだわからない。
扉が叩かれた。
マルコが入ってくる。
「旦那様。南埠頭の名簿です」
父の顔が、さっきまでと変わった。
俺を膝に乗せたままなのに、目だけが仕事の目になる。
マルコは俺がいることを見て、一瞬ためらった。
「置け」
父が言う。
「後で見る」
「急ぎと」
「後でだ」
マルコは黙って紙束を机に置いた。
その表紙に「港湾名簿」とあった。
父は何気ない動きで、地図の一角に手を置いた。
俺から見えないように。
反射的に、俺はその下を見ようとした。
父の指は動かない。
「そこは?」
聞いてしまった。
父は俺を見た。
長い沈黙。
雨音が強くなる。窓の外で荷車が水を跳ねた。
「古い倉庫だ」
「何番?」
「今は使っていない」
答えになっていない。
俺は地図の他の部分を思い出す。
第一から第十二まで。並びの中で、不自然に空いた場所がある。父の指が隠している場所。
第七。
旧第七倉庫。
そう理解した瞬間、父の手が俺の髪に置かれた。
「レオーネ」
「うん」
「知ることには、時期がある」
その言葉は優しかった。
でも、扉を閉める音もした。
「俺が聞いたら、だめ?」
「だめではない」
父は少し考えた。
「ただ、父さんがまだうまく話せない」
嘘ではない。
そう思いたかった。
ソフィとの契約を思い出す。
嘘はつかない。ただし全部は言わない。
大人も同じことをする。
違うのは、子供がそれを選べないことだ。
母が帰ってきたのは夕食前だった。
指先が冷え、髪に雨の匂いがついている。
父は何も言わずに母の肩へ毛布をかけた。
母はありがとうと言い、俺の額に唇を当てる。
「熱は出ていないわね」
「地図を覚えた」
俺が言うと、母は父を見た。
「あなた、また難しいものを」
「絵本だ」
「絵本は倉庫番号を覚えさせません」
父は俺を見て肩をすくめた。
「母さんには内緒だ」
「今、聞こえています」
二人のやり取りに、俺は笑った。
その夜、寝室で俺は紙に港の地図を描いた。
下手な線。
曲がった倉庫。
でも、番号は合っている。
第一、第二、第三、第四、第五、第六。
そこで手が止まる。
第七だけ、空白にした。
父が隠したから。
隠されたものは、忘れられない。
俺は空白を見つめながら、胸の奥に小さな不安が沈むのを感じていた。
【人物紹介】
・ヴィットリオ・ベランディ
レオーネの父。家族には深い愛情を注ぐ。
その仕事がなんであるか、レオーネはまだ知らない。
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