第1話 灰色の瞳で目を覚ます
1章 愛を知らない子
目を覚ました俺は、見知らぬ女に抱かれて泣いていた。
俺の知っている声ではない。薄くて、柔らかくて、喉の奥でしゃくりあげるたびに肺が痛む。
死んだはずなのに。
そう思った瞬間、身体がびくりと跳ねた。
「レオーネ。大丈夫よ、ここにいるわ」
知らない名前。
知らない天井。
白い漆喰の壁、薄い青のカーテン、窓の向こうで鳴る汽笛。
潮の匂いと、煮詰めた薬草の苦い匂い。どれも俺の部屋にはなかった。
俺の最後の記憶は、もっと狭くて、冷たかった。
スマートフォンの画面が光っていた。
返信の来ない通知欄。
読みかけの退学手続き。
ドアの向こうで、両親が俺のことを「また面倒を増やした」と話していた。
それで俺は、戻れない選択をした。
方法は思い出したくない。
思い出したところで、誰の役にも立たない。
ただ、終わった瞬間に楽になったわけではなかった。
怖かった。ひどく怖くて、やっぱり助けてほしいと思った。
思ったときには、もう声が届かない場所にいた。
それなのに今、俺は声を上げている。
女の胸に頬を押しつけられている。
温かい。
温かいことが、気持ち悪いほど怖かった。
「奥様、熱がまた」
低い女の声がした。水音。布を絞る音。
俺の額に濡れた布が置かれる。小さな身体が勝手に震えた。
自分の手を見下ろそうとして、うまく首が動かない。
丸い指。短い爪。三歳くらいの、子供の手。
「医師を」
「呼んであります」
「ヴィットリオには?」
「使いを出しました。ですが、会合の最中で」
女が俺を抱く腕に、ほんの少し力を込めた。
「帰ってくるわ」
その声には疑いがなかった。
帰ってくる。
誰が。
俺の前世で、父は帰ってきても俺の部屋を見なかった。
母は食卓に置いた皿の数を間違えなかったけれど、俺の顔色を見てくれたことは少なかった。
期待されないことに慣れた。
期待されるときは、点数か、外面か、親戚への説明に使える結果が必要だった。
だから、この女が俺の髪を撫でる理由がわからない。
俺は何もしていない。
役に立っていない。
熱を出して迷惑をかけている。
なのに叱られない。
「レオーネ、目を開けられる?」
開いている。たぶん。
視界は涙でぼやけていた。女の顔が近づく。
柔らかい茶色の髪。目尻に疲れがあり、唇は乾いている。
それでも俺を見る目は、嫌悪でも苛立ちでもなかった。
心配。
そう呼ぶべき顔を、俺は知識としてしか知らなかった。
「いい子ね。怖かったのね」
違う。
いい子じゃない。
十九にもなって大学を辞めて、働けなくて、逃げて、死んだ人間だ。
そう言おうとした。喉から出たのは、意味のない泣き声だけだった。
女は俺の背をゆっくり叩いた。
「エミリア様、お休みください。昨夜からずっとです」
「この子が眠ったら」
「ですが」
「母親の仕事を取り上げないで」
母親。
その言葉が、熱よりも強く頭の中を揺らした。
この女が、俺の母。
俺はレオーネ・ベランディ。
ここはレガリア王国、西岸の港湾都市ヴァレノ。
断片的な記憶が、熱に浮いた泡みたいに上がってくる。
石畳の坂道。港に並ぶ倉庫。抱き上げてくれる大きな腕。名前を呼ぶ声。
そのどれもが俺のものなのに、俺ではない。
怖い。
でも、この腕から離れたいと思えない。
扉の外が騒がしくなった。
靴音がいくつも重なる。誰かが「旦那様」と息を呑むように言った。
空気が変わった。部屋にいた使用人たちの背筋が、一斉に伸びる。
怖がっている。
尊敬とは違う。もっと硬い、触れたら割れそうな沈黙。
扉が開いた。
黒い外套の男が入ってきた。
大きな男だった。肩幅が広く、濡れた石畳の匂いと、冷たい外気をまとっている。
髪は黒に近い栗色で、目は暗い琥珀色。手袋を片方だけ外しながら、まっすぐベッドへ来る。
「エミリア」
「ヴィットリオ。早かったわね」
「会合などどうでもいい」
使用人の誰かが息を止めた。
男は気にしなかった。
俺を覗き込む。胸の奥が縮んだ。怒られる。こんな大勢を動かして、熱を出して、仕事を邪魔して。
俺は反射的に母の服を握った。
男の表情が変わった。
傷ついたように見えた。
どうして。
「レオーネ」
低い声なのに、俺に向けられた部分だけが丸かった。
「父さんだ。わかるか」
わからない。
わかりたくない。
