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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
2章 父の夜の顔

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第11話 沈黙の稽古



マルコの授業で最初に教わったのは、撃ち方ではなく、黙り方だった。


夏の訓練場は、屋敷の裏庭ではなかった。


南埠頭へ続く古い荷馬車道の脇に、使われなくなった倉庫がある。


壁は潮で白く粉を吹き、屋根の一部は板で直され、床には昔の油染みが残っていた。


父は「マルコに任せる」とだけ言った。


母は俺の手を握り、指を一本ずつ確かめた。


「何を習っても、痛い時は痛いと言いなさい」


「訓練なのに?」


「訓練だから」


母はそう言った。


痛いと言えなかった前世の俺が、胸の奥で小さく目を逸らす。


倉庫には、マルコとテオが待っていた。


テオは木箱に腰かけ、硬いパンを噛んでいる。


「遅いですよ、坊ちゃん。俺なんか朝から三回、黙れって言われました」


「お前は三回で済んだのか」


「今ので四回目です」


マルコが淡々と言う。


テオはパンを口に押し込んで黙った。


俺は笑いかけたが、マルコの目を見てすぐやめた。


今日の彼は世話役ではない。

「坊ちゃん」


「はい」


「質問に答える前に、息を吐いてください」


「何の」


「それが一回目です」


テオが横で口元を押さえる。


いつもと違う、兵士のような顔で、マルコは俺の前に椅子を置いた。


「座る。背を預けない。扉を見るな。窓を見るな。私を見るな」


「どこを見れば」


「机の傷」


机の上には浅い傷がいくつもある。


それを数えたくなる。数えれば落ち着く気がする。


でも、マルコはそれも見抜いていた。


「数えない」


「まだ何も」


「数えようとしました」


俺は黙った。


沈黙の稽古は、まず沈黙できない自分を知ることから始まった。


人は黙っていても喋る。


指が動く。

視線が逃げる。

靴先が出口へ向く。

質問された時、答えを用意する前に喉が鳴る。


マルコはそれをひとつずつ指摘した。


「昨日、何を食べましたか」


「豆の」


「早い」


「豆の煮込みくらい答えても」


「答えて良い質問か、考えていません」


「食事だぞ」


「毒を盛った者を探す質問かもしれない。

奥様の居場所を探る前置きかもしれない。

坊ちゃんが何に気を許すか見るためかもしれない」


俺の背中が冷える。


「そんなふうに全部疑っていたら」


「生きにくい」


マルコは言った。


「だから、いつ疑い、いつ疑わないかを訓練します」


父が言っていた。


全部できると言う大人を信用するな。


マルコは別の形で同じことを教えている。


でも、疑うことは相手を傷つける。


母が差し出す茶まで疑ったら、俺は何を失うだろう。


テオの軽口を罠だと思ったら、彼はたぶん笑って離れる。


ソフィの契約も、疑いすぎればただの壁になる。


「信用しないのと、確認するのは違いますか」


俺が聞くと、マルコは少しだけ目を細めた。


「違います」


「どう」


「信用しない者は、相手を道具として扱う。

確認する者は、相手が間違える可能性を含めて扱う」


「難しい」


「簡単なら訓練しません」


午前はそれで終わった。


俺は質問にすぐ答えない練習をし、わざと黙る練習をし、知らないことを知らないと言う練習をした。


知らないと言うだけで、喉が詰まる。


前世で知らないと言えば、なぜ知らないのかと責められた。


できないと言えば、努力が足りない、だ。


俺は、知っているふりをした。平気なふりもした。


その癖は、ここでも消えない。


「顔が死にかけの魚です」


休憩中、テオが水筒を渡してきた。


「お前は例えを選べ」


「港の男なので」


「今は護衛見習いだろ」


「護衛見習いは、主の顔色を見て水を出します」


水筒を受け取る。


冷たかった。


「テオは、怖くないのか」


「何が」


「こういう訓練」


テオは肩をすくめた。


「怖いですよ。でも、腹が減る方が怖かった頃に比べたら、順番があるだけましです」


「順番」


「走る。止まる。黙る。逃げる。誰かがそう教えてくれるなら、怖くてもまだ動ける」


