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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第2部 4章 次の手に渡る鍵

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第72-1話 マルコの引退届



マルコの引退届は、一行だった。


-右膝が、若頭の歩幅についていきません。



三十一歳の冬。


俺は紙を三度読んだ。


「歩幅を遅くする」


「敵も遅く歩いてくれますか」


「護衛を二人にする」


「私は一人分の給金を受け取っています」


「役職を変える。訓練係なら座れる」


「それは引退を認めた後の話です」


逃げ道を先に塞がれた。


マルコは父の護衛。

俺の教育係。


彼が立っていることを、安全そのものだと思っていた。


その安全にも、年齢がある。


「いつから痛かった」


「二年前」


「なぜ言わなかった」


「言えば、あなたは歩幅を遅くした」


腹が立った。


彼の身体の限界まで、俺のために使うつもりだったことにも腹が立った。


「昨日の階段か」


マルコの目が少し動く。



引退届の前日、市役所で鉄道の保守会議があった。


帰りの階段で、酔った男が俺へ近づいた。


武器はない。


請願書を渡したかっただけだ。


マルコは間へ入ろうとし、右膝が遅れた。


テオが先に男の腕を取った。


何も起きなかった。


だから報告書にも、短い一行しかない。


-接近者一名。武器なし。請願目的。


マルコにとっては、自分が一歩遅れた記録だった。


「一度だ」


俺は言った。


「昨日は」


「ほかにも?」


「劇場で二度。駅で一度。若頭は気づかなかった」


気づかないことまで含めて、護衛に守られていた。


「引退を認める」


明日も会える。


ただ、同じ場所には立たない。


「最後の護衛は、いつにする」


「今日まで」


「もう終わったのか」


「まだ夕方の工房視察があります」


「膝は」


「最後まで歩けます」


止めたくなった。


だが本人が終わりを選ぶ一日まで取り上げれば、引退を認めたことにならない。



夕方、工房へ歩いた。


俺はいつもの速度。


マルコは半歩後ろ。


テオがさらに後ろにいる。


最初の角で、荷車が道を塞いだ。


マルコは車輪と御者の手を見る。


事故か、意図した遮蔽物か。


テオは屋根を見る。


俺は、二人が違う場所を見ていることに初めて気づいた。


次の通りで子供が飛び出す。


マルコは身体を入れない。


テオへ顎で合図する。


テオが子供を止める。


護衛を譲る訓練は、もう始まっていた。


工房で、マルコはいつもの位置へ立った。


会議中、右膝が少し震えている。


椅子を勧めなかった。


彼が最後まで立つと決めたから。


帰路、雨が降った。


石畳が滑る。


屋敷の門まで十歩。


マルコの足が止まる。


痛みで、右脚が前へ出ない。


俺は振り返らない。


テオが左側へ立ち、外套の陰で肘を貸した。


人からは見えない。


マルコは一度拒み、それから掴んだ。


門をくぐる。


「護衛終了です」


彼は言った。


門番室で、マルコは腰の鍵束を外した。


屋敷正門。

裏門。

俺の執務室。

非常階段。


父の代から使っていた細い鉄の鍵だけ、どの扉にも合わなかった。


「これは」


「旧屋敷の隠し戸です。襲撃の後、戸ごと焼けました」


「捨てなかったのか」


「返す相手がいませんでした」


父から預かり、父へ返せないまま持っていた鍵。


マルコはほかの鍵と同じ輪へ置こうとした。


俺は止めた。


「それは持っていて」


「もう開ける戸はありません」


「だから、あなたの物にしていい」


マルコは鍵を掌へ戻した。すぐ懐へ入れず、しばらくその錆びた歯を見ていた。


次に短銃。

弾薬。

護衛用の黒い手袋。


一本ずつ、門番とテオが番号を確認する。


手袋だけは番号がない。右の掌が薄くなり、人差し指の付け根へ父の時代の縫い直しがあった。


「それも返す?」


「支給品です」


「訓練係には要る」


「まだ考えると答えました」


「預ける」


マルコは俺を見た。


命令にすれば受け取る。頼めば断るかもしれない。


どちらにもせず、手袋を机の端へ置いた。


「明日の朝まで、ここに置く」


「一晩で決めろと」


「嫌なら、そのままにしてくれ」



翌朝、手袋はなかった。


俺は向き直り、頭を下げた。


若頭が護衛へ頭を下げるな、と古参なら言う。


その場には三人しかいない。


「ありがとうございました」


「仕事です」


「終わった仕事には、礼を言える」


マルコは困った顔をした。


礼を受け取る訓練はしていなかったらしい。


「後任はテオか」


「本人と相談する」


「では、相談する前に一つ。護衛の長を、一番近くへ立つ者にしないでください」


「なぜ」


「一人が全部を守る形を、あなたも終わらせたでしょう」


歩幅を見る者。

先回りする者。

退路を見る者。

交渉席の外を守る者。


四人で一人分の死角を埋める。


テオをその班の長にする。


マルコには四人を育ててもらう。


「引退した人間へ、すぐ仕事を出すのですか」


「嫌なら断れ」


彼は少し笑った。


「考えます」



俺の後ろにはテオが立った。


マルコは訓練場の椅子に座り、新人の足運びを杖で直している。


右膝へ厚い毛布。


ソフィアが用意したものだ。


「歩幅はどうです」


テオが聞く。


「速すぎる」


「誰の」


「俺のだ」


一歩を少し短くした。


マルコのためではない。


後ろの四人が、無理なく同じ速度で歩けるように。


後ろを振り返ると、マルコはもうこちらを見ていなかった。


新人の靴先を、杖で叩いていた。


【人物紹介】

・マルコ

ヴィットリオの代から仕え、レオーネの護衛と教育係を務めた古参。

右膝の衰えを理由に現役を退き、いまは椅子に座って新人を教える。

危険にはよく気がつくが、礼を言われるのが少し苦手。


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