第9話 捨てられないための志願
父の正体を知って最初に思ったのは、逃げたい、ではなかった。
役に立たなければ。
その言葉が、祭りの銃声より先に俺の胸を撃った。
聖燈祭の翌朝、屋敷は静かだった。
静かすぎた。
いつもなら厨房からパンを焼く匂いがして、
使用人たちの足音が廊下を行き交い、
父の部下が門の外で低い声を交わす。
今日はどれも薄い布を一枚かぶせられたみたいに遠い。
母は診療所に泊まった。
撃たれた男の腕は、命に関わらないらしい。
それでも、しばらく荷は担げない。
彼には妻と幼い双子がいる。
母はその家へ食券を回す手配をしてからでないと戻らない、と伝えてきた。
母が無事だったことに安心した。
安心した自分に、すぐ嫌気が差した。
誰かの腕を代金に、俺は母を失わずに済んだ。
そんな計算をしてしまう自分が、卑怯に思えた。
「坊ちゃん、旦那様がお呼びです」
マルコの声で、俺は窓から離れた。
「父さんはどこに」
「執務室です」
執務室。
五歳の冬、父の膝の上で港の地図を見た部屋。
第七倉庫だけが父の指で隠された部屋。
俺は息を整えた。
廊下を歩く間、壁に掛けられた家族の肖像が視界の端を流れていく。
ベランディ家の古い人々。灰冠の紋章。
俺は昨日まで、その紋章を家の印だと思っていた。
今は少し違う。
人を守る印であり、恐れさせる印だ。
父は執務机の前ではなく、暖炉の横に座っていた。
机の上には書類が積まれている。
港湾の名簿らしき紙、祭りの負傷者一覧、中央警察からの照会状。
どれも封が切られている。
父は眠っていない顔をしていた。
「座れ」
俺は向かいの椅子に座った。
昔は足が床につかなかった椅子だ。今はつく。
それだけの時間が過ぎたのに、俺はまだ子供のように父の顔色を読んでいる。
「母さんは」
「戻る。怒っている」
「誰に」
「俺に」
父は苦く笑った。
「お前にも少し」
「俺?」
「広場で立ちかけただろう」
見られていた。
俺は膝の上で手を握った。
「立ちたかった」
「知っている」
「母さんが撃たれたと思った」
「知っている」
「じゃあ」
声が尖る。
父は遮らなかった。
「じゃあ、どうして今まで隠したの」
暖炉の火が鳴った。
父はすぐには答えなかった。言い訳を探している沈黙ではない。
「お前に子供でいてほしかった」
どの傷を先に見せるか選んでいる沈黙だった。子供のように腹が立った。
「それは父さんの都合だ」
言ったあと、胸が痛んだ。
父にそんな口を利いたことはない。
でも父は頷いた。
「そうだ」
認められると、怒りの置き場所がなくなる。
父は続けた。
「俺は守ると言いながら、お前から知る権利を奪った。お前を守った面はある。お前を弱くした面もある」
理解できてしまう。
それが嫌だった。
父は俺を愛していた。
それは嘘ではない。
同時に、父は人を傷つける組織の頂点にいる。
どちらかだけなら、楽だった。悪い父なら憎める。善い父なら疑わずに済む。
でも父は、俺の額に頬を当てた人で、広場を黙らせたドンだった。
「レオーネ」
父の声が少し柔らかくなる。
「お前に継がせる気はない」
俺は顔を上げた。
「どうして」
「どうして、とは何だ」
「俺が知らないから?」
「それもある」
「弱いから?」
「違う」
「じゃあ、役に立たないから?」
父の眉が動いた。
その反応で、自分が何を言ったか気づいた。
役に立たない。
前世から持ってきた錆びた鍵だ。
その鍵で、俺はどんな扉も開けようとしてしまう。
愛される扉も、許される扉も、生きていていい扉も。
「レオーネ」
父の声が低くなる。
「今の言葉は誰のものだ」
俺は答えられなかった。
前世の父か。
母か。
学校の教室か。
それとも、最後に自分で自分へ向けた声か。
この世界の誰も、俺に役に立たなければ捨てるとは言っていない。
それなのに俺は、言われる前から怯えている。
「後継教育を受けたい」
口が勝手に動いた。
父の顔が固まる。
「何を言っている」
「父さんの仕事を知りたい。会計も、法も、港も、交渉も。銃も」
最後の言葉で吐き気が上がった。
広場の乾いた音を思い出す。
撃たれた男の腕。
母の白い帽子。
それでも言葉を引っ込めなかった。
「俺だけ知らないまま守られるのは嫌だ」
「守られることは恥ではない」
「知ってる」
「知っていない顔だ」
父は立ち上がった。
大きい。
十五歳になっても、父はまだ俺よりずっと大きい。
「後継教育は遊びではない。見たくない数字を見る。聞いたことを黙る。自分の判断で誰かの生活が削れる。正しい制度に押し潰される者も、悪い金で助かる者も見る」
「見る」
「昨日の男の腕を、お前は忘れるな」
「忘れない」
「なら言う。俺たちの金は、孤児の靴にもなる。債務者の恐怖にもなる。どちらか一方だけを選んで覚える者に、家は触らせない」
