第60.5話 港を渡る第十型
第十型の最初の大口注文は、海の向こうから来た。
俺は酒商人か軍だと思った。
どちらでもなかった。
弦楽器を扱う商人だった。
名をモリス。
黒い帽子に、雨でもないのに革手袋をしている。
工房へ持ち込んだ小型の弦楽器は、胴の横に髪の毛ほどの亀裂があった。
「船で十二日だ」
彼は亀裂を指でなぞる。
「出発前にはなかった。藁を増やせば湿気がこもる。
箱を厚くすれば重くなり、運賃が上がる。
荷役人へ静かに置けと言っても、港が変われば通じない」
「石を箱の四隅へ入れてほしい、と」
マルタが注文書を読む。
「荷車で皿が割れなかったんだろう。船でも同じだ」
「同じではありません」
ニコが即答した。
「売りたくないのか」
「壊れる売り方をしたくない」
荷車の振動は、石畳の継ぎ目から来る。
短く、細かい。
船の揺れは、波と船体から来る。
低く、長い。
俺にはどちらも揺れだが、第十型には別物らしい。
第十型の黒い石は、細かな振動を枝分かれした筋へ散らす。
船全体を持ち上げるような揺れを受ければ、石が先に割れる。
「では使えない?」
「使える場所を探す」
ニコは楽器を箱から出した。
胴を指先で軽く叩く。
木の響きを聞く。
首の付け根。
胴の最も膨らんだ部分。
弦を固定する端。
壊れやすい場所は、箱の四隅ではない。
楽器と箱が触れる場所だった。
最初の試作は、底全体へ第十型を敷いた。
大きな木箱の中へ楽器を固定し、荷役台から十回下ろす。
楽器は無事。
石が三枚割れた。
破片が箱の中で跳ね、胴へ新しい傷を付けた。
「失敗一号」
エヴァが記録する。
「楽器を守る石が、楽器を傷つけました」
ニコは楽器の胴へ付いた新しい傷を指でこすった。
「言い方が厳しい」
「結果が厳しいの」
二号は、石を小箱へ入れた。
破片は飛ばない。
だが石を厚くしすぎ、支えが硬くなった。
箱を左右へ揺らすと、楽器の首に力が集中する。
試験用の安い楽器が、付け根から折れた。
モリスの顔色が変わる。
「私の商品で試すなよ」
「試験品は工房で買います」
ルカが答えた。
「壊した分も原価へ入れるのか」
「入れます。売れる一箱だけを原価だと思えば、次の客に失敗代を隠すことになる」
「高くなるな」
「はい」
モリスは苦い顔をした。
それでも帰らなかった。
三号は、石を六か所だけへ入れた。
大きな揺れは革紐と薄いばね鋼で受ける。
石は、楽器が支え木へ触れた時の細かな震えだけを受ける。
黒い石を油布で包み、割れても外へ出ない木枠へ収める。
湿度を示す紙片を内側へ貼った。
乾いていれば青。
湿気を吸えば白。
箱を開けなくても、外の小窓から見える。
「紙が色を変えるのは魔晶石?」
俺が聞く。
「違う。塩と花の染料」
エヴァが答える。
「石より便利だな」
「石を使わない方がよい場所もあるの」
第十型を売るために、第十型を使わない部品を選ぶ。
俺には変な話に聞こえたが、箱はその方がうまくいった。
三号を港内の小船へ積んだ。
三日間、波止場と沖の倉庫を往復する。
一日目は晴れ。
二日目は雨。
湿度紙が白くなった。
箱を開けると、染料が内布へ移っていた。
楽器は無事だが、白い布へ青い染みがある。
「商品なら返品だ」
マルタが言った。
湿度紙を二重の透明膜へ入れる。
色は見え、布へ触れない。
四号。
船で三日。
荷役台から二十回。
雨の中で一晩。
楽器に亀裂なし。
石は六枚中一枚だけ、端に小さな欠け。
「合格だろ」
モリスが言う。
エヴァは首を横に振った。
「一箱、一回無事だった。それは安全の証明ではありません」
「季節風が変わる。二十箱を今月中に出したい」
「だから、二箱だけ出します」
マルタが試験輸送の契約案を出した。
四号箱を二つ。
代金は半額。
到着先で、外箱、湿度紙、石枠、楽器の状態を順に記録する。
残り十八箱は港へ置く。
二箱が無事なら、次の船へ。
壊れた場合は、箱代だけでなく楽器の仕入れ価格も補償する。
「利益がない」
モリスが言った。
「試験ですから」
「成功したら?」
「二十箱分を正規価格で。次の注文から、試験で壊した楽器代の一部も価格へ入ります」
「逃がさないな」
「嫌なら、二箱だけで終われます」
モリスは契約を三度読んだ。
「成功したら、海の向こうで独占販売したい」
「一年だけ。最低購入数は設けません。粗悪な模造箱が出た場合、こちらの検査員を入れる」
「商人より商人らしい」
「苦情受付です」
モリスは署名した。
俺たちは準備を進め、今日、試験箱を積んだ船が、朝霧の港を離れた。
見送りには六人だけでなく、採掘班のジョルジョも来た。
バッシ工房の若い職人。
返品窓口へ最初に模造板を持ってきた洗濯女。
火傷をした宿の娘からは、包帯の外れた手の写し絵が届いた。
船が見えなくなるまで、誰も波止場を離れなかった。
