第11.5話 跳ねた靴紐と護衛見習い
テオ・リッチは護衛用に支給された靴紐を、初日の昼までに二度も切った。
一度目は、倉庫の裏を走らされた時だ。
二度目は、マルコに「走るな」と言われて止まった時だった。
止まっただけで切れる靴紐など、信用できない。
そう言いたかったが、マルコの顔を見ると、靴紐ではなく自分の止まり方が悪かったのだとわかった。
「足だけで止まるな」
マルコは短く言った。
「身体ごと止まれ。目だけ先に動かせ」
「目にも靴紐が要りますか」
「五回目です」
「何がです」
「黙れと言った回数」
テオは口を閉じた。
閉じながら、腹の中でだけ言った。
今日中に十回はいく。
夏の倉庫は暑かった。
南埠頭へ続く古い荷馬車道の脇にある、潮で白くなった建物。
床には油染みがあり、窓は半分しか開かない。坊ちゃんは机の前で息を吐く練習をしている。
レオーネ・ベランディ。
ドンの息子。
それなのに、銃より水筒の方が重そうな顔をする少年。
テオより一つ年下なのに、時々、港の老人みたいな目をする。
その目が苦手だった。
「テオ」
マルコの声。
「はい」
「靴紐」
また緩んでいる。
切れた端を無理に結んだせいで、蝶みたいな輪が跳ねていた。
「元気ですね」
「靴屋へ行け」
「訓練中に?」
「午後の見張りまでに戻れ。盗むな」
言われる前から盗むつもりはなかった。
つもりは。
でも、言われて胸の奥が少し熱くなった。
マルコは、テオがどういう場所から来たかを知っている。
古靴の紐一本で、昼飯が一回減る場所。
減らしたくなければ、店先の箱から一本抜き取ればいい場所。
見つかれば殴られる。見つからなければ、靴は歩ける。
正しさは、腹が空いていない人間の言葉に聞こえる日がある。
昼の食堂では、豆煮込みが出た。
薄いが、熱い。
テオは椀を両手で抱えた。
隣の木箱に、昔の孤児仲間だったミーロが座っている。
今は荷運びの下働きだ。彼はテオの新しい上着を見て、口を曲げた。
「いい身分だな。ドンの坊ちゃんに拾われたら、豆も熱くなるのか」
「舌は熱い。懐は寒い」
「靴まで支給か」
「靴紐は死にました」
ミーロは笑わなかった。
「俺たちと同じ箱で寝てたくせに」
テオは椀の底を見た。
豆が三粒残っている。
昔なら一粒ずつ数えて食べた。
腹が減ると、時間も食べ物になる。
ゆっくり噛めば長く持つ気がする。
ベランディの扶助で母が役所の床から立てた日から、テオの家には時々、食券が来た。
助かった。
その紙を見るたび、母は泣きそうな顔をした。
助けられることは、頭を下げる場所が増えることでもある。
「拾われたんじゃない」
テオは言った。
「まだ見習いだ。落とされたら戻る」
「戻れると思ってるのか」
ミーロの声は刺さった。
戻る場所は、いつも同じ形では残らない。
誰かが寝床を取る。
誰かが仕事を奪う。
誰かが、あいつは上へ行ったくせに失敗して戻ってきたと笑う。
捨てられるのも怖い。
戻れないのも怖い。
「午後に見張りがある」
テオは椀を置いた。
「だから靴紐を買う」
「昼飯は」
「豆が腹で増えることを祈る」
今度は、ミーロが少し笑った。
古靴屋は市場の端にあった。
店主の老婆は、靴より客の足を先に見る。
「走り方が悪いね」
「靴紐を買いに来ただけです」
「靴紐だけ直しても、足が逃げたがっている」
港の老婆は、みんな人の内側を見る目を持っている。
テオは財布から銅貨を出した。
昼のパンを買うはずだった金だ。
紐は二種類あった。
安い麻紐。
少し高い革紐。
革紐なら長く持つ。だが、買えば夜まで腹が空く。
麻紐なら、また切れるかもしれない。
店先の箱には、半端な革紐が一本はみ出していた。