父という言葉を、信じたくない。
男、ヴィットリオはベッドの横に膝をついた。あの大きな身体が、小さな俺の高さまで下がる。
彼は額を近づけた。
頬が触れる。
熱を測るだけの仕草だとわかるまで、俺は呼吸を忘れた。
「熱いな」
「薬は飲ませたわ。汗が出れば少し落ち着くはず」
「俺が抱く」
「あなた、手を温めて」
ヴィットリオは言われた通りに両手を擦った。
暖炉のそばに手をかざし、指輪をはめた太い指を何度も握って開く。
それを見て、俺は混乱した。
この部屋の誰もが彼を恐れている。
その彼が、子供に触れる前に手の温度を気にしている。
そんな父親を、俺は知らない。
「レオーネ、少しだけだ」
手が伸びてくる。
俺はその手を払った。
小さな手なので、音もしなかった。ただ、指先がヴィットリオの手の甲を弱く叩いただけだ。
部屋の空気が凍った。
やってしまった。
罰が来る。
大声か、平手か、無視か。
前世の記憶が勝手に身構える。怒らせた。愛想を尽かされた。面倒な子供だと思われた。
ヴィットリオは何もしなかった。
ただ、払われた手を膝の上に置いた。
「そうか。嫌か」
それだけだった。
母が俺の耳元で囁く。
「嫌なら嫌でいいの。熱があるもの」
嫌なら嫌でいい。
その言葉の意味がわからなくて、俺はまた泣いた。
夜は長かった。
薬草の匂い。スープの湯気。窓の外で鳴る港の汽笛。
母の手は何度も俺の額を拭き、父は黙って椅子に座っていた。
たまに低い声で使用人へ指示を出すと、皆が急いで動く。
怖い人なのだと思う。
でも、彼は俺が眠るまで部屋を出なかった。
途中で、母が小さな匙を俺の口元へ運んだ。
「少しだけ。飲めたら偉いわ」
白い豆を潰した薄いスープだった。
塩と鶏の匂いがする。熱で舌が鈍っているのに、胃へ落ちる温度だけははっきりわかった。
俺は一口飲んだ。
母は笑った。
「そう。上手」
上手。
スープを飲むだけで。
そんなことで褒められると、胸のどこかが痛んだ。
前世で褒められたことはあった。
模試の順位、親戚の前での受け答え、面倒を起こさないこと。
どれも、俺が俺であることとは少し離れていた。
今の俺は、泣いて、熱を出して、スープを一口飲んだだけだ。
「もう一口」
父が横から言った。
母が父を見た。
「急かさない」
「急かしていない。応援だ」
「あなたの応援は声が大きいの」
「小さくする」
父は本当に声を潜めた。
「もう一口だ、レオーネ」
使用人たちがまた息を殺す。
港の男を黙らせる声が、今は子供の匙一杯のために小さくなっている。
そのおかしさが、熱の中でも少しだけわかった。
俺はもう一口飲んだ。
父の顔が明るくなる。
その顔を見た瞬間、危ない、と思った。
この顔をもう一度見たいと思ってしまったからだ。
明け方、熱が少し引いた。
俺は汗で濡れた寝間着を替えられ、清潔な布団に戻された。
母の指は冷えていた。徹夜したせいだ。
俺はその手を見た。
握ればいいのかもしれない。
けれど、握ったら何かを返さなければならない気がした。
愛情には代金がある。
払えないものを受け取ってはいけない。
だから俺は目を閉じたふりをした。
「眠ったか」
「ええ」
「俺が怖いのだろうな」
「熱があるのよ」
「それだけではない」
父の声は静かだった。
「あの子の目が、遠い場所を見ている」
俺の心臓が跳ねた。
母の手が布団を直す。
「なら、近い場所を増やしましょう。今日のスープ。明日の朝。あなたの手。私の声。ひとつずつ」
「そうだな」
椅子が軋む。
父が立ち上がった気配がした。仕事に戻るのだろう。ほっとした。なのに胸の奥が少しだけ痛んだ。
扉の前で、父は振り返った。
「レオーネ」
眠ったふりの俺へ、彼は言った。
「今日、父さんの手が嫌ならそれでいい」
足音が遠ざかる。
「明日も来る」
【人物紹介】
・レオーネ・ベランディ
ベランディ家の一人息子。前世では十九歳の元大学生。
三歳で二度目の人生を始めたが、まだ愛情の受け取り方を知らない。
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初めての投稿作品です。
レオーネの二度目の人生を見届けていただけましたら嬉しいです。
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