父の言葉は鋭かった。
でも、俺を追い払うためだけではない。
父自身にも刺している言葉だと思った。
「それでも」
俺は言った。
「それでも知りたい」
扉が開いた。
母が入ってきた。
髪をきつく結び、白い外套の裾に祭りの泥がついている。
顔は疲れているのに、目だけがはっきりしていた。
「今の答えでは駄目」
母はそう言った。
俺は立ち上がる。
「母さん」
「愛されるための試験にしてはいけない」
胸を正確に刺された。
母は俺の前に立つ。
診療所で患者に逃げ道を作る時の顔ではない。逃げ道を塞いででも止める時の顔だ。
「あなたが役に立つから愛しているのではないわ」
「わかってる」
「わかっていない」
母の声は優しいのに、逃がさない。
「昨日、あなたは私を守りたかった。知らないまま失うのが怖かった。それは本当でしょう。でも、その奥に、役に立たなければここにいられないという恐れが混ざっている」
俺は唇を噛んだ。
否定したかった。
でも否定すると、嘘になる。
「混ざっていたら、駄目なの」
やっと出た声は、ひどく小さかった。
母は少し目を伏せた。
「駄目ではない。傷は、あるだけで罪ではないわ」
父が黙って聞いている。
母は続けた。
「でも、傷を理由に他人を傷つけたら、それはあなたの責任になる。理解してもらえることと、許されることは違う」
広場の男の腕。
父の指輪。
母の診療所。
全部がそこへ戻っていく。
俺は椅子の背に手を置いた。
「じゃあ、どうすればいい」
「一週間、何もしない」
「何もしない?」
思わず聞き返した。
父が頷く。
「学校へ行け。飯を食え。診療所で包帯を畳め。テオと喧嘩しろ。後継という言葉を口にするな」
「そんな」
「一週間後、同じ答えなら聞く」
父の声は決定だった。
「ただし、理由を持ってこい。俺を喜ばせるためでも、捨てられないためでもない理由を」
俺は反発した。
反発したのに、少しほっとした。
試験に猶予ができたからではない。
今すぐ役に立たなくても、部屋から追い出されなかったからだ。
一週間は長かった。
学校の授業は耳を通り抜けた。
港湾史の教師が王都の近代化を誇らしげに語るたび、昨日の中央警察の徽章を思い出す。
正しい制度が来れば、父のような男は要らなくなるのかもしれない。
それは良いことなのだろう。
でも、母の診療所へ来る移民の女は、まだ役所の窓口で言葉を聞き取ってもらえない。
父の部下に怯える債務者もいる。
父の名で食券を受け取る孤児もいる。
ひとつの答えで片づかない。
診療所で、俺は包帯を畳んだ。
撃たれた男、パオロという名の荷役は、左腕を吊っていた。彼は俺を見ると笑おうとした。
「若様、そんな顔しなさんな」
「痛い?」
「痛くないと言ったら奥様に叱られます」
母が隣で薬瓶を並べながら言う。
「叱ります」
パオロは苦笑した。
「でも、生きてます」
その言葉に、俺は返せなかった。
生きている。
それは軽い言葉ではない。
前世の俺が捨てたもの。
今の俺が守りたいもの。
一週間後、俺はまた執務室へ行った。
父と母がいた。
マルコも壁際に立っている。
俺は先に頭を下げた。
「後継教育を受けたい」
父は黙っていた。
「理由は」
「父さんに褒められたいから、ではない」
嘘ではない。
全部でもない。
俺は息を吸った。
「捨てられたくない恐怖は、まだある。なくなったふりをすると嘘になる」
母の目が少し揺れた。
「でも、それだけじゃない。母さんを守りたい。父さんを知らないまま失いたくない。テオや診療所の人たちが、誰の論理で傷つくのか知りたい」
言葉を探す。
「それに、逃げる場所を守りたい」
父が眉を上げた。
「逃げる場所」
「俺が子供でいられた食卓とか、母さんの診療所とか、テオが魚を盗む席とか。そういう場所は、勝手に残らない」
声が震えた。
「知らなければ失わない、は嘘だった。知れば守れる、もたぶん半分嘘だ。でも、知らないまま失うのは、もう嫌だ」
父は長く俺を見た。
それから、机の引き出しを開けた。
出てきたのは、灰冠の小さな銀貨だった。
八歳の誕生日にもらったものと同じ紋章。
「今日から、お前は見る」
父は銀貨を机に置く。
「ただし、最初に学ぶのは命令ではない」
「何」
「支払いだ」
父の指が、積まれた帳簿を叩いた。
「守ると言うなら、誰がその代金を払ったか数えろ」
俺は銀貨を取らなかった。
まだ取れる重さではない気がしたからだ。
でも、逃げなかった。
役に立てば、ここに置いてもらえる。
そう考えたレオーネは、自分から家の仕事へ近づく。
父の昼の顔ではなく、夜の顔を知るための志願。
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