第61話 帰ってきた母の席
港へ戻った翌朝、俺は一か月空けていた椅子に座った。
座面に埃はない。背もたれの傷だけが増えている。
工房の壁には、俺たちが王都から送った電報と、海の向こうから届いた電報が並んでいた。
母の生存を知らせる紙。その下には、欠けた石を返送するという紙。
俺たちが母を見つけている間に、留守番の六人は、壊れた物を戻してもらえる家を作っていた。
「誰が第八型を止めた」
報告会で聞く。
六人全員が一歩ずつ後ろへ下がった。
真ん中に残ったのはテオだった。
「卑怯だぞ、お前ら」
「多数決です」
ルカが答える。
「今のは違うだろ」
「六対一でした」
「俺の一票はいつ入れた」
笑いが起きる。
以前の会議なら、俺が笑えば皆が笑った。
いまは、俺が何も言う前に笑っている。
報告の一番上には、海を渡った第十型ではなく、宿の娘の火傷があった。
「回収が半日遅れました」
テオが火傷の記録を出した。
「娘は治療中。痕が残る可能性は低い。
ただし、まだ分からない。宿は補償を受領。許したとは言ってない」
「誰が回収を決めた」
「六人」
「誰が優先順位を決めた」
「俺とブルーノ。ルカが費用を付けた」
「次は、何を変える」
「製造日じゃなく、使用回数で交換期限を出す。扉の重さと一日の開閉回数も聞く」
テオは空席を見なかった。
自分が決めた言葉で答えている。
「よくやった」
「火傷を出した」
「聞いた」
「半日遅かった」
「それも聞いた」
「だったら、よくはない」
「失敗を持って帰った。隠さず、次の期限に変えた。そこまで含めて言っている」
俺が戻った途端に答えを取り上げれば、六人はまた俺の顔だけを見るようになる。
「処分は?」
ブルーノが聞いた。
「ない」
「誰も?」
「回収手順の不足を、一人の失敗にしない。娘への補償と、改善が終わるまでが処分だ」
会議室の扉が開いた。
母がリーナと入ってくる。
一日二時間。
週三日。
相談役。
初日の仕事は、製品事故の報告を聞くことだった。
古参の一人が立ち、中央の椅子を引いた。
母はそこへ座らない。
壁際に用意した、肘置きの長い椅子へ座った。
「続けて」
エヴァが魔晶石の分類表を説明する。
熱、振動、圧力。
主反応と副反応。
湿度、向き、疲労。
母は途中で二度、質問した。
「同じ産地なら、同じ性質ではないの?」
「違います。近い傾向はあります」
「疲れた石は休ませれば戻る?」
「一部は。亀裂は戻りません」
説明が終わる。
「難しいわね」
「分かりますか」
「半分も」
「ただ、薬に似ている。誰にでも効くものは、たいてい誰にも正しく効かない」
エヴァが、その一文だけ分類表の端へ書いた。
「格言にしないで」
母がすぐ言った。
「私も、正しくない量を使おうとしたから」
エヴァは消さなかった。
その下へ、山の産屋の記録番号を書いた。
母には、工房の役職を与えなかった。
診療所でも、所長へは戻さない。
初週、古い患者が三人、母を指名した。
一人は古い診察券を胸に抱えた。
「エミリア先生にしか診てもらわない」
母の顔に、嬉しさが出た。
リーナは断った。
「エミリアさんは相談役です。主治医は私です」
「本人がいるじゃないか」
「いることと、責任を持てることは同じではありません」
患者は怒って帰ろうとした。
母が呼び止める。
「私が診ても、最後はリーナ先生に確認してもらいます。それで嫌なら、別の医院を紹介します」
患者は不満そうに座り直した。
診察中、母は薬の名を一つ取り違えた。
リーナが止める。
患者の前で訂正した。
母は頬を赤くした。
それでも、間違いを別室へ隠さなかった。
診察後、母は自分の椅子へ戻った。
「役に立てないわね」
「一つ間違えました」
リーナが答える。
「私が間違いを止めました。
患者は正しい薬を受け取った。
相談役としては、次に同じ名を取り違えないよう札を作ってください」
母は翌日から、似た名の薬へ色違いの札を結んだ。
母は薬棚へ色札を付けた。
午後二時になると、リーナが時計を置く。
「終わりです」
「もう一人だけ」
「終わりです」
「待っている人が」
「別の医師が診ます」
母は椅子から立たなかった。
納得したわけではない。
止められることを受け入れただけだ。
帰り際、ニコが作った椅子の肘置きを撫でる。
「ちょうどいい」