取れる。
誰も見ていない。
見ていない、と思った瞬間、老婆が言った。
「見ていない人間の前で何をするかで、靴は癖を覚える」
「靴が?」
「足が」
テオは舌打ちを飲み込んだ。
そして革紐を買った。
昼飯代は消えた。
老婆は包む時、短い麻紐を一本、脇へ入れた。
「おまけですか」
「売れ残りだよ」
「みんなそれ言いますね」
「言いやすい嘘は、優しさに見える」
老婆は片目を細めた。
「でも今回は、本当に売れ残りだ」
倉庫へ戻ると、マルコは何も聞かなかった。
ただ、テオの靴紐の結び目を見た。
「長い」
「足が成長する予定なので」
「余りは踏む」
マルコは膝をつき、結び目を解いた。
元兵士の指は太いのに、紐を扱う動きは細かい。
輪を小さくし、端を内側へ入れ、跳ねない形にする。
「饒舌な靴だ」
「俺の口よりうるさいですか」
「同じくらいです」
テオは少し傷ついた。
午後の訓練は、歩くことだった。
走らない。
急がない。
坊ちゃんの半歩後ろを歩く。
近すぎると邪魔になる。遠すぎると間に合わない。
横へ出れば目立つ。後ろへ下がれば置いていかれる。
護衛とは、強い男が前で威張る仕事だと思っていた。
違った。
靴音を小さくし、荷車の影を見て、坊ちゃんが立ち止まりそうな場所を先に知る仕事だった。
「若様は急に止まりますね」
休憩中に言うと、レオーネは申し訳なさそうな顔をした。
「考えていると」
「考える時は、足にも教えてください。俺の靴紐が先に死にます」
レオーネは少し笑った。
その笑いは、普通の十五歳に見えた。
夜の見張りは眠かった。
倉庫の外に立ち、荷馬車道を見る。夏の夜は魚と煙と潮の匂いが濃い。
遠くの酒場から歌が流れ、腹がそれに合わせて鳴った。
パンを抜いた報いだ。
眠気が来る。
軽口を言えば起きていられる気がした。
でも、マルコは横にいる。
沈黙。
テオは靴の中で足指を動かした。
革紐は切れない。
その代わり、結び目が少し硬く、甲に当たる。
自分で買った硬さだ。
路地の奥で、石を踏む音がした。
一つ。
止まる。
二つ。
近づかない。
酔っ払いなら歌う。荷役なら荷車が軋む。巡回なら靴音が揃う。
その足音は、どれでもなかった。
テオは喋りそうになった。
怖いから。
怖い時ほど、口が先に走る。
彼は息を吐いた。
「路地奥。足音一人。近づかず、止まっています」
それだけ言った。
マルコが頷いた。
「見ます。若様にはまだ言わない」
「はい」
結果は、雨宿りの男だった。
酔ってもおらず、敵でもなく、ただ道に迷った商人だった。
マルコが短く追い返した。
何も起きなかった。
でも、テオの胸は少しだけ熱かった。
何も起きないようにする仕事もある。
見張りが終わる頃、木箱の上に替えの靴紐が一本置かれていた。
黒い革紐。
マルコは何も言わない。
レオーネは知らない顔で水筒を差し出した。
「腹、鳴ってた」
「護衛の腹音です」
「目立つ」
「次から訓練します」
水は冷たかった。
テオは替えの紐を握った。
拾われたのではない。
まだ捨てられてもいない。
ただ、今日一日、靴紐を盗まずに買い、余計な武勇を言わず、足音だけを報告した。
それだけで正式な護衛になれるわけではない。
でも、自分の名前を残す場所は、たぶんこういう小さい結び目から始まる。
テオは紐を懐にしまった。
明日は切らない。
たぶん。
【人物紹介】
・テオ・リッチ
護衛見習い。軽口と空腹には強く、まだ靴紐には少し弱い。
マルコの稽古を受けながら、レオーネのそばで働いている。
とはいえ、まだまだ子供。
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