第57.5話 看板に残す名
バッシ工房の看板へ、小さな灰冠が打ちつけられた翌朝。
俺はニコと検査役に付き添い、朝から工房へ行った。
六人の職人は、いつもより早く仕事場へ来た。
誰も炉へ火を入れない。
親方だったバッシが、入口の鍵を持ったまま立っている。
「開けないのか」
年長の職人が聞いた。
「俺が開けていいのか分からん」
昨日まで、この工房はバッシの物だった。
今日からは、ベランディの下部工房である。
看板にはバッシの名が残り、契約書からは親方としての名が外れた。
鍵を回すだけのことなのに、バッシには自分が何者かまで決めるように見えたらしい。
「鍵は鍵だ。身分証じゃない」
ニコはそう言って、扉を開けさせた。
中へ入ると、別の問題が待っていた。
共同工房から来た検査役が、昨日作った板を全部、床へ戻していた。
留め具の幅が新しい基準より半指狭い。
使えないわけではない。
だが、海辺用の印は押せない。
「昨日までは、これで売ってた」
若い職人が言った。
「昨日まで売った物を回収してる」
検査役は答えた。
「じゃあ、今日の給金は誰が出す。作った十二枚を捨てたら、俺たちは働いてないことになるのか」
検査役は黙った。
板の合否は教えられる。
傘下へ入った職人の給金までは、決める権限がない。
昼前、六人委員会が工房へ集まった。
ルカは二種類の給金表を持ってきた。
共同工房では、日当のほかに合格枚数で手当が出る。
バッシ工房では、売れた代金から材料費を引き、残りを親方が分けていた。
売れない日は少ない。
だが、よく売れた月にも、親方の借金返済が先に引かれていた。
「同じにしますか」
ルカが聞く。
「安い方へ?」
職人の一人が言った。
「高い方へ合わせれば、共同工房の職人が、なぜ昨日入った者と同じだと言う」
どちらへ合わせても、誰かが損をする。
俺がそう言う前に、マルタは六人の手を見た。
指に焼け跡があり、爪の縁に灰青色の粉が入っている。
共同工房の職人と、汚れ方は変わらない。
「三か月だけ、別にする」
彼女は言った。
最低日当は、共同工房と同じ。
検査で落ちた板を作り直す時間にも払う。
その代わり、合格手当は三か月つけない。
旧式を覚え直す期間を、罰にも褒美にも数えない。
三か月後、双方の職人を二人ずつ交ぜた査定で同じ表へ移す。
「俺たちは、見習いか」
バッシが聞いた。
「親方ではなくなったあなたは、そうです」
マルタは声を弱めなかった。
バッシの頬が動いた。
六人の中で、バッシだけは何十年も命令する側だった。
降ろされた翌日に、十七の娘から教わる。俺なら三日は悪態をつく。
「なら、俺に教えるのは誰だ」
「十七の娘でも、あなたより正しく石を切れるなら、その娘です」
工房の奥で、一人が笑いかけた。
バッシが振り向くと、笑いは炉の音へ逃げた。
「笑わせておけ」
本人が言った。
「俺は、親方を降ろされたんだ。笑われもしない方が惨めだ」
その日、共同工房から来たのは、十六歳の検査見習いだった。
バッシは彼女から、石の筋へ刻みを入れる位置を教わった。
一度目は、手癖で古い位置へ刃を入れた。
二度目は、力を込めすぎて欠けさせた。
三度目で、筋に沿って二つへ割れた。
「合ってます」
少女は言った。
「親方に向かって、それだけか」
「いまは親方じゃないと聞きました」
バッシは刃を置き、しばらく少女を見た。
それから、腹の底で一度だけ笑った。
午後には、命令系統でも揉めた。
ニコは、港から急ぎの修理を三件持ち込んだ。
エヴァは、海辺用の板を全部止め、湿度試験を先にしろと言った。
ルカは、返金用の現金を作るため、売れる室内用を優先したかった。
三つとも正しい。
三つとも、同じ六人へ違う仕事を命じていた。
「傘が三本あるなら、濡れる場所を選ばせてくれ」
年長の職人が言った。
六人委員会は、仕事札を三色に分けた。
赤は、人命に関わる修理。
青は、試験と改良。
黒は、売上を作る通常品。
赤はニコ一人で優先できる。
青を一日以上止めるには、エヴァとルカの二人が署名する。
黒を半分以下へ減らす時は、翌週の給金見込みを職人へ見せる。
三色の札が炉の横へ掛かった。職人たちは命令した人間の顔ではなく、札の色へ文句を言えるようになった。
帳簿の数字は何度見ても逃げるが、色なら俺にも分かる。
赤なら先に走る。
青と黒が喧嘩したら、ルカを呼ぶ。
「若頭が帰ったら、全部ひっくり返らないか」
職人が聞いた。
俺は少し考えた。
「ひっくり返すなら、ここへ来て、お前らの前で理由を言わせる」
「言わせられるのか」
「帰ってきた奴に椅子があるとは限らん、と俺が言った」
「殺されるぞ」
「その時は、誰か椅子を拾ってくれ」
今度は、六人とも笑った。
笑いが消えた後、バッシだけが看板を見に外へ出た。