六か所の木枠には、割れた皿と試験楽器の代金まで入っている。
今度は、客の品物を壊さないために。
返事を待つ十二日間、工房は落ち着かなかった。
一日目、ニコは箱の設計図を三度直した。
もう出た箱には何もできない。
二日目、エヴァは低い揺れを再現する試験台を作り始めた。
三日目、俺は港の電報所へ二度行った。
「船はまだ着かない」と二度言われた。
五日目、嵐の知らせが入った。
航路の北で風が強い。
到着は二日遅れる。
「壊れるなら、どこだ」
俺が聞く。
ニコは石枠を指で叩いた。
「石枠」
エヴァは試験用の楽器を横へ寝かせる。
「楽器の首」
マルタは小窓の湿度紙を光へ透かした。
「湿度紙」
ルカだけは契約書を持ち上げた。
「契約」
「最後は物じゃないぞ」
「壊れた時、補償額で揉めます」
八日目、捜索班から短い電報が届いた。
――本人確認。生存。療養継続。帰港時期未定。
エミリア奥様を見つけた、とは書かれていない。
医療記録のような文だった。
それでも、俺たちは読み終えた後、しばらく仕事ができなかった。
俺は電報を空いた椅子へ置こうとした。
手を止め、壁へ貼った。
皆が見える場所。
「帰ってくるかな」
ニコが聞く。
「誰が?」
「二人とも」
「帰港時期未定とあります」
ルカは眼鏡を拭いた。
「待つ仕事が増えましたね」
十二日目の夕方、海の向こうから電報が来た。
紙を受け取ったマルタが、声を出さない。
俺が奪おうとする。
「破れる」
「なら読め」
マルタは一度、息を吸った。
「二箱、到着。外箱に擦過。楽器、亀裂なし。湿度紙、青。石一枚に端欠け、枠内保持」
工房が静まる。
一枚、欠けている。
だが破片は枠の中に残り、楽器には触れていない。
電報には続きがあった。
「十八箱を送れ。欠けた石は返送する。次便の検査に使え」
ニコが最初に笑った。
エヴァが机へ手をつく。
マルタは電報を握ったまま泣いた。
俺は歓声を上げた。
ルカは発送費を計算し始め、ブルーノに帳簿を閉じられた。
「今日くらい喜べ」
「喜びながらでも、船は待ちません」
それでもルカは、少し笑っていた。
十八箱を倉庫から出す。
一箱ごとに六人の検査印を押した。
木枠を作った六箱には、バッシ工房の小さな印もあった。
灰冠の下へ入って最初の正規品だった。
年長の職人は、印を押す前に何度も位置を測った。
ニコは印台の端を指した。
「端でいい」
「小さすぎないか」
「誰が作ったか読めればいい。ベランディより大きくするな、とは言わない」
職人は結局、灰冠より少し小さく押した。
まだ灰冠の横で、どれほど大きく名を出してよいのか測っている手つきだった。
出荷が終わると、マルタが酒を一瓶持ってきた。
ルカは反射的に帳簿へ手を伸ばす。
「利益が出る前です」
「私の給金で買いました」
「経費にする気は?」
「ありません」
「なら、飲みます」
紙杯は六つしかなかった。
バッシ工房の六人もいる。
一つの杯へ酒を少し注ぎ、二人ずつ回した。
ブルーノは飲む前に、若い職人へ聞いた。
「下へ入ったことを、祝えるか」
「まだ分からない」
「それでいい」
「逃げた一人の方が、正しかったかもしれない」
「それも、あとで分かる」
職人は杯を受け取り、一口だけ飲んだ。
若い職人は杯を次へ回した後も、灰冠の印を見ていた。
忠誠を誓う言葉は、誰も口にしなかった。
正規の十八箱を送ってから三週間後、二通目の電報が届いた。
-十七箱無傷。一箱、石枠二個破損。楽器無傷。交換希望。
全品無傷ではない。
それでも壊れた石は木枠の中へ残り、楽器には触れていなかった。
湿度紙は白。
船倉で一度、水をかぶったらしい。
「成功?」
若い職人が聞いた。
「壊れ方は成功」
エヴァが答えた。
「品物は交換」
ルカは交換用二個の代金を取らず、次の船便へ載せた。
運賃は開発費から出す。
モリスには、同じ水濡れ条件で追加試験をするまで、次の注文を十八箱に制限すると通知した。
売れる時に数を減らす。
海の向こうの商人は不満を書き送った。
その末尾に、さらに三十箱ほしいとも書いていた。
欠けた石は、次の便で港へ戻る。
壁には、エミリア奥様の生存を知らせる電報が貼られたままだった。
帰港時期未定。
その下へ、俺はモリスからの電報を並べて貼った。
――欠けた石は返送する。
空いた椅子の前で、試験台の音がまた鳴り始めた。
百八十七回目で止まらないか、俺は耳を澄ませた。
【用語紹介】
・第十型
黒い魔晶石を使った防振板。細かな揺れを弱い熱へ散らし、運ぶ荷への振動を減らす。
大きな衝撃は苦手で、革やばね鋼と組み合わせて使う。
石が割れることもあるため、交換と返送まで含めて扱う道具。
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