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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
2章 父の夜の顔

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第12話 劇場街の令嬢



夏の終わり、父は俺をアルコ・ルーチェへ連れていった。


劇場街の飾り門。


金と歌と、よく切れる舌が集まる場所。


五歳の祭りで父がそう言い、母に叱られたのを覚えている。


あの頃の俺は、劇場街をただ明るい飾り門の向こう側だと思っていた。


十五歳になった今は違う。


飾り門の金箔は、寄付の名を刻むためにある。


劇場の赤い絨毯は、誰が誰と同じ箱席に入るか見せるために敷かれている。


音楽会の招待状は、手紙ではなく地図だ。


どの席に誰を座らせるかで、街の力の線が見える。


俺はその線を見ようとしていた。


見ようとして、たぶん少し顔が固くなっていた。


「若様、今日は劇を見に来た顔をしてください」


テオが後ろで囁く。


「お前はどうなんだ」


「俺は完全に肉料理を見に来た顔です」


「招待会だぞ」


「だから期待してます」


マルコが咳払いをした。


テオは黙る。


父は黒い礼服で、普段より静かだった。


南埠頭で見る父は港の空気を背負っているが、劇場街ではその重さを薄い布で隠している。


隠しても、消えてはいない。


人々は父へ微笑む。


微笑みながら、距離を測る。


「ヴィットリオ殿」


最初に近づいてきたのは、白髪の紳士だった。


細身で、背筋が伸び、指には小さな宝石の指輪。


声は穏やかだが、周囲の会話が自然に遠のいた。


「アルベルト殿」


父が同じ温度で返す。


ドン・アルベルト・オルシーニ。


名前は知っていた。


劇場街の金融と興行、議会人脈を握る旧家。


ベランディとは何度も衝突し、何度も手を打ってきた相手。


敵。


でも、目の前の男は敵という言葉ほど単純ではなかった。


彼は父へ礼をし、母の診療所へ寄付を申し出た。


「祭礼の件、お見舞い申し上げる。奥方が無事で何よりでした」


「撃たれた男はまだ腕を吊っている」


父の声は柔らかい。


「見舞うなら、そちらへ」


アルベルトは眉一つ動かさなかった。


「もちろん。名を教えていただければ」


この人は冷たい。


でも、冷たいだけではない。


撃たれた男へ金を出すことは、父への貸しにもなる。


診療所への寄付は、慈善であり、評判作りであり、情報への扉にもなる。


守る面と、利用する面。


アルベルトの視線が俺へ移った。


「ご子息ですな」


「レオーネ」


父が短く紹介する。


「レオーネ・ベランディです」


俺は礼をした。


名字を名乗る。


昔、父は名前は扉にも鍵にもなると言った。

今夜は、鍵を見せる場なのだ。


アルベルトは微笑んだ。


「灰色の瞳が印象的だ。よく見ておられる」


褒め言葉にも、忠告にも聞こえる。


「見えるものだけです」


俺が答えると、アルベルトの笑みが少し深くなる。


「見えないものの方が高くつく」


その時、二階の貴賓席で拍手が起きた。


俺は顔を上げた。


赤いカーテンの横。


金茶の髪を結い上げた少女が立っていた。


白ではなく、深い緑のドレス。首元には真珠。


背筋はまっすぐで、周囲の大人たちに囲まれても少しも埋もれない。


彼女は微笑んでいた。


社交用の、角度まで計算された微笑み。


でも、目が合った瞬間、その微笑みの奥に見覚えのある光が揺れた。


ソフィ。


屋台の裏で三人の少年を言葉だけで追い払った少女。


鐘楼で干し杏を分けた少女。


嘘はつかない。ただし全部は言わない。


俺の胸が冷えた。


アルベルトが彼女へ手を向ける。


「娘のソフィアです」


ソフィア・オルシーニ。


その名が、俺の中でゆっくり落ちていく。


落ちる途中で、五歳の握手に当たった。


八歳の誕生日の夜、思い出したソフィとの契約に当たった。


何度も偶然のように会った路地、古本屋、鐘楼に当たった。


全部が別の意味を持ち始める。


俺は彼女の名字を知らなかった。


彼女も俺の名字を知らないふりをしていた。


いや、本当に知らなかった時期もあったのかもしれない。


いつから知っていた?


