↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第1部<灰冠を継ぐ子> 1章 愛を知らない子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/98

第2話 パン粥と試験



俺はわざとスプーンを床に落とした。


銀の小さな音が、食堂の床で跳ねる。


怒られれば、この家の規則がわかると思った。


熱が下がって三日目。


俺はまだ、この家でどう振る舞えば捨てられないのかを知らなかった。


前世では簡単だった。


黙る。

手間をかけない。

点数を取れるときは取る。

無理なときは、せめて視界に入らない。


失敗した日は、謝りすぎない。


「レオーネ」


母、エミリアの声がした。


食堂は朝の光で白かった。


焼いたパンの匂いと、牛乳で煮た麦の甘い匂い。


窓の外では荷車の車輪が石畳を鳴らしている。港へ向かう男たちの声が遠くから届く。


俺の前にはパン粥の皿があった。


柔らかく煮たパンに、卵と少しの塩。


三歳の身体には熱すぎないよう、母が何度も息を吹きかけてくれた。


スプーンは床。


俺は母の顔を見た。


怒りを探した。


母は眉を寄せていた。


心臓が縮む。


「食器は投げるものではありません」


来た。


俺は身体を固くした。


「スプーンが嫌なら、嫌と言いなさい。落としたら拾う人がいるでしょう」


それだけだった。


母は椅子から立ち、床のスプーンを拾った。


使用人が慌てて替えを持ってこようとするのを、手で制する。


「私が洗います」


「奥様」


「落としたのはこの子。教えるのは私」


母は水差しの横の鉢でスプーンを洗い、布で拭いた。俺の手に戻す前に、指先でそっと持ち方を直す。


「もう一度。今度は食べるために使いましょう」


人格を否定されない。


面倒な子だと言われない。


俺は混乱しながら、パン粥を掬った。


口に入れる。


温かい。


塩気と卵の匂いが舌に広がる。


前世の最後の日、俺は何を食べただろう。


思い出せない。食べたかどうかも曖昧だ。



次に俺は、パンを握りつぶした。


柔らかい白い部分が指の間から出る。母の眉がまた寄る。


「レオーネ」


「……」


「手で遊ぶなら、食事は少し休みます」


母は皿を遠ざけた。


罰だ。


そう思った瞬間、胃が冷たくなる。


でも母は俺の手を布で拭き、膝に乗せた。


「お腹が空いたら、また食べましょう」


違う。


食事を取り上げて苦しめる声ではない。


区切りを作る声だ。


俺は椅子の上で足を揺らした。三歳の足は床につかない。


落ち着かない。大人の顔色を読むには、この身体は低すぎる。


食堂の扉が開いた。


父、ヴィットリオが入ってきた。


昨日の夜も部屋へ来た。触れようとはしなかった。


椅子に座り、母と小声で話し、俺の寝息を確認して帰った。


俺はまだ、父の手を握っていない。


「おはよう、レオーネ」


父の声は柔らかかった。


その後ろに、細い男がついてきた。


帽子を両手で握りしめ、顔色が悪い。


父は食卓から少し離れた場所で足を止める。


「旦那様、昨日の荷についてですが」


男が早口で言った。


父の目が細くなる。


その瞬間、食堂の温度が下がった気がした。


「朝食の席だ」


「で、ですが、港の方で」


「二度言わせるな」


声量は大きくない。


怒鳴ってもいない。


それなのに、男の喉が鳴った。使用人たちが視線を床へ落とす。


これが、この家の外の父なのか。


俺の身体はまた固まった。


ヴィットリオはそれに気づいた。


気づいた上で、男へ顔を向けたまま言う。


「子供の前でする話ではない。マルコに伝えろ。俺はあとで聞く」


「は、はい」


男は逃げるように出ていった。


父は息を吐き、食卓へ来た。椅子に座る前に、俺の皿を見て笑う。


「戦場か」


母が咎める。


「笑い事ではありません。食べ物で遊びました」


「それは重大だ」


父は真剣な顔を作った。


「パンに謝ったか、レオーネ」


俺は固まったまま父を見る。


父は自分の皿からパンをひと切れ取り、胸に当てた。


「すまない、パン。俺の息子はまだ、お前が腹を満たす立派な仕事をしていると知らなかった」


使用人のひとりが吹き出しそうになり、慌てて咳をした。


