第4話 路地裏のソフィ
五歳の夏。
ヴァレノの港は、聖燈祭の日だけ少し浮かれる。
埠頭には色布が張られ、魚市場の桶には花が浮かび、教会前の広場では焼き栗と揚げ菓子の匂いが混ざっていた。
鐘楼の鐘が鳴るたびに、海鳥が一斉に空へ散る。
俺は父と母に手を引かれて歩いていた。
人が多い。
それだけで胸が苦しくなる。
前世でも人混みは苦手だった。
誰かにぶつからないよう気を張り、会話の端を拾って自分が笑われていないか探してしまう。
今は身体が小さい分、見えるのは大人の腰と鞄ばかりだ。
「疲れたか」
父がすぐ気づく。
「大丈夫」
「大丈夫の顔ではない」
父は俺を抱き上げようとした。
俺は迷った。
五歳になっても、俺はまだ父の手に反射的に身構えることがあった。
嫌いなわけではない。むしろ、その逆に近い。
好きになりすぎるのが怖い。
父は待った。
俺が頷くと、ようやく抱き上げる。
高くなった視界の先で、港がきらきらしていた。
船の帆、煙突の煙、屋台の赤い布、銀貨を鳴らす商人の手。
父の腕は硬く、でも俺の背を支える手つきは丁寧だった。
「あれが劇場街の寄付で建った飾り門だ」
父が顎で示す。
広場の向こうに、金色の縁取りをした門があった。
楽団がその下で演奏している。
周りには身なりのいい人間が多く、港の労働者たちとは少し空気が違う。
「劇場街?」
「アルコ・ルーチェ。金と歌と、よく切れる舌が集まる場所だ」
母が父の腕を軽く叩いた。
「子供にそういう言い方をしないの」
「褒めている」
「なお悪いわ」
俺は二人のやり取りを聞きながら、父の肩越しに広場を見た。
護衛のマルコが少し離れて歩いている。
寡黙な男で、父が俺の世話役につけた人だ。元兵士だと聞いた。
笑わないが、俺が転びそうになると必ず先にそこにいる。
「坊ちゃん、手を」
屋台の前で下ろされた俺は、マルコに手を預けた。
母は診療所の患者に呼び止められ、父は港の男たちに囲まれた。どちらもすぐ戻ると言った。
すぐ。
その言葉を信じる練習を、俺は五年かけてまだ続けている。
屋台には蜂蜜をかけた揚げ菓子が並んでいた。
油の甘い匂いが強い。俺が見ていると、屋台の女将がひとつ紙に包んでくれる。
「坊ちゃん、旦那様には内緒だよ」
「払う」
「お代はもう、あんたのお母さんに何年も払ってもらってる」
女将は笑った。
俺は困った。
母の貸しを、俺が受け取っていいのか。
迷っているうちに、広場の端で子供の泣き声がした。
俺は振り向いた。
屋台の裏、樽と木箱の間。
身なりのいい女の子が、三人の少年に囲まれていた。
少年たちは俺より年上で、港の子供らしい擦り切れた靴を履いている。
「だから、そのリボン売れば菓子が買えるだろ」
「祭りの日に施しをするのは貴いことだって、神父様も言ってたぜ」
女の子は泣いていなかった。
薄い金茶の髪をリボンで結び、白いワンピースの裾を片手でつまんでいる。
もう片方の手には紙袋。揚げ菓子が入っているらしい。
彼女は少年たちを順番に見た。
「神父様は、三人で一人から奪うことを施しとは呼ばないわ」
声が涼しい。
少年のひとりが顔を赤くした。
「なんだと」
「それに、そのリボンは劇場街の店で買ったものよ。売るなら店の証紙がいる。証紙なしで売れば盗品扱い。あなたたちのお母様が呼ばれる」
「母ちゃんは関係ねえ」
「関係あるわ。あなたたちがまだ子供だから」
まだ子供。
五歳の子供が言うには、妙に落ち着いた言葉だった。
俺は思わず近づいた。
マルコの手が俺の肩を止める。
「坊ちゃん」
「あの子」
「見ております」
女の子はさらに続ける。
「それでも欲しいなら、条件を出して。私の菓子をひとつ、あなたたちの持っている干し杏三つと交換。嫌ならこの話は終わり」
「なんで俺らが」
「欲しがったのはあなたたち。先に話を始めたのもあなたたち」
少年たちは顔を見合わせた。
ひとりが舌打ちし、袋から干し杏を出す。
結局、女の子は菓子をひとつ渡し、干し杏を三つ受け取った。
奪われなかった。
泣かなかった。
殴りもしなかった。
言葉だけで、状況を変えた。
少年たちが去ったあと、女の子は俺を見た。
「見物料を取ればよかった」
俺は返事に詰まった。
「……すごいね」
「当然よ。三対一で腕力勝負をするほど愚かではないもの」
彼女は紙袋を覗き、眉を寄せる。
「でも、菓子が減った」
俺は手元の包みを見た。
屋台の女将にもらった揚げ菓子。
まだ食べていない。
「これ」
差し出すと、マルコがわずかに動いた。
女の子は俺と菓子を交互に見た。
「代金は?」
「もらった」
「ただでもらったものを、ただで渡すの?」
「だめ?」
「だめではないけど、理由がいるわ」
理由。
「俺も、干し杏が気になる」