その問いが喉を焼いた。



音楽会が始まった。


俺は曲をほとんど覚えていない。


舞台では歌手が恋人を待つ歌を歌っていたらしい。


観客は涙ぐみ、父は静かに拍手し、アルベルトは議員らしき男と囁き合っていた。


俺は二階席を見ないようにしていた。


見ないようにしている時点で、ずっと見ているのと同じだった。


休憩時間、ソフィアは庭園へ出た。


俺も出た。


偶然ではない。


偶然のふりをする余裕もなかった。


劇場裏の庭園には、白い石像と低い噴水がある。


港の匂いは薄く、代わりに香水と湿った土の匂いがした。


ソフィアは噴水のそばに立っていた。


護衛は少し離れている。


マルコも、さらに離れている。


大人たちは、子供ではない俺たちに子供の距離を与えなかった。


「久しぶり」


彼女が先に言った。


声はソフィのままだった。


少し低くなり、言葉の刃が磨かれているだけで。


「どちらの名前で呼べばいい」


俺の声は思ったより冷たかった。


ソフィアは受け止めた。


「今夜はソフィア」


「今夜は」


「二人だけなら、あなたが選んで」


ずるい。


そう思った。


選ばせることで、責任をこちらへ渡してくる。


でも、それは彼女の武器だ。言葉と契約。昔からそうだった。


「いつから知ってた」


「あなたがベランディだと?」


俺は頷く。


ソフィアは噴水の水面を見た。


「最初の日は知らなかった。二度目には疑った。三度目には、たぶん知っていた」


「言わなかった」


「あなたも言わなかった」


胸が痛む。


その通りだからだ。


俺は父に教えられた通り、名字を隠した。


名前は扉にも鍵にもなるから。

大人が子供の友達にも家名を着せるから。


彼女も同じことをした。


それを裏切りと呼べば、自分も同じ場所に立つ。


「オルシーニだと知っていたら、俺は会わなかった」


「でしょうね」


ソフィアはすぐ言った。


「私も、ベランディだと最初から知っていたら、近づく前に誰かに止められた」


「だから黙っていた?」


「黙っていた。会いたかったから」


その答えは、政治よりひどかった。


胸の柔らかい場所を狙ってくる。


「俺を利用した?」


「した面はある」


ソフィアは逃げなかった。


「あなたから港の話を聞いた。ベランディの子が何を知らされていないかも見えた。それを家の中で役立てたことが一度もないとは言わない」


息が詰まる。


「でも、全部ではない」


「それで許せと?」


「許せとは言わない」


彼女は俺を見る。


金茶の睫毛の下、目は昔より強い。


「理解してほしいとも言わない。私もあなたを理解し切れない。

あなたが時々、年寄りみたいに死を見ている理由を知らない」


心臓が跳ねた。


「ただ、嘘はつかなかった」


「全部は言わなかった」


「そう。昔の契約通り」


俺は笑いそうになった。


笑えなかった。


軽い罰なら続く、と彼女は五歳の時に言った。


次の菓子を相手に選ばせる程度の罰。


でも、今夜の隠し事は菓子では済まない。


彼女の家は、俺の家を傷つけられる。

俺の家も、彼女の家を傷つけてきた。


アルベルトは虐殺を好む男ではないと父は言う。


制度で締め、金融で縛り、議会で追い込む。


血を流さない顔をして、人の生活を折ることができる男。


父は血を流す。


アルベルトは紙で流させる。


どちらが善いか、俺には決められない。


被害者にとっては、どちらも痛い。


「君の父は」


俺は言った。


「祭りの件に関わっているのか」


ソフィアの顔から、社交の微笑みが消えた。


「知る限り、ない」


「全部知っているのか」


「いいえ」


正直だ。


だから困る。


「父はベランディを古い力だと思っている。

削れるなら削る。利用できるなら利用する。

あなたのお父様も、オルシーニの人間を善良な隣人とは思っていないでしょう」


「それは」


「でも、広場で診療所を撃たせる人ではない」


彼女は言い切った。


信じたい。


信じたくない。


信じれば、父への裏切りになる気がした。信じなければ、五歳の鐘楼が壊れる気がした。


「証拠は」


「今はない」


「なら」


「だから、信じろとは言わない」


ソフィアは一歩近づいた。


護衛たちがわずかに動く。


俺たちはそれぞれ、自分の家の影を背負っている。


「ただ、レオーネ。敵になるなら、せめて正確に敵になって」


「どういう意味」


「私の父がしたことを憎んで。していないことまで積んで憎むと、本当にされたことが見えなくなる」


その言葉は、正しい。


正しいから腹が立った。


「君はいつも、正しい言い方をする」


「正しい言い方をしないと、聞いてもらえない家に生まれたの」


初めて、彼女の声に疲れが滲んだ。


オルシーニの令嬢。


それは強い札だ。


同時に、彼女を父の道具に見せる札でもある。


彼女は札を武器にしながら、札だけで終わらないように立っている。


俺がベランディの息子であることから逃げられないように。


音楽が再開を告げた。


庭園の入口で、父がこちらを見ている。アルベルトも、少し離れた場所で微笑んでいる。


大人たちは俺たちを自由に見せながら、会話の値段を計算している。


ソフィアは俺へ手を差し出さなかった。


昔なら握手した。


今は、握れば意味が重すぎる。


「全部は言わない」


彼女は静かに言った。


「でも、嘘はつかなかった」


昔の契約を返された。


俺は返事をしなかった。


できなかった。


劇場へ戻る足元で、白い石が靴音を硬く返す。


ソフィではなく、ソフィア。


友達ではなく、敵の令嬢。


それでも、彼女が干し杏を三つ数えた指の動きを、俺はまだ覚えていた。


【人物紹介】

・ソフィア・オルシーニ

幼い頃、レオーネが「ソフィ」と呼んだ少女。

そして、劇場街を支配するオルシーニ家の娘。

約束は生きている。


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