母まで口元を押さえている。


俺は、笑っていいのかわからなかった。


父は俺の前にパンを置いた。


「パンは大事だ。港で働く男も、診療所で夜を明かす女も、パンがなければ動けない」


診療所。


母がそちらを見た。


「今日は午後に行きます。熱が戻らなければ、この子も少しだけ連れていくわ」


「早くないか」


「外の風を知らない子にしたくないの」


「……護衛を増やす」


「増やしすぎると患者が怖がります」


父は黙った。


母の声は穏やかなのに、引かなかった。


この家では、母も父に意見を言う。


俺はそのことにも驚いた。


前世の家では、母は父の機嫌を先に読んだ。俺もそうした。


父の顔色を曇らせないことが、家庭の平和だと思っていた。


ここでは違う。


少なくとも、この食卓では。


「診療所には、どんな人が来るの」


俺の口から、小さな声が出た。


母と父が同時に俺を見る。


しまった、と思った。


三歳の子供にしては言葉がはっきりしすぎたかもしれない。


でも二人の顔にあったのは、警戒ではなかった。


喜びだった。


「お前、今日はよく話すな」


父が目を細める。


母はパン粥の皿を戻した。


「怪我をした人、熱を出した子、お腹に赤ちゃんがいる人。お金が足りない人も来ます」


「お金がないと、医者に行けないの?」


「行けない人が多いわ」


母は当然のことのように言った。


「だから、来られる場所を作ったの」


「どうして」


「痛いまま放っておかれるのは、つらいでしょう」


胸の奥が詰まった。


俺は前世で、痛いと言えなかった。


本当は、誰かに来てほしかった。


その記憶が喉に上がり、けほけほとパン粥を飲み込めなくなる。


母が水を差し出した。


「ゆっくり」


父は何も聞かなかった。


代わりに、自分の大きな手でパンを小さく千切って、俺の皿の縁に並べた。


「船みたいだろう」


「船?」


「こっちが南埠頭。こっちが魚市場。これは偉そうな貿易船だ」


父はパンの欠片を動かす。


母が呆れた声を出した。


「食べ物で遊ばない、と今教えたところです」


「これは教育だ」


「あなたもパンに謝りなさい」


父は一瞬、本気で困った顔をした。


使用人たちが今度こそ小さく笑った。


俺も少しだけ笑ってしまった。


笑った瞬間、怖くなる。


楽しいと感じたら、失ったときにつらい。


前世で何度も学んだはずだ。


期待するから壊れる。ほしいと思うから、与えられないときに死にたくなる。


死にたくなる。


その言葉に、身体が冷えた。


俺はもう一度死にたいのか。


違う。死にたくない。


あの最後の恐怖を、俺は覚えている。


終わらせたいと願ったくせに、終わる寸前で生にしがみついた自分の浅ましさも覚えている。


だから、今度はちゃんとしなければ。


ちゃんとして、捨てられないように。


俺は皿のパン粥を最後まで食べた。


母は褒めた。


父は大げさに拍手した。



俺は安心する代わりに、次の試験を考えていた。


午後、診療所へ行く話は、俺の眠気で流れた。


小さな身体はすぐ限界になる。食後に父の膝に乗せられそうになって、俺は首を横に振った。


父は少し寂しそうに笑っただけだった。


「では椅子を貸そう」


大きな椅子に毛布を敷かれ、俺はそこで眠った。


目が覚めたとき、食堂は夕方の色だった。


母はいない。


診療所へ行ったらしい。


父の声が、廊下の向こうから聞こえた。


朝とは違う、低く乾いた声。


「港の件は、子供の前でする話じゃない」


誰かが何かを答える。


父の声がさらに沈む。


「怯えた顔で屋敷に来させるな。レオーネが見る」


俺は毛布を握った。


俺のために隠している。


それは優しさなのか。


それとも、隠さなければならないものが港にあるということなのか。


答えは出ない。


ただ、パン粥の温かさがまだ腹に残っていて、その温かさごと不安が膨らんだ。


捨てられないために、わざと失敗してみる。

白い豆と硬いパンを煮た、素朴な朝食。

父の拍手は少し大きく、母にはすぐ注意された。

レオーネの試験は、まだ続く。


--

評価、コメントはページ下部よりお気軽に。

作者の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。