第67話 拳を使わない街
信用札を出してから、返済の遅れは増えた。
借りられる者が増えれば、返せない者も増える。
当然のことだが、古参には気に入らない。
「舐められている」
徴収班長が言った。
「一人、店先で殴れば残りは払う」
「その一人が払えない理由は調べたか」
「理由を聞くのは司祭だ」
「金を回収するなら、金の行方を聞け」
延滞者は三十二人。
同じ遅れでも、中身は違った。
最初の仕立屋は、娘の熱病で仕入れ金を使っていた。
寝台の横に、未完成の礼服が三着ある。
「来週には払う」
「何で」
「この礼服が売れれば」
「仕上げる糸は」
「買えない」
返す意思はある。
返すための仕事を完成させる金がない。
さらに貸せば、借金は増える。
貸さなければ、今の借金も返らない。
俺たちは糸を現金で渡さず、仕入れ店へ直接払った。
礼服の代金は、客から信用庫へ入る。
娘の治療費分は二か月止める。
「店を取らないのか」
仕立屋が聞く。
「空の店を取って、誰が礼服を縫う」
二軒目の果物商は、帳簿を二重にしていた。
表では赤字。
裏では売上がある。
金は別の高利貸しへ流れ、賭博の借金を返していた。
「家の借金じゃない」
果物商は言う。
「俺個人のものだ」
「店の売上を使った」
「店は俺のだ」
「仕入れの保証は、うちがしている」
果物を全部奪えば、翌日腐る。
本人を殴れば、賭博の借金は消えない。
金庫を共同管理にした。
本人の取り分を半年減らす。
賭場へ入場禁止を通知。
妻には帳簿を見る権利を渡す。
「女房を俺の上に置くのか」
「店を守る者を、金庫の隣へ置く」
彼は怒った。
しかしその妻が裏から出てくると、途端に言葉を止めた。
そして、三か月後には売上が戻った。
妻が夫を許したかは知らない。
金が返ることと、夫婦が戻ることは別だった。
三軒目は、払えるのに払わなかった。
商人は新しい上着を着ていた。
倉庫には仕入れた油が積まれている。
「ベランディは、もう人を殴らないから」
笑う。
俺は商品を奪わなかった。
信用札を壁から外した。
仕入れ先五軒へ、三十日後払いの保証を終えると通知した。
「脅しじゃないか」
「殴らないとは言った。取り立てないとは言っていない」
「商売が止まる」
「金を払えば、札を戻す審査をする」
翌朝、全額を持ってきた。
思っていたよりは誠意を感じたが、札はすぐ戻さない。
一度、払えるのに払わなかった記録を、三か月見る。
札を剥がせば、拳より静かに店を止められる。
会議の結果、一月は札を戻さないことになった。
信用札がないその期間、売り上げは落ち込んだが、店主はそれを受け入れ、誠実に働いた。
こうして対処を続けた結果、三十二人のうち、二十六人からは金が戻った。
四人は金がなく、返済計画という形に。
一人は夜逃げ、保証人二人が穴を埋めた。
一人は店を畳んだ。
それは「もうこれ以上は」という老女。
特例として、残った布を相場で買い、借金との差額を免除した。
徴収班長は買い取った布を一枚持ち上げた。
「甘い」
「死ぬまで追えば、何が戻る」
「恐れだ」
「恐れは帳簿に入金できない」
「でも、次の奴が払う」
「払えない者まで隠れる」
時間は去年の四倍かかった。
それでも回収額は少し増え、払えない者が夜逃げの前に帳簿を持って来るようになった。
徴収班長は拳を使わなかった代わりに、三十二冊の帳簿へ親指の黒い跡を残した。
港の夏祭りで銃声が鳴ったのは、十五年ぶりだった。
俺が十五歳の時、父の夜の顔を知った祭礼。
同じ通り。
同じ鐘楼。
音を聞いた瞬間、身体が昔へ戻る。
肩が固まり、右手が指輪へ触れた。
テオはもう動いている。
護衛班が四方を塞ぐ。
「若頭を内側へ!」
人波が崩れた。
屋台が倒れ、子供が泣く。
二発目はない。
銃煙も見えない。
「音は西!」
アンナが叫ぶ。
ジャコモは西へ走らなかった。
十五歳の彼なら、音の方へ向かった。
いまは逆へ走る。
逃げる群衆の先で、細い路地が詰まっている。
「押すな! 北門も開いてる!」
荷車へ上り、声を張る。
ミーロが配置表どおり、北側の柵を外す。
パオロは転んだ老人を壁際へ運ぶ。
護衛の仕事は、撃った者だけを見ることではない。
銃声一つで押し潰される者を減らす。
俺はテオに囲まれ、石造りの店へ入った。
「外へ出る」
「駄目だ」
「状況を」
「俺が見ます」
以前なら、彼と押し問答した。
いまは護衛班長の判断に従う。
窓から通りを見る。
母親が、子供の名を叫んでいる。
「ルイ! ルイ!」
七歳の男児。
銃声の直前まで、木の船を持っていた。
ジャコモが特徴を聞き、伝令へ回す。
群衆整理と銃撃犯捜索の間に、迷子一人を入れる。
人手は同じ。
「後だ」と言えば、子供は人波の中でさらに遠くなる。
