第59.5話 壊すための金
試験台ができても、試験する石がなかった。
正確には、売れる石なら倉庫にある。
試験へ回せば、割れる。
割れなくても、三千回押した石を新品として客へ渡すことはできない。
一枚壊すたび、材料費と職人の一日が消える。
何も売らずに安全だけを買う金が、必要だった。
ルカは三冊の帳面を机へ置いた。
赤、青、黒。
色までは俺にも分かる。
中の数字は、開いた途端に逃げ始めた。
一冊目は、赤。
バッシ工房から引き受けた過去である。
材料屋へ百二十リラ。
家賃三か月分、三十六リラ。
作っていない注文の前金、六十二リラ。
未払い給金、四十八リラ。
模造板の返金見込み、七十九リラ。
合計、三百四十五リラ。
二冊目は、青。
これから壊す物の費用。
試験台の二号機。
石の筋を拡大して写す硝子。
塩水、防湿布、温度紙。
十五区分を確かめるための試料。
最初の見積もり、二百六十リラ。
三冊目は、黒だった。
共同工房の手元資金。
返品準備金を除けば、百九十三リラ。
「足りない」
俺が言った。
「見れば分かります」
「合計したのか」
「合計する前からです」
テオは頭を抱える。
赤を払えば、青が止まる。
青へ入れれば、黒から給金と返金が消える。
ブルーノは椅子へ深く座った。
「借りるしかない」
「誰から」
「貸したがる奴はいくらでもいる」
若頭の母親捜しは、港中が知っている。
ベランディの留守に金を貸し、帰った後の事業へ楔を打ちたい者も、当然いるだろう。
その日の午後だけで、三人の貸し手が来た。
最初は、王都の銀行支店。
年六分。
数字だけなら最も安い。
ただし、魔晶石の在庫すべてを担保にする。
返済が一度遅れれば、上質石も捨て石も、銀行が好きな相手へ売れる。
「石がなければ、何で返すんです」
ニコが聞いた。
銀行員は笑わなかった。
「だから、皆様は返済を優先なさるでしょう」
給金より、返品より、事故の補償より先に返せ。
銀行員は口にしなかったが、契約書はそう言っていた。
二人目は、港の金貸し。
年二割。
担保は不要。
代わりに、第八型と次の新製品を五年間、彼の店だけへ卸す。
値段を決めるのも、その店だった。
「高利より悪い」
マルタが契約書を閉じた。
「返し終えても、売る相手を五年取られる」
三人目は、アルベルト・オルシーニの会計代理だった。
現金三百リラ。
利息なし。
その代わり、開発した技術の優先使用権を劇場街へ二年間。
「一番ましだな」
俺が言う。
「父が娘へ貸す金だから?」
マルタが聞き返した。
「利息がないからだ」
「利息を、独占で払うのよ」
会計代理は、目を伏せた。
「オルシーニ様は、娘御を助けたいと」
「私を助けるなら、私が断った時に不機嫌にならないで」
「それは、契約書へ書けません」
「では、事業の条件にも入れないで」
代理人は反論しなかった。
マルタはすぐに断ったが、父親の心配まで偽物だとは言わなかった。
心配なら心配のまま、契約の外へ出したかったらしい。
三枚の契約を並べる。
どれも借りられる。
どれも、借りた後の技術を貸し手の物へ近づける。
「若頭がいれば、どれを選ぶ」
ニコが空いた椅子を見た。
「いない男へ借金を選ばせるな」
今度は、俺が先に言った。
「帰ってから叱られるぞ」
「留守を預かるってのは、叱られる場所まで残すことだろ」
ブルーノが鼻を鳴らした。
空いた椅子を見ても、返事を待たずに話を続けられるようにはなっていた。
ルカは白い紙を一枚出した。
「開発札を売ります」
一口、五リラ。
集める上限は二百リラ。
利益が出た年だけ、新製品の売上から分配する。
元金の返済は保証しない。
工房が潰れた時は、給金、返品、仕入れ代を払った後、残った分だけを返す。
「誰が、そんな紙を買う」
「第十型を欲しい商人。山の採掘班。劇場。それから、工房の職人」
「給金から買わせるのか」
「希望者だけです」
マルタが、申込書を裏返した。
「ベランディの工房で、ベランディが売る札を断れる?」
口では自由と言える。
だが班長が申込書を配れば、受け取らなかった顔だけが残る。
翌日、試しに職人六人へ説明した。
最も若い職人が、紙を受け取らなかった。
「買わないのか」
隣の職人が聞く。
「妹の薬代がある」
「五リラくらい、次の給金で」
その一言で、若い職人の顔が固くなった。
命令ではない。
それでも若い職人は、断るために妹の病気まで差し出した。
「ここでは売らない」
マルタは申込書を回収した。
「買いたい人もいます」
ルカが言う。
「なら、誰が買わなかったかを、私たちが知らない場所で売る」
