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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
2章 父の夜の顔

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第10話 会計帳の孤児たち



後継教育の初日は、銃でも交渉でもなかった。


紙だった。


屋敷の北側にある会計室は、執務室より狭い。


窓は小さく、棚は天井まで届き、部屋中にインクと乾いた紙の匂いが詰まっている。


港の湿気を嫌って、暖炉には弱く火が入っていた。


その中央に、ルカ・モレッティが座っていた。


薄い銀縁の眼鏡。細い指。疲れた目。父の部下というより、役所の奥で税率に文句を言う書記に見える。


「若様」


ルカは立ち上がり、深く頭を下げた。


俺はその角度に戸惑った。


十五年この家にいても、大人に頭を下げられるのは慣れない。


前世では、俺は謝る側だった。迷惑をかけた側。存在の場所を小さくする側。


「座ってください」


俺が言うと、ルカは父を見た。


父は壁際の椅子に座っている。


「今日の教師はお前だ、ルカ」


「では、座ります」


ルカは本当にすぐ座った。


少し好きになった。


机の上には帳簿が三冊置かれている。


革表紙の黒い帳簿。


灰色の薄い帳簿。


布で包まれた小さな帳簿。


「どれから見るべきだと思われますか」


ルカが聞いた。


試されている。


俺は表紙を見る。


黒は重い。たぶん主な収入。


灰色は合法事業。


布包みは、汚れないように扱われている。


「布のもの」


「理由は」


「先に見せたくないものほど、大事に包むから」


父が小さく笑った。


ルカは笑わない。


「半分正解です」


布をほどく。


中の帳簿は古く、角が丸い。開かれた最初のページには、細かい字で名前が並んでいた。


孤児の靴代。


未亡人の薪代。


病人の薬代。


学校の板書石。


俺は思わず顔を上げた。


「これが最初?」


「旦那様の指示です」


ルカは淡々と言った。


「若様が見る最初の数字は、家が守ると言っている相手の数字にしろ、と」


父を見る。


父は何も言わなかった。


ルカは黒い帳簿を開く。


そこには別の数字があった。


賭場の取り分。貸付の利息。倉庫の保管料。用心棒代。合法食堂への補填。船員宿の修繕費。


同じ紙面に、違法と合法と扶助が並んでいる。


俺の頭は数字を追える。


追えるから、余計に気持ち悪かった。


ある酒場から入った金が、翌週には孤児の靴へ移っている。


その酒場が払った金は、本当に余裕から出たものなのか。


誰かの給金を削ったのか。恐怖で差し出されたのか。


靴を履いた子供は悪くない。


でも、その靴の革に怯えた大人の沈黙が混じっている。


「吐きそうですか」


ルカが聞いた。


「少し」


「初日は正常です」


「二日目は?」


「慣れたふりをします」


「三日目は?」


「慣れたふりに慣れます。そこで危なくなります」


ルカは眼鏡を外して布で拭いた。


「数字は人を隠します。便利です。残酷でもあります。だから時々、奥様が名前で怒鳴り込んでくる」


母が会計室で怒鳴る姿は想像しにくい。


でも、あり得る。


「この子の薬代を数字の端に追いやるな、とか」


「よくあります」


父が口を挟んだ。


「エミリアは、俺より会計室を怖がらせる」


ルカは否定しなかった。


俺は帳簿へ戻る。


数字を追う。


そして、違和感を見つけた。


「ここ」


指で示す。


「孤児院への支払いが、二週遅れている」


ルカの目が細くなった。


「よくお気づきで」


「なぜ」


「若様はどう読まれますか」


また試験。


胸が少し弾む。


当てれば役に立つ。


そう思った瞬間、母の声が頭の中で鳴った。


愛されるための試験にしてはいけない。


俺は息を吐いた。


「盗みを疑った」


ルカは動かない。


「でも、数字の抜け方が雑すぎる。盗むなら、もっと見えにくくする。たぶん外の支払いが増えた」


ルカの口元がわずかに上がった。


「港湾税です」


彼は灰色の帳簿を開いた。


合法倉庫会社の名義。


食堂の納税証明。


荷役登録料。


見慣れない印紙。


「港湾統制令の運用が変わりました。王都の役人は、港をきれいにすると言っています。紙の上では正しい。誰がどの荷を扱い、どの倉庫に入り、どれだけ税を払うか明確になる」


「悪いことじゃない」


「ええ」


ルカは頷いた。


「不正な取り立ては減るでしょう。密輸も減る。ベランディのような古い家が、口約束で人を動かす余地も減る」


父は黙っていた。


ルカは続ける。


「ただ、字が読めない荷役、保証人を持たない移民、過去の罰金が残る男は登録から落ちます。紙に載れない者は、働く場所を失う。そこへ食券を回すため、孤児院への支払いが遅れた」


