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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第1部<灰冠を継ぐ子> 1章 愛を知らない子

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第3話 診療所の白い手



四歳の秋。


俺は母のスカートの端を握り、ヴェッキア・リーヴァの石畳を歩いていた。


港から湿った風が吹く。


魚の匂い、炭の煙、朝のパン、馬糞、海藻。


前世の街にはなかった匂いが、狭い路地に全部押し込められている。


小さな身体はすぐ疲れる。


けれど母は抱き上げない。


「歩ける?」


「歩ける」


「つらくなったら言って」


「うん」


言っていい。


まだ、その許可に慣れない。


母は俺を甘やかすだけではなかった。


食べ物で遊べば叱る。寝る時間を破れば灯りを消す。


走って転べば、痛かったでしょうと言いながら、次は足元を見るのよと教える。


叱られるたびに、俺は少し安心した。


規則がある。


でも、その規則は俺を捨てるための罠ではない。


診療所は教会裏の白い建物だった。


白い、といっても壁は潮風でくすみ、窓枠の塗料はところどころ剥げている。


扉を開けると薬品の匂いがした。


煮沸した布、アルコール、乾いた薬草。それに混じって、スープの匂いもする。


待合の長椅子には、いろいろな人がいた。


腕を布で吊った港湾労働者。


赤ん坊を抱いた若い女。


片足を引きずる老人。


頬に青い痣を作った少年。


みんな母を見ると、顔を上げる。


「奥様」


「エミリアさん」


「先生」


呼び方はばらばらだった。


でも、その声の中に混じるものは似ている。


助かった、という響き。


母は白い前掛けをつけ、袖を肘までまくった。


「今日は息子もいます。邪魔をしたら叱ってください」


「坊ちゃんを叱れる奴がいますかい」


腕を吊った男が笑う。


隣の老人が「俺は叱るぞ」と言い、待合が少し明るくなった。


俺は母の後ろに隠れた。


坊ちゃん。


その呼び方にも慣れない。


前世で俺は、家の中で名前を呼ばれることすら少なかった。


呼ばれるときは失敗したときだ。名前は注意を引く合図だった。


ここでは知らない人まで俺を見る。


ヴィットリオ・ベランディの息子として。


その意味を、俺はまだ知らない。


「レオーネ、手を洗って」


母は俺を小さな台に立たせた。石鹸は硬く、泡立ちは悪い。冷たい水で指の間まで洗う。


「どうして?」


「汚れは見えないところにもいるから」


「見えないなら、わからない」


「だから手順を作るの」


手順。


その言葉が頭に残った。


見えないものを相手にするとき、人は順番を決める。


前世の俺には、それがなかった。


苦しくなったとき、誰に言えばいいか、どう助けを求めればいいか、何も知らなかった。


知らないまま、いきなり最後へ行ってしまった。


後悔は、熱が引いたあとも身体の奥に残っている。



母は最初の患者を診た。


港湾労働者の腕は、荷箱に挟まれたらしい。


手の甲が腫れ、爪の間に黒い汚れが詰まっていた。


「骨は折れていないと思うけれど、今日は使わないで」


「使わなきゃ賃金が出ねえ」


「荷役頭に紙を書きます」


「紙で腹は膨れませんよ、奥様」


男は苦笑した。


母は包帯を巻く手を止めない。


「遺族扶助の窓口に寄って。今日は働けない人の食券が出ます」


男の表情が変わった。


「旦那様に、礼を」


「怪我を治すのが先」


「でも、旦那様の名がなきゃ俺たちは」


そこまで言って、男は俺を見た。


口を閉じる。


俺は母の袖を握った。


父の名。


それが食券になる。


次の患者は、赤ん坊を抱いた女だった。


夫を海で亡くしたと言う。赤ん坊は細く、泣く力も弱い。


母は湯で温めた布を赤ん坊の腹に当て、女へ栄養のあるスープを飲ませた。


「支払いは」


「今日はいいの」


「またですか。そんなことばかりしていたら」


「また働けるようになったら、次の誰かに返して」


女は泣いた。


母の手に額を押しつける。


俺はそれを見て、胸がざわついた。


助ける人は、感謝される。


感謝されると、人は縛られる。


前世の俺は、ほんの少しの優しさにも過剰に反応した。


貸しを作った気がして、次に何を要求されるのか怯えた。だから優しさを遠ざけた。


この女も、母に縛られるのだろうか。


それとも、本当に返す先を変えていいのだろうか。


昼前、診療所の空気が変わった。


扉の前で、痩せた男が立ち止まっていた。帽子を深くかぶり、頬に古い傷がある。


片手で腹を押さえている。


母が近づく。


「入って」


男は俺を見た。


それから、待合の患者たちを見た。


「ここは、ベランディの」


声が掠れていた。


「私の診療所です」


「でも、旦那様の」


「私の診療所です」


母は同じ調子で繰り返した。


男は入ってきたが、椅子に座っても外套を脱がなかった。