彼の声は軽いままなのに、目は笑っていなかった。


「俺の母ちゃん、昔、役所で何を聞かれてるかわからなくて泣いたんです。

字も読めない。保証人もいない。

そしたら奥様が来て、まず座れ、水を飲め、名前を書かなくていいから言え、って順番を作ってくれた」


テオは水筒の蓋を閉める。


「俺はその順番に救われた家の子です。

だからマルコさんの順番も、まあ、ありがたいと思うことにしてます。腹は減りますけど」



午後、マルコは倉庫の外へ俺たちを出した。


「退路を見ます」


「逃げ道?」


「逃げる道です。恥ではありません」


彼は倉庫の周囲を歩かせた。


大通り。裏路地。水路。開かない扉。

開きそうに見えて、中から塞がれた窓。

人目が多い道と、声が吸われる狭い路地。


具体的な抜け方は教えられない。


マルコはただ、見る順番を教えた。


「入る前に出る道を見る。座る前に立つ場所を見る。誰かを守るなら、その人が歩ける速度で考える」


「母さんなら」


「患者を置いて走れません」


「父さんなら」


「最後に出ようとするでしょう。だから周りが先に道を作る」


「俺なら」


マルコは足を止めた。


「坊ちゃんは、残ろうとする者の顔をします」


言い返せなかった。


広場で母の方へ立ち上がりかけた俺を、彼は覚えている。


「残ることが勇気になる時もあります。迷惑になる時もあります。

死ねば守れる、という考えは捨ててください」


心臓が強く打った。


マルコは俺の前世を知らない。


知らないのに、深いところへ手を入れてくる。


死ねば終わる。


前世の俺はそう考えた。


「死にたいわけじゃない」


俺は小さく言った。


「知っています」


「本当に?」


「死にたがる者は、奥様の診療所の戸口であんな顔をしません」


「どんな顔」


「失うのを怖がる顔です」


マルコらしい愛情は、いつも少し硬くて、命令に似ている。


倉庫へ戻ると、机の上に布包みが置かれていた。


形でわかった。


銃だ。


喉が狭くなる。


祭りの乾いた音。

パオロの腕。

七年前の血の匂い。


「今日は撃ちません」


マルコが言った。


「触るだけです」


「触る必要がある?」


「あります」


布が開かれる。


黒い金属と木の冷たい道具。


俺は息を吐く。最初に教わった通りに。


マルコは銃を机に置き、こちらへ向けない角度にした。


「これは勇気ではありません。権威でもありません。距離を変える道具です」


「距離」


「手が届かない相手を傷つけられる。だから、心も遠くなったと錯覚する」


俺は手を伸ばした。


指先が金属に触れる。


冷たい。

重い。

想像よりずっと重い。


持ち上げた瞬間、胃が持ち上がるような吐き気が来た。


俺は机に戻した。


「無理」


声が掠れた。


前なら、無理と言えなかった。


マルコは頷いた。


「今日はそれでいい」


「失望しないの」


「しません」


即答だった。


「撃てるようになることより、撃てない自分を知る方が先です」


テオが横で珍しく黙っている。


彼も銃を見ていた。


軽口で包めないものが、倉庫の机に置かれている。


夕方、訓練が終わる頃、俺のシャツは汗で背中に張りついていた。


走った距離は少ない。殴られてもいない。


それでも身体の奥が疲れている。


マルコは扉の前で俺を止めた。


「最後に一つ」


「はい」


「坊ちゃんがいつか、撃つなと命じる側になるなら」


彼は布包みを持ち上げた。


「撃てる者に守られていることを忘れないでください」


俺はテオを見た。


テオは笑わなかった。


マルコも笑わない。


守るために撃てる人間がいる。


撃つことで傷つく人間もいる。


撃たれる人間は、当然もっと傷つく。


命じる者だけが手を白く保つことはできない。


母の言葉がまた胸に残る。


助ける相手を選び過ぎると、手が白いまま汚れる。


俺は倉庫の外へ出た。


夏の夕方の港は、魚と煙と潮の匂いがした。遠くで鐘が鳴る。


その音を聞きながら、俺は初めて、沈黙にも重さがあると知った。


【人物紹介】

・マルコ・セラ

元兵士で、ヴィットリオの護衛。現在はレオーネの護衛兼世話役。

教えるのは勝ち方より、生きて戻るための手順。


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