第60話 最初の回収命令
南倉庫から煙が上がったのは、雨の夜だった。
火事鐘は鳴らない。
倉庫番が、入口の手鐘を三度だけ鳴らした。
工房の緊急符丁。
商品事故。
俺が着いた時、火は消えていた。
壁の留め具から、細い煙がまだ出ている。
床には水。
濡れた木の匂いと、焼けた油布の匂い。
「火元は?」
倉庫番が、第六型圧力警報器を指した。
扉が開くと石の薄片が震え、離れた警報灯へ合図を送る。
二年間、毎晩使われていた。
「開けた時は何ともなかった。閉めた瞬間、壁が鳴った」
「警報が?」
「違う。蜂が箱へ入ったみたいな音だ」
銅線が激しく震え、留め具と擦れた。
周囲の木屑が焦げた。
倉庫番が臭いに気づかなければ、乾燥した麻袋へ燃え移っていた。
壁には指二本分の黒い跡。
怪我人はいない。
「壊れた一枚を替えれば済む」
倉庫主は濡れた寝間着の上へ外套を羽織っていた。
「明日、北から毛織物が入る。扉を閉められない方が危険だ」
俺は焦げた板を布で包んだ。
「朝まで、普通の鐘を付けろ」
「泥棒に聞こえる」
「聞こえない警報よりいい」
「ベランディへ用心棒代を払ってる」
「だから、危険な道具を外してる」
倉庫主は納得しなかった。
それでも俺が外す間、止めはしなかった。
工房へ持ち帰り、夜中に板を開いた。
圧力型石の中心へ、髪の毛ほどの亀裂が何本も走っている。
「一度の衝撃じゃない」
エヴァが拡大鏡を置いた。
「押されるたび、少しずつ伸びた。最後に圧力が抜けて、溜まった歪みが一度に出た」
「二年で壊れるのか」
ニコが製造札を見る。
「二年とは限らない。ここの扉は重い。日に何回開けた?」
「倉庫なら、三十回以上」
同じ第六型でも、教会の裏口なら一日二回。
食堂なら百回。
年月ではなく、荷重の回数で疲労する。
だが板は、自分で回数を数えない。
「この一枚だけかもしれない」
マルタが言った。
そうであってほしい顔ではなかった。
マルタの目は、もう次の勘定をしていた。
回収すれば、六百枚分の交換費が出る。
一枚の不良と、設計全体の問題を分けなければ、事業そのものが止まる。
同じ製造日の板を三枚、倉庫から外した。
試験台で扉と同じ圧力を繰り返す。
百回。
五百回。
千回。
夜が明ける。
二千三百回で、一枚目に亀裂。
三千回で二枚目。
三枚目は四千回を超えても割れない。
「ばらつきが大きすぎる」
エヴァの目の下に影がある。
「石の筋の太さで、耐える回数が違う。いまの検査は、最初に働くかしか見てない」
使い始めに動くことしか、検査していなかった。
二年後も安全かどうかは、誰も試していない。
ルカが販売台帳を持ってきた。
第六型、六百二十一枚。
港四百十二。
鉱山百三十七。
劇場街五十五。
所在地不明、十七。
「全部止める」
エヴァが言った。
「亀裂が何回で入るか分からない」
「交換品がありません」
ルカが答える。
「普通の鐘へ戻してもらう」
「鉱山の警報灯は、普通の鐘では届かない場所があります」
「だから使い続ける?」
「代わりを用意せず外せば、別の危険が増えると言っています」
会議室に地図を広げた。
港の倉庫。
山の坑道。
劇場の衣装庫。
病院の薬品棚。
同じ板でも、外した後に残る危険が違った。
「最優先は、火があれば人が逃げにくい場所」
ブルーノが指で印を付ける。
鉱山、病院、地下倉庫。
次に、開閉回数の多い食堂と荷捌き所。
教会や私邸はその後。
交換品ができるまで、鉱山には人を一人増やし、伝令線を二重にする。
病院には夜番を追加。
倉庫には真鍮鐘。
費用は、すべて工房が負担する。
「六百二十一枚。今季の利益が消えます」
ルカが数字を出した。
俺は帳簿の給金欄を覗く。
「給金は?」
「払えます。次の石の仕入れが一月遅れる」
「採掘班は?」
「試験買いは別枠です。そこは削らない」
安く仕入れた相手へ、こちらの失敗を押し返さない。
六人で票を取った。
最初はエヴァ。
次にニコ。
マルタ。
三人で止まる。
ルカは、地図と現金残高を見比べている。
ブルーノは、古い鐘を何個集められるか考えている。
俺は空いた椅子を見た。
「若頭なら、どうするかな」
ブルーノの杖が床を打った。
「いない男に票を入れさせるな」
「分かってる」
「なら、自分で決めろ」
俺は南倉庫の焦げ跡を思い出した。
臭いに気づいた倉庫番。
気づかなかった夜。
交換品がなく、警報を外した坑道。
どちらにも危険がある。
正しい方はない。
少なくとも、知っている危険を黙って売り続ける方だけは選べない。
「回収に賛成」
四本目の手を上げた。
ルカも上げる。
「優先順位と代替措置を、命令書に入れることを条件に」
ブルーノも上げた。
全会一致。
夜明け前、回収命令が出た。
走者を十六人。
荷車を六台。
港内は三日。
劇場街は四日。
鉱山は五日。
交換品ができるまで保守料を免除する。
使えない期間に追加した夜番の給金を補償する。
回収を拒む店には、危険を説明した書面を二人の証人とともに残す。
それでも使うと言う者から、無理に奪わない。