女の子は少し笑った。
「では交換ね」
彼女は干し杏をひとつ俺にくれた。
俺は揚げ菓子を半分に割る。
蜂蜜が指につき、夏の熱でべたついた。
「名前は?」
「レオーネ」
名字は言わなかった。
父が教えたからだ。外では相手を選べ。名前は扉にも鍵にもなる、と。
女の子もすぐに気づいた顔をした。
「私はソフィ」
それだけ。
「名字は?」
「あなたも言っていないわ」
「うん」
「なら、おあいこ」
ソフィは菓子を小さく齧った。蜂蜜が唇につき、彼女は指で拭う。
「あなた、子供の顔をしていないのね」
心臓が跳ねた。
「どういう意味」
「見てから考えて、考えてから笑う。普通は逆」
俺は黙った。
見抜かれた。
五歳の少女に。
怖いはずなのに、少しだけ面白かった。
「ソフィも子供っぽくない」
「教育がいいの」
「自分で言うんだ」
「誰も言ってくれない場所では、自分で言うしかないでしょう」
その言葉が、妙に胸に残った。
ソフィは広場を出て、路地の方へ歩き出す。
「鐘楼に行くの。港が全部見えるから」
「勝手に?」
「勝手に」
マルコを見る。
彼は無表情だったが、明らかに嫌そうだった。
「坊ちゃん、旦那様と奥様が」
「すぐ戻る」
俺が言うと、マルコは眉を寄せた。
「見える範囲までです」
許可が出た。
ソフィは満足そうに頷く。
「護衛つきの冒険ね」
「冒険って言うほど遠くない」
「遠さではなく、内緒の量で決まるのよ」
鐘楼へ続く石段は狭かった。
壁には古い祈りの札が貼られ、潮風で端が丸まっている。
上へ上がるほど祭りの音が遠くなり、代わりに港の音が広がった。
汽笛。鎖の擦れる音。水面を叩く櫂。荷を積む男たちの掛け声。
鐘楼の踊り場から、ヴァレノが見えた。
赤い屋根。
白い診療所。
黒い倉庫群。
劇場街の金色の飾り門。
海は灰青色で、遠くの船が煙を吐いている。
ソフィは柵に手を置いた。
「港はうるさいわね」
「うん」
「でも、嘘は少ない」
「そう?」
「荷物は重ければ沈む。魚は古ければ匂う。鐘は鳴らせば聞こえる。社交場よりずっと正直」
五歳の台詞ではない。
でも、俺も人のことは言えない。
「嘘、嫌い?」
俺が聞くと、ソフィは首を傾げた。
「下手な嘘が嫌い」
「上手ならいいの」
「必要なこともあるわ」
俺は黙った。
前世の俺は、平気なふりばかりしていた。
助けてほしいのに大丈夫と言い、死にたいほど苦しいのに眠いだけと言った。
あれは下手な嘘だった。誰も救わず、自分も救わなかった。
ソフィは俺の沈黙を見て、急に真面目な顔になった。
「ねえ、契約しましょう」
「契約?」
「そう。今日ここで会ったことを、秘密にしすぎると面倒になる。でも全部話すと、次に会えなくなるかもしれない」
「どうして」
「大人は、子供の友達にも家の名前を着せるから」
俺は父の顔を思い出した。
外で相手を選べ。
名前は扉にも鍵にもなる。
「だから条件を決めるの」
ソフィは干し杏の種を紙に包み、俺へ差し出した。
「嘘はつかない。ただし全部は言わない」
俺はその紙包みを見た。
都合のいい言葉だ。
でも、完全にわかり合うなんて、たぶん大人でも無理だ。
前世の両親のことを、俺は最後まで理解できなかった。彼らも俺を理解しなかった。
理解できないなら、せめて線を引く。
その考え方は、五歳の遊びにしては怖いくらい俺に合っていた。
「破ったら?」
「次の菓子を相手に選ばせる」
「軽い」
「重い罰は続かないわ」
俺は笑った。
今度は、考えるより先に笑った。
ソフィも少しだけ笑う。
「契約成立?」
「成立」
俺たちは握手した。
ソフィの手は、夏なのに少し冷たかった。
指は細く、でも握り方は強い。俺は人の手を握ることにまだ慣れていない。
けれど、その冷たさは嫌ではなかった。
下からマルコの声がした。
「坊ちゃん」
戻る時間だ。
ソフィは先に階段を降りた。路地の角で振り返る。
「レオーネ。また会えたら、次はあなたが菓子を選んで」
「どこで」
「港はうるさいから、見つけられるわ」
そう言って、彼女は人混みに消えた。
俺はしばらく角を見ていた。
マルコが隣に立つ。
いつも無表情な彼の顔が、少し硬い。
「坊ちゃん」
「何」
「あの子とどこで会った」
「屋台の裏」
嘘はついていない。
全部も言っていない。
マルコは広場の向こう、劇場街の飾り門を見た。
「……旦那様に報告します」
胸が冷えた。
契約は、もう大人の世界に触れてしまったのかもしれない。
【人物紹介】
・ソフィ
菓子の取り分を巡って、年上の少年たちとも本気で言い争う女の子。
レオーネとは、干し杏三つをきっかけに友達になった。
嘘が嫌い。
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