セレステが祭礼出店の配置図を持ってきた。
木の船を売る屋台は三つ。
一つは鐘楼前。
一つは北門。
一つは西の水路。
子供は銃声から逃げる時、知っている物へ向かうことがある。
三手に分かれた。
銃声の正体は、二十分で分かった。
西の大道芸人。
火薬を使う紙筒が湿り、遅れて破裂した。
武器ではない。
許可票には『無火薬』と申請している。
客を驚かせるため、規則を破った。
「撃った者はいません」
テオが戻る。
「負傷者は」
「転倒で九人。重傷なし。迷子が一人」
保護を解く。
俺は母親のところへ行った。
「捜しています」
「灰冠なら、すぐ見つけて!」
街で最大の家。
人を何百人も動かせる。
それでも子供一人の居場所を、すぐには作れない。
「特徴をもう一度」
「青い上着。木の船。右の靴紐が白」
右だけ白。
左は切れて、別の紐を使っている。
テオが一瞬止まる。
幼い頃、靴紐を結べなかった自分を思い出したらしい。
三十分後、鐘楼裏で子供を見つけた。
逃げたのではない。
倒れた露店の下に、木の船が入った。
拾おうとして、板の隙間へ挟まっていた。
アンナが板を上げ、ジャコモが子供を引き出す。
擦り傷だけ。
母親は抱きしめ、次に頬を叩いた。
「どうして返事しなかったの!」
「船が」
子供は泣く。
助かった喜びと、失う恐怖から出た怒り。
誰も母親を責めなかった。
大道芸人には、営業停止一月。
転倒した九人の治療費。
壊れた屋台の補償。
祭礼委員会へ、火薬保管場所を申告する。
「銃じゃないのに」
「群衆には、音の違いが分からない」
「一発で、ここまで?」
「一発だから、皆が次を待った。流れ者にはこの音の意味の実感がない。」
芸人は不服そうにしつつも、「悪かったよ」と言った。
祭礼は夕方に再開した。
止めたままにすれば、恐怖が最後の記憶になる。
迷子のルイは、木の船を直してもらった。
ジャコモが新しい帆を付ける。
ルイは直した船を水路へ浮かべた。
新しい帆だけが白い。
俺の耳には、子供たちが船を追う声が残った。
祭礼の翌週、パン屋を相続した兄弟が話を持ってきた。
兄は売りたい。
弟は残したい。
父親が死に、店と借金を半分ずつ相続した。
建物は一つ。
窯も一つ。
半分に切れない。
「裁判所なら、競売になります」
弁護士が言う。
売った金で借金を返し、残りを二人で分ける。
法としては明快。
弟は職場を失う。
兄は店へ戻りたくない。
「ベランディなら、店を残せると聞いた」
弟が言う。
俺たちの仲裁席へ来た理由だった。
「残すと約束はしない」
「街を守る家だろ」
「兄の持分を奪ってまで?」
弟が黙る。
兄には別の事情があった。
幼い頃、窯の前で父に殴られた。
店へ入りたくないと強く思っている。
それでも持分を無償で弟へ渡せと言われれば、父から受けたものまで弟に否定された気がする。
「兄さんはここで働いてない」
「お前は、出ていかなかった」
「出ていけなかったんだ」
「俺が逃げたって言いたいのか」
同じ父に殴られた二人が、自分の残り方だけを正しいと思おうとしている。
理解し合え、と言っても役に立たない。
互いの記憶は同じにならない。
必要なのは、同じでないまま店を分ける方法だった。
店の営業権と建物を分けた。
建物は兄弟共有。
弟が五年間借り、家賃の半分を兄へ払う。
営業利益から父の借金を返す。
五年後、弟は兄の建物持分を、今日決めた価格で買える。
買えなければ、その時に売る。
兄は店へ入らなくていい。
弟は今すぐ出なくていい。
「五年後まで、兄さんに縛られる」
弟は不満を言った。
「俺も、五年後までこいつのパンが売れるかに縛られる」
兄も言った。
どちらも、署名するまで一度も相手を見なかった。
署名前、兄が聞く。
「あんたの取り分は」
「仲裁料、定額十リラ」
「店を取らない?」
「返済が止まれば、信用庫が担保権を使う」
「結局、取れる」
「取れる権利と、取るかは別だ」
二人は署名した。
一年目、弟は家賃を二度遅らせた。
兄はすぐ店を売れと言った。
仲裁記録を開き、遅延二回では解除できない条項を確認する。
弟は遅延金を払った。
二年目、兄は一度だけ店の前まで来た。
中へは入らない。
弟が焼いたパンを、外で一つ受け取った。
和解したとは記録しない。
翌月も、家賃は通常どおり払われた。
三年目にも、同じ仲裁記録は机へ持ち込まれた。
紙の端にはパンの粉が付いていたが、破れてはいなかった。
兄弟が選んだのは、仲直りではなく五年分の契約だった。
最初の家賃は決めた日に払われ、弟は翌朝も窯へ火を入れた。
仲裁記録は、次の支払日を書く余白を残して閉じられた。
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