申込みは、外の信用庫で受け付ける。
名簿は信用庫が封をし、工房へは口数だけ伝える。
班長も六人委員会も、個人の購入額を見られない。
一人二口まで。
借金して買うことは禁止。
開発札を担保に、ベランディから金を借りることもできない。
誰も、買わない理由を工房で言わなくてよくなった。
「売りたいのか、売りたくないのか分からんな」
ブルーノが言う。
「売った後で、買わせたと言われないためです」
最初の三日で、百六十五リラが集まった。
港の商人が十八口。
山の採掘班が六口。
劇場の楽団と舞台係が四口。
工房関係者の口数は、封をされていて分からない。
残りは三十五リラ。
俺は、自分の給金袋を机へ置いた。
「何口までだ」
「二口です」
十リラ。
昔なら豆と靴紐のどちらを取るかで悩んだ額だ。
今も軽い金ではない。だから置いた。
「残りは?」
「失敗した時、一人だけで取り返そうとしないための上限です」
ニコも二口。
エヴァも二口。
それでも足りない。
六人の金で穴を埋めれば、失敗した時に手を止めにくくなる。
危ないと分かっても、自分の給金を取り戻すために売りたくなる。
俺は給金袋へ手を伸ばしかけ、やめた。
十リラを戻したい気持ちと、今さら自分だけ逃げたくない気持ちが、同じ腕を引っ張った。
面倒な札だ。
「三家共同企業が買います」
マルタが言った。
オルシーニだけではない。
ベランディ、ロッシ、オルシーニの共同名義。
三十五リラ分を、港の商人と同じ条件で買う。
優先使用権はない。
議決権もない。
損をした時、娘へ返せと父親が言えないよう、三家の代表が同じ紙へ署名する。
オルシーニの代理人は、持ってきた契約を鞄へ戻した。
「父上は不満でしょうね」
「いま、娘はいませんよ」
「娘がいなくても、不満な父親は父親です」
マルタが言うと、代理人は少しだけ笑った。
二百リラが揃った日、ルカは赤、青、黒の帳面を同じ棚へ置いた。
鍵は一つにしなかった。
赤はバッシ工房。
青は技術班。
黒は会計室。
三人が揃わなければ、同じ日に全部は開けない。
誰か一人が数字を隠せば、ほかの二冊を開いた時にばれる。
開発札を買った者には、利益の約束より先に、月一度の試験記録が渡された。
最初の公開日。
魚屋の女主人が、百八十七回で折れた軸の絵を見た。
「失敗した物まで見せて、誰が安心するの」
「成功だけ見せて金を集めたら、札ではなく寄付になります」
ルカが答えた。
「寄付の何が悪い」
「返す責任が曖昧になります。これは、失う可能性を買った人の金です」
「私の五リラが、折れた棒になったって?」
「棒と、同じ折れ方をしない二号機になりました」
女主人は納得しなかった。
それでも、記録を持ち帰った。
次の月には、弟へ読ませた質問を紙へ書いてきた。
――試験を止める回数は、誰が決めるのか。
金を出した者が、技術へ口を出し始めた。
質問は月に一度、まとめて受けることにした。
設計を決めるのは技術班。
試験を止める時、金を足す時、売り出す時だけ、その理由を札の購入者へ知らせる。
二月目、青い帳面は見積もりを二十三リラ超えた。
室温を測らず、千八百回をやり直した費用だった。
黒い帳面から移せば、数字は埋まる。
だが黒には、模造板の返品へ払う金がある。
「二十三リラなら、来月の売上で戻せます」
ニコが言った。
「戻すまでに返品が来たら?」
ルカは黒い帳面を閉じた。
試験を三日止める。
十五区分のうち、危険性が高い五区分だけを先に続ける。
バッシ工房は、古い荷揚げばねを修理して港へ売り、九リラを青へ入れた。
劇場は、不要になったふいご二台を貸し出し、購入費を七リラ減らした。
山の採掘班は、試料の運賃を次の売上まで待った。
残りは通常品の利益が出るまで、技術班の支出を止めた。
試験は七日遅れた。
返金窓口では、一人も待たせなかった。
その月の終わり、三冊の残高はどれも減っていた。
赤はまだ重い。青は見積もりを越え、黒は返品の分だけ薄い。
魚屋の女主人から来た二つ目の質問を、ルカは青い帳面へ挟んだ。
――次に棒が折れた時、給金は出るのか。
ルカは黒い帳面を開き、翌週の給金袋を一つずつ数えた。
全部あった。
工房はまだ、一度も成功していない。
それでも明日は、また石を壊せる。
【用語紹介】
・開発札
試験や新製品の開発に使う資金を集める、一口五リラの札。
利益が出た年に分配を受けられるが、元金が戻る保証はない。
技術の優先使用権や議決権も付かない。
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