夕方の光で、灰冠の金具は黒く見えた。
「名を残してくれと頼んだ覚えはない」
後ろから来たニコへ言う。
俺は戸口の内側で、帰る時機を逃した。
「消すと言ったら、止めたか」
「分からん」
「残したら、借金も不良品も、お前の名で覚えられる」
「消したら、働いてきた連中まで、ベランディが最初から作った顔をする」
バッシは、看板の角を指でこすった。
煤は落ちても、古い刃傷は残った。
「俺の親父が彫った」
「聞いてない」
「言ってないからな」
父親は、荷車の車輪を作る職人だった。
港で魔晶石が使われ始める前、鉄の輪を焼き、木へはめていた。
バッシは十二で火箸を持ち、十五で父の指を一本潰した。
父は殴らなかった。
歪んだ輪を井戸へ投げて、もう一度やれと言った。
「あの時、失敗した輪を拾っておけばよかった」
「なぜ」
「今なら、どこが悪かったか見せられる」
バッシは、捨てた輪の話を長くした。
工房を失いかけて、残しておく失敗もあると気づいたのかもしれない。
ニコは翌朝、回収した模造板を一枚も焼かないよう命じた。
割れた物も、焦げた物も、客が怒って釘を打った物も、壁へ番号をつけて吊るした。
検査見習いが不具合を読み上げ、バッシの職人が原因を答える。
留め具。
防湿布。
石の筋。
圧力の偏り。
答えられない物には、空白の札をつけた。
バッシは最初の一枚を剥がしかけ、少女に手首をつかまれた。
「分からない物を、分かった顔で炉へ入れないで」
かつて親方だった男は手を離した。空白は翌朝も壁に残った。
三か月を待たず、二つの工房の職人は行き来し始めた。
共同工房の若者は、バッシの古いばねの巻き方を習った。
バッシの職人は、測定紙の読み方を覚えた。
行き来が始まった日に、取引をやめる者も来た。
港外れの家具職人だった。
十年以上、バッシ工房へ蝶番と留め金を頼んでいた。
「灰冠の品は、うちの棚へ置けない」
注文票を返し、前金の返却を求めた。
「品は同じだ」
バッシが言う。
「昨日より、検査も増えた」
「品の話じゃない。代金で揉めた時、俺が断れる相手かって話だ」
以前のバッシにも、借金を盾にされる怖さはあった。
それでも殴り込みを心配する相手ではなかった。
小さな灰冠は、信用だけでなく、断りにくさも看板へ足していた。
「前金は返す」
俺が言った。
「違約分も契約通り払う。今後の注文を断ったことで、運び屋にも材料屋にも話は回さない」
「それを信じろと?」
「信じなくていい。港の商人組合へ一筆預ける。仕事を妨げたら、そっちへ持っていけ」
家具職人は、返金を三度数えた。
帰り際、看板を見上げた。
「バッシ。お前の留め金が嫌いになったわけじゃない」
「分かってる」
「分かった顔をするな。腹を立てろ」
「立ててる。俺が残した借金にもな」
家具職人は何も言わず、金袋を懐へ入れた。
十年の客を一人失った。
その損は、吸収の費用として黒い帳面へ記された。
翌週には、傘下へ入らず町を出た職人が戻ってきた。
働きに戻ったのではない。
炉の裏へ置き忘れた、小さな鉋を取りに来ただけだった。
六人が仕事を止める。
「別の工房は見つかったか」
年長の職人が聞く。
「二軒断られた。灰冠を抜けた奴を雇えば、睨まれると思ってる」
笑う気が消えた。
命じなくても、名は先回りしていた。
「どの二軒だ」
「言ったら、お前らが行くだろ」
「行く。雇えと言いにじゃない。雇っても何もしないと言いにだ」
「同じ顔で言えば、もっと怖がる」
返す言葉がなかった。
マルタは商人組合の掲示板へ、離脱条項を貼り出した。
バッシ工房を辞めた者を雇い、取引し、住まわせたことを理由に、不利益を与えない。
違反した下部組織は、上納三月分を労働者基金へ払う。
文面の下へ、六人委員会全員が署名した。
「紙一枚で、怖くなくなるか」
去った職人が聞いた。
「ならない」
マルタは答えた。
「でも、怖がらせた時に、こちらから金を取れる紙にはなる」
職人は鉋を持って、もう一度出ていった。
三日後、港北の車輪工房へ雇われたと伝言が来た。
祝いは送らなかった。
監視していると思わせないためだった。
昼食はまだ別々だった。給金袋も別の窓口から受け取った。
ただ、共同工房の少女が帰り際、空白札の板を一枚持っていった。翌朝には原因を書いて返すという。
看板の下の灰冠は小さいまま、雨に濡れて黒ずんだ。
その上で、父親が彫ったバッシの名も、刃傷ごと残っていた。
父の彫った名には、刃傷が残っている。
看板の下に灰冠が付いても、昼食も給金の列も、すぐには一緒にならない。
帰り際に持ち出されたのは、原因の分からない板が一枚。明日の朝、また工房へ戻ってくる。
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