第72-1話 マルコの引退届
マルコの引退届は、一行だった。
-右膝が、若頭の歩幅についていきません。
三十一歳の冬。
俺は紙を三度読んだ。
「歩幅を遅くする」
「敵も遅く歩いてくれますか」
「護衛を二人にする」
「私は一人分の給金を受け取っています」
「役職を変える。訓練係なら座れる」
「それは引退を認めた後の話です」
逃げ道を先に塞がれた。
マルコは父の護衛。
俺の教育係。
彼が立っていることを、安全そのものだと思っていた。
その安全にも、年齢がある。
「いつから痛かった」
「二年前」
「なぜ言わなかった」
「言えば、あなたは歩幅を遅くした」
腹が立った。
彼の身体の限界まで、俺のために使うつもりだったことにも腹が立った。
「昨日の階段か」
マルコの目が少し動く。
引退届の前日、市役所で鉄道の保守会議があった。
帰りの階段で、酔った男が俺へ近づいた。
武器はない。
請願書を渡したかっただけだ。
マルコは間へ入ろうとし、右膝が遅れた。
テオが先に男の腕を取った。
何も起きなかった。
だから報告書にも、短い一行しかない。
-接近者一名。武器なし。請願目的。
マルコにとっては、自分が一歩遅れた記録だった。
「一度だ」
俺は言った。
「昨日は」
「ほかにも?」
「劇場で二度。駅で一度。若頭は気づかなかった」
気づかないことまで含めて、護衛に守られていた。
「引退を認める」
明日も会える。
ただ、同じ場所には立たない。
「最後の護衛は、いつにする」
「今日まで」
「もう終わったのか」
「まだ夕方の工房視察があります」
「膝は」
「最後まで歩けます」
止めたくなった。
だが本人が終わりを選ぶ一日まで取り上げれば、引退を認めたことにならない。
夕方、工房へ歩いた。
俺はいつもの速度。
マルコは半歩後ろ。
テオがさらに後ろにいる。
最初の角で、荷車が道を塞いだ。
マルコは車輪と御者の手を見る。
事故か、意図した遮蔽物か。
テオは屋根を見る。
俺は、二人が違う場所を見ていることに初めて気づいた。
次の通りで子供が飛び出す。
マルコは身体を入れない。
テオへ顎で合図する。
テオが子供を止める。
護衛を譲る訓練は、もう始まっていた。
工房で、マルコはいつもの位置へ立った。
会議中、右膝が少し震えている。
椅子を勧めなかった。
彼が最後まで立つと決めたから。
帰路、雨が降った。
石畳が滑る。
屋敷の門まで十歩。
マルコの足が止まる。
痛みで、右脚が前へ出ない。
俺は振り返らない。
テオが左側へ立ち、外套の陰で肘を貸した。
人からは見えない。
マルコは一度拒み、それから掴んだ。
門をくぐる。
「護衛終了です」
彼は言った。
門番室で、マルコは腰の鍵束を外した。
屋敷正門。
裏門。
俺の執務室。
非常階段。
父の代から使っていた細い鉄の鍵だけ、どの扉にも合わなかった。
「これは」
「旧屋敷の隠し戸です。襲撃の後、戸ごと焼けました」
「捨てなかったのか」
「返す相手がいませんでした」
父から預かり、父へ返せないまま持っていた鍵。
マルコはほかの鍵と同じ輪へ置こうとした。
俺は止めた。
「それは持っていて」
「もう開ける戸はありません」
「だから、あなたの物にしていい」
マルコは鍵を掌へ戻した。すぐ懐へ入れず、しばらくその錆びた歯を見ていた。
次に短銃。
弾薬。
護衛用の黒い手袋。
一本ずつ、門番とテオが番号を確認する。
手袋だけは番号がない。右の掌が薄くなり、人差し指の付け根へ父の時代の縫い直しがあった。
「それも返す?」
「支給品です」
「訓練係には要る」
「まだ考えると答えました」
「預ける」
マルコは俺を見た。
命令にすれば受け取る。頼めば断るかもしれない。
どちらにもせず、手袋を机の端へ置いた。
「明日の朝まで、ここに置く」
「一晩で決めろと」
「嫌なら、そのままにしてくれ」
翌朝、手袋はなかった。
俺は向き直り、頭を下げた。
若頭が護衛へ頭を下げるな、と古参なら言う。
その場には三人しかいない。
「ありがとうございました」
「仕事です」
「終わった仕事には、礼を言える」
マルコは困った顔をした。
礼を受け取る訓練はしていなかったらしい。
「後任はテオか」
「本人と相談する」
「では、相談する前に一つ。護衛の長を、一番近くへ立つ者にしないでください」
「なぜ」
「一人が全部を守る形を、あなたも終わらせたでしょう」
歩幅を見る者。
先回りする者。
退路を見る者。
交渉席の外を守る者。
四人で一人分の死角を埋める。
テオをその班の長にする。
マルコには四人を育ててもらう。
「引退した人間へ、すぐ仕事を出すのですか」
「嫌なら断れ」
彼は少し笑った。
「考えます」
俺の後ろにはテオが立った。
マルコは訓練場の椅子に座り、新人の足運びを杖で直している。
右膝へ厚い毛布。
ソフィアが用意したものだ。
「歩幅はどうです」
テオが聞く。
「速すぎる」
「誰の」
「俺のだ」
一歩を少し短くした。
マルコのためではない。
後ろの四人が、無理なく同じ速度で歩けるように。
後ろを振り返ると、マルコはもうこちらを見ていなかった。
新人の靴先を、杖で叩いていた。
【人物紹介】
・マルコ
ヴィットリオの代から仕え、レオーネの護衛と教育係を務めた古参。
右膝の衰えを理由に現役を退き、いまは椅子に座って新人を教える。
危険にはよく気がつくが、礼を言われるのが少し苦手。
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