「法は、間違っていないのに」


俺が言うと、ルカは小さく頷いた。


「法が間違っていない時ほど、こぼれた人間は自分が悪いと思わされます」


彼は一枚の申請書をこちらへ向けた。


そこには、保証人二名、過去三年の住所、罰金完納証明、組合印という欄が並んでいた。


どれも役所から見れば当然なのだろう。


責任の所在をはっきりさせ、荷物の横流しを防ぎ、事故の補償先を決めるための欄だ。


けれど、昨日港へ着いた移民に三年前の住所を求めても、紙は埋まらない。罰金を払うために働きたい男に、罰金完納証明を求めても、順番が逆だ。


「抜け道を探すのですか」


俺は聞いた。


ルカの目が少し冷える。


「最初にそれを覚えると、法を敵だと思う癖がつきます」


彼は申請書の端を指で叩いた。


「まず、正面から通せる者を通す。次に、足りない書類を補える者を探す。最後に、どうしても落ちる者の食い扶持を別に数える。順番を間違えると、助ける顔をした不正になります」


父の部下が聞けば、遅いと言うかもしれない。


でも、ルカは臆病だからそう言っているのではなかった。


臆病なほど、紙が人を殺す速度を知っている顔だった。


正しい制度が誰かを守る。


同じ制度が別の誰かをこぼす。


ベランディ家はそのこぼれた人間を拾う。


拾う代わりに、恐怖も取る。


善悪を札にして貼れば楽なのに、目の前の帳簿は札を剥がしてくる。


「中央警察は、この帳簿を見たら」


「黒い帳簿だけを見たがるでしょう」


ルカが言った。


「それは彼らの仕事です。彼らにも守る市民がいる。ですが、この布包みの帳簿まで読ませるには、読む側にも覚悟がいる」


「読ませれば許される?」


俺の問いに、ルカはすぐ首を振った。


「いいえ。靴代があるから賭場が許されるわけではありません。ですが、賭場を潰した後に靴を誰が買うか決めない正義も、別の暴力です」


父が初めて口を開いた。


「だから、お前は数えろ」


俺は頷いた。


会計室の午後は長かった。


ルカは数字をただ説明しなかった。


未亡人の家賃補助を一枚ずつ読ませた。

食堂の仕入れ値を市場の天候と結びつけた。

港湾税の新しい印紙が、どの支払いを遅らせたか線を引かせた。


俺は思ったより役に立たなかった。


前世の知識があっても、この国の法や港の慣習を知らなければ、数字は読めない。


自分が賢い子供だと思っていた部分が、静かに削られていく。


でも、不思議と嫌ではなかった。


できないことを知られる怖さはある。


その怖さの横で、ルカが当たり前のように訂正してくれることに安堵もあった。


間違えたら捨てられる授業ではない。


間違えたまま命令すると、人が困る授業だ。


夕方、母が会計室へ顔を出した。


「まだやっているの?」


「若様の目が良いので」


ルカが言う。


褒められた。


反射的に胸が熱くなる。


母は俺の顔を見て、少し困ったように笑った。


「目が良いなら、休む時間も見えるはずです」


父が立ち上がる。


「今日はここまでだ」


「待って」


俺は灰色の帳簿を押さえた。


一か所、気になる欄があった。


港湾名簿の写し。


倉庫番号が並んでいる。


第一、第二、第三、第四、第五、第六。


俺の指が止まる。


第七がない。


第五の次が第六で、その次は第八になっている。


昔、父が地図の上で隠した空白と同じ場所だ。


「ルカ」


声が乾いた。


「第七倉庫は」


ルカの表情が消えた。


父も母も、黙った。


沈黙で答えがわかった。


ルカは別の紙束を探し、古い名簿を出した。


そこには確かにあった。


旧第七倉庫。


使用停止。


管理記録、不備。


新しい名簿には、存在しない。


「役所の単純な転記漏れ?」


俺は聞いた。


ルカは眼鏡をかけ直した。


「そうなら、訂正できます」


「違うなら」


「紙の上にない場所は、誰の責任にもなりません」


父の指輪が机を叩いた。


一度だけ。


「今日は終わりだ」


今度は命令だった。


俺は帳簿から手を離した。


会計室を出ると、廊下の窓から港が見えた。


祭りの飾りはまだ残っている。昨日の悲鳴などなかったみたいに、夕日を受けて赤く揺れていた。


俺は自分の手を見た。


紙の匂いがついている。


血より薄い匂いだ。


でも、たぶん血を流す前に世界を動かす匂いなのだと思った。


第七倉庫の空白は、白い紙の上で、傷口みたいに開いていた。


【人物紹介】

・ルカ・モレッティ

ベランディ家の会計係。

数字の正しさだけでなく、その数字が止まった時に困る人間まで把握している。


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