俺は、母が以前使っていた診察室を思い出した。
「昔の椅子は残っていません」
「残っていたら困るわ。あれは働きすぎる人の椅子だったもの」
母の席が一つ増えた。
工房の会議では、俺も長机の端へ移った。
中央の椅子は片づけない。ただ、次の報告書を置く台になった。
母が最初の往診へ出たのは、帰港から八か月後だった。
患者はアンドレア。
母が火事の夜に残し、右脚を悪くした男だ。
彼自身が日付を決めた。
場所は北埠頭の施療宿。
診療所へ来なかったのは、母を自分の場所へ呼び戻すためだという。
「同行は私です」
リーナが告げた。
「俺も行く」
「家族は呼ばれていません」
「護衛として」
「マルコさんがいます」
「記録係」
「私が取ります」
逃げ道を全部塞がれた。
母を見る。
「一緒に来てほしい?」
母は少し考えた。
「来てほしい。でも、来ない方がいい」
二つを同時に言った。
俺がいれば、アンドレアは母へ言う言葉を選ぶ。
母も、息子の前で正しい顔をしようとする。
「分かりました」
俺は残った。
待つ時間は、捜索より苦手だった。
会議を二つ入れた。
工房を一周した。
同じ報告書を三度読んだ。
午後二時、母たちが戻った。
診療時間は一時間の予定だった。
三時間掛かっている。
「何があった」
「診療は一時間です」
リーナが答える。
「残り二時間は?」
「話です」
「何を」
母が外套を脱ぐ。
右手の震えが強い。
疲れている。
「あなたに話すかは、アンドレアに確認していない」
母の失敗について、息子だから知る権利があると思いかけた。
ない。
アンドレアの話は、アンドレアのものだ。
「診療結果だけは?」
「本人が、あなたへ伝えてよいと言った部分だけ」
感染で固まった関節は戻らない。
左右で違う靴底が腰へ負担を掛けている。
新しい装具と、痛み止めを処方した。
痛み止めは、母が書いた処方をリーナが半量へ直した。
「また量を間違えた?」
「いいえ」
リーナが首を振る。
「昔の標準量でした。いま使っている薬は濃度が違う」
十年で医学も変わった。
母の知識は、止まった場所から自動では追いつかない。
「訂正されて、どう思った」
俺は母へ聞いた。
「恥ずかしかった」
正直な答え。
「腹は」
「少し立った。患者の前だったから」
「俺なら、別室で言えと言う」
「だから、患者の前で直す必要があったのね」
自分の誇りのために、訂正を隠さない。
母は一度、部屋へ戻った。
夕食前、また出てくる。
手に小さな封筒。
「アンドレアから」
俺宛てだった。
中には、補償申請書。
駅で再会した日に渡したものだ。
署名がある。
希望する補償の欄へ、治療費、装具代、失った就労分。
その下へ一行。
-エミリア本人の労働で返せる分は、北施療宿の患者へ使うこと。
「母を働かせるのか」
「私が申し出た」
「一日二時間の中で?」
「月に一度、北施療宿へ。診療はリーナが最終確認する」
アンドレアへ直接返すのではない。
彼が選んだ場所の患者へ、母の時間を使う。
母は補償申請書の一番下へ、最初の往診日を書いた。
「受けるのか」
「受けたい」
「止めない」
母の顔が少し緩む。
「ただし、疲れた日も行くという意味ではない。
休んだ分は翌月へ延ばす。
あなたが倒れて返す形は認めない」
「分かりました」
二十五歳の終わりから、二十七歳になるまで。
母は月に一度、北施療宿へ通った。
行けない月が三回あった。
アンドレアは、そのたび予定表へ『未払い』ではなく『繰越』と書いた。
二人は親しくならなかった。
診療後に茶を飲む月もあれば、必要な言葉だけで終わる月もある。
一年目の冬、装具が完成した。
アンドレアの歩き方は少し変わった。
脚は治らない。
痛みがなくなるわけでもない。
それでも、港の坂を休まず一つ上れるようになった。
二年目の予定表にも、北施療宿の欄があった。
行けなかった三月分には、アンドレアの字で『繰越』と書かれている。
母はその文字を消さず、次の月の欄へ丸を付けた。
母の椅子には、ニコが作った長い肘置き。
二時になれば、リーナが時計を置く。
もう一人だけ、と言いたくなる日はまだある。
帰り際に肘置きを撫でる手は、ちょうどいい長さを覚えた。
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