ただし、事故の責任を客だけへ移す署名は取らない。
危険を知らせた紙一枚で、売った責任まで客へ渡さない。
三日で五百九十四枚が戻った。
残り二十七。
所在地不明の十七枚のうち、九枚は転売されていた。
四日目の夕方、山道の宿から伝令が来た。
第六型が破裂。
壁が焦げた。
宿の娘が火傷。
回収使者は、半日前に麓を出ていた。
俺は交換品と補償金を持ち、その夜のうちに山へ向かった。
雨で道が泥になっている。
馬を二度替えた。
夜明け、宿へ着く。
娘は十二歳。
右手の甲へ、水ぶくれが三つあった。
深い火傷ではない。
リーナの指示書どおり、山の医師が冷やし、清潔な布を巻いている。
「字を書く手だ」
宿の主人が言った。
「痕が残ったら、どうする」
「治療費を払います。治るまで、うちの診療所でなくても」
「金の話じゃない」
「はい」
俺は頭を下げた。
「もっと早く、壊れると知れなかったのか」
「知れませんでした」
「もう安全なのか」
「まだ、そう言えません」
父親の顔が歪む。
安心させる言葉を欲しがっている。
俺も、渡したかった。
だが安全と言い切れば、次に壊れた時、娘の火傷へ嘘まで加わる。
「次の板には、使用回数の目安と交換日を付けます。壊れる前に戻す。
工房で耐久試験を続け、その結果は隠しません」
「この子が最初の試験だったのか」
「違うと言いたい。でも、売った後で知ったことは、この子が教えたのと同じです」
俺は、許してくれとは言わなかった。
娘が布団から手を上げた。
「鐘は、また付く?」
「古い鐘なら、今日付ける」
「新しいのは」
「もっと試してから」
「じゃあ、試す時に見せて」
父親が止めようとする。
俺は頷いた。
「見せる。でも、君に使わせない」
宿を出る時、最後の第六型を荷車へ積んだ。
港へ戻ると、俺は焦げた板を会議机へ置いた。
娘の火傷を写した診療票も、その横へ置く。
「回収命令は間違っていなかった」
エヴァが言った。
「でも、間に合わなかった」
ニコは焦げた板の留め具を握り直す。
「出すのが一日早ければ」
ルカは試験記録の最終行から指を動かさない。
「試験が終わっていない」
「一枚が焦げた時に全部止めていれば」
「一枚だけなら、設置不良の可能性もありました」
正しい反論が、誰の顔も楽にしない。
俺は残る五人を見た。
「父親に、もっと早く知れなかったのかと聞かれた」
「何と答えたの」
マルタの声は小さい。
「知れなかった、と」
「怒られた?」
「怒られた。金の話じゃないとも言われた」
ブルーノが焦げ跡へ指を当てる。
「それでいい」
「何が」
「怒る先が、ここにある」
昔なら、商品を作った職人か、取り付けた下働きの首を切って終わった。
今回は六人の署名で売るのを止め、六人の名で間に合わなかった。
「娘が、次の試験を見たいと言った」
俺は続けた。
「見せると約束した。ただし、使わせない」
ニコが頷く。
「試験台へ名前を付けよう」
マルタは診療票に書かれた娘の名へ掌を置く。
「本人の許可を取ってから」
「名前を付ければ忘れない」
「名前がないと忘れるなら、番号も一緒に覚えて」
娘の名は使わない。
試験記録の一行目へ、エヴァが書いた。
『使用者の手が触れる前に破損させること』
二十二日後、改良した第六型の公開試験を行った。
火傷をした娘と父親も来た。
娘の右手には、まだ薄い包帯がある。
「見せると言った」
俺は最前列へ椅子を置いた。
「使わせないとも言った」
娘は椅子へ座らず、試験台から二歩離れた場所に立った。
圧力板へ、規定の二倍まで力をかける。
警報灯が点く。
さらに押す。
内部の石が割れた。
旧型なら、熱が留め具へ集中する。
改良型では、薄い安全線が先に溶け、板が台座から外れた。
赤い布札が下へ落ちる。
熱は戻らない。
警報灯も消える。
壊れたことだけが、遠くから見える。
「消えたら危ないの?」
娘が聞く。
「灯りが消えて、赤い布が出たら触らない」
「前は、消えたから触った」
事故の時、警報灯が突然消えた。
父親は故障だと思い、娘に板を外させた。
使う者が誤解したのではない。
誤解できる壊れ方を、道具が残していた。
娘は長い木の棒で、外れた板を押した。
動かない。
「これなら、私が外していい?」
「大人を呼んで」
俺が答えた。
「また子供扱い」
「道具が良くなっても、そこは変えない」
父親は礼を言わなかった。
代わりに、回収票を出した。
「宿の六枚を、これと交換してくれ」
「代金は取りません」
「金の話じゃないと言った」
「だから、交換です」
ようやく、二人の言葉が同じ場所へ着いた。
六百二十二枚目の板には、交換日が刻まれた。
俺は、その日付を親指でなぞった。
娘の右手に巻かれていた包帯と、同じ白い塗料だった。
試験を見に来た娘は、用意された椅子へ座らなかった。
新しい板が壊れ、赤い布札が落ちる。
大人を呼ぶよう言われれば、まだ少し不満そう。
父親が差し出した回収票には、宿の六枚分。
--
評価、コメントはページ下部よりお気軽に。
作者の励みになります。