港湾労働者が小声で言う。


「あいつ、南の賭場に出入りしてた奴じゃ」


別の患者が黙れと肘でつつく。


俺にもわかった。


この男は父の名を怖がっている。


さっきの男は父の名で安心した。


同じ名前なのに。


母は男の腹を診た。古い傷が膿んでいる。


顔をしかめたのは匂いのせいではなく、放置された時間の長さのせいだと思う。


「もっと早く来なさい」


「来られるわけが」


「歩けなくなるよりましでしょう」


「俺は、ベランディに」


男はそこで言葉を飲み込んだ。


母は包帯を切る。


はさみの音が、診療所に乾いて響いた。


「ここでは治療をします。話したくなければ話さなくていい。でも、手当ての邪魔をするなら叱ります」


男は黙った。


俺は母の横顔を見上げた。


優しいだけではない。


母の手は白く、細い。でも、患者の血や膿を避けなかった。


逃げる男を追いかけるのではなく、逃げなくていい場所を作る強さがあった。


処置が終わる頃、男は小さく言った。


「あんたは、どうして」


母は手を洗っていた。


水が赤茶色に濁り、流れていく。


「助ける相手を選び過ぎると、手が白いまま汚れるの」


男は意味がわからない顔をした。


俺は、もっとわからなかった。


白いまま汚れる。


矛盾している。


でも、その言葉は診療所の匂いと一緒に、俺の中へ残った。


その後に来たのは、俺と同じくらいの子供だった。


黒い巻き毛の女の子で、膝を擦りむいている。


母親らしい女はレガリアの言葉があまり得意ではなく、診察室の入口で何度も頭を下げた。


港に来たばかりの移民だと、母が小声で教えてくれる。


女の子は俺を見て、さらに泣きそうになった。


俺は困った。


子供の相手は苦手だ。


前世でも同年代と話すのが下手だった。


今の身体では同年代でも、中身の年齢を考えるともっと距離がわからない。


慰めるべきなのか、黙っているべきなのか。


母が俺に小さな缶を渡した。


「飴を一つ選んで」


「俺が?」


「あなたの手からなら、怖くないかもしれない」


俺は琥珀色の飴と、薄い緑の飴で迷った。


結局、緑を選ぶ。女の子の目が少しだけ動いたからだ。


差し出すと、女の子は泣きながら受け取った。指先が触れる。冷たい手だった。


「いたい?」


俺が聞くと、彼女は言葉がわからない顔をした。


俺は自分の膝を指さし、顔をしかめてみせる。


女の子は涙の中で、ほんの少し笑った。


母はその間に素早く傷を洗った。女の子は一度だけ大きく泣いたが、飴を握って逃げなかった。


「助かったわ」


母が言う。


「何もしてない」


「そばにいた」


また、そんなことで数えられる。


俺は女の子の冷たい手の感触を、しばらく忘れられなかった。


午後、俺は棚の整理を手伝った。


手伝ったと言っても、瓶のラベルを読むだけだ。


まだ字は完全ではない。けれど前世の記憶があるせいで、形を覚えるのは早かった。


「これは?」


「解熱の薬草」


「これは?」


「消毒に使うもの。触らない」


「これは?」


「飴」


母が真面目な顔で言ったので、俺は瓶を二度見した。


母は笑って、ひとつ取り出す。琥珀色の小さな飴。


「泣かずに包帯を替えられた子へ」


「俺は?」


口に出してから、しまったと思った。


欲しがった。


欲しがる子供は面倒だと思われる。


母は飴を俺の手に置いた。


「今日はよく歩きました」


手のひらの飴は、秋の光を吸って光っていた。


俺はすぐ食べずに握った。


溶ける。


でも、手放したくなかった。


帰り道、空は赤くなっていた。


港の鐘が鳴る。荷役を終えた男たちが酒場へ向かい、魚市場では水を流す音がする。


母は少し疲れていて、俺の歩幅に合わせる足が遅い。


屋敷の門の前に、朝の腕を吊った男がいた。


彼は父、ヴィットリオの前に立っていた。


父は黒い上着のまま、門灯の下にいる。右手には大きな指輪。灰色の冠のような紋章が刻まれていた。


男は包帯の巻かれた腕を胸に当て、頭を下げた。


「旦那様。食券、助かりました。女房が泣いて」


「治せ」


父は短く言った。


「はい」


男は父の手を取り、指輪に唇を触れさせた。


俺は立ち止まった。


礼。


忠誠。


それとも、恐怖。


指輪に口づけした男の肩は震えていなかった。けれど、周りの使用人たちは息を潜めている。


父が俺に気づいた。


顔が和らぐ。


「レオーネ、疲れたか」


俺は答えられなかった。


父の手は、俺に触れる前には温められる。


その同じ手の指輪に、大人が頭を下げる。


母の診療所で見た白い手と、父の指輪。


どちらも人を助けているらしい。


どちらかは、人を怯えさせてもいる。


俺は飴を握りしめた。


甘い匂いが、手の温度で少しだけ溶けていた。


【人物紹介】

・エミリア・ベランディ

レオーネの母。ヴェッキア・リーヴァの診療所で患者を診ている。

優しいだけでなく、食べ物で遊べばきちんと叱る人。


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