第57話 返す権利
返品窓口を開いた朝、俺は工房の屋根から列の終わりを探した。
見つからなかった。
下へ降りて数え直すと、工房の前に百人いた。
全員が不良品を持ってきたわけではない。
並んでいる理由も、顔つきも、ばらばらだった。
止めた理由を聞きたい者。
手元の板が危険か確かめたい者。
返金だけ先に受けたい者。
値下がりした板を買い集めようとする商人。
ベランディが失敗を認めるところを見物したい者。
列は市場の角まで続いた。
客の列の横に、第八型を作った職人が二十人並んでいた。
返す板は持っていない。
先頭の女職人が、ルカへ聞いた。
「七日分、いくら出るの」
ルカは、昨日から閉じていない帳簿を開いた。
「このままでは、三日分です」
「四日は食べるな?」
「仕事を変えます」
保守班へ回れる者は八人。
返品検査を手伝える者は五人。
「字が読めない」
一人が手を下ろしかける。
マルタがその手首をつかんだ。
「板の傷が分かるなら、隣で私が書きます」
残る七人には、防湿布の裁断と作業台の清掃を割り当てた。
不足分は役員報酬と販売手当から補う。
「若頭の報酬も、勝手に止めるのか」
俺が聞いた。
「都合の悪いところから報告します」
ルカはようやく帳簿を閉じた。
女職人は列から出なかった。
「次に商品を止める時は、給金も一緒に決めて」
エヴァが、彼女の前で停止票の裏へその一行を書いた。
二十人は、客の板を受け取る側へ回った。
「若頭はどこだ!」
三人目の客が叫ぶ。
「不在です」
マルタは同じ言葉を朝から八回言っていた。
「逃げたのか」
「母親を捜しています」
「母親と、俺の食堂の板と、どっちが大事だ」
「比べません。板の話は私が聞きます」
客は俺たちの顔を順番に見た。
責任者がいないと怒鳴るつもりだったのだろう。
マルタがいると言い返したので、目の前の女へ話すしかなくなった。
第八型を受け取る。
製造番号、購入日、使用場所、火に掛けた時間、乾燥布の交換回数。
一枚ずつ聞く。
返品票は三種類にした。
全額返金。
改良品への交換。
検査後に返却。
客が選ぶ。
漁師は三枚の票を見比べた。
「どれが得だ」
「すぐ金が要るなら返金。板が必要なら交換。いまの板を使い続けたいなら検査です」
「どれを選ばせたい」
「こちらは交換が一番安いです」
マルタは隠さなかった。
「だから、あなたにとっても得とは限りません」
漁師は検査を選んだ。
自分で選んだ顔だった。
十人目で、模造品が出た。
外見は第八型。
灰青色の縁取り。
裏に、ベランディの製造印がない。
「北市場で買った」
洗濯女が言う。
「うちの商品ではありません」
「同じ石だろ」
「返品は受けられません。ただ、危険がないかは無料で見ます」
ニコが板を開いた。
中から灰青色の粉がこぼれる。
魔晶石を細かく砕き、漆喰で固めてある。
筋の向きは失われ、隣の粒が戻した熱を、次の粒が外へ逃がす。
保温板ではない。
石の入った重い壁だった。
「売った店へ返せますか」
マルタが聞く。
「店主は、ベランディの品だと言った」
「領収書は?」
「ない」
「証人は」
列の後ろから、三人が手を上げた。
同じ店で買っている。
マルタは店の名を記録した。
「返金を命じるの?」
洗濯女が聞く。
「まず、店主に確認します」
「逃げたら」
「模造品と知らず仕入れたなら仕入れ先へ。知って売ったなら、信用札を持つ店から外します。
金がなければ、商品を差し押さえて返金へ回す」
「殴らないの」
「先に帳簿を見ます」
列で笑いが起きた。
その日の昼、笑い話では済まない相手が来た。
北市場のバッシ工房。
親方と若い職人二人。
親方は、開いた上着の内側へ刃物を見せていた。
「親切なふりをするな」
模造板をマルタの机へ叩きつける。
「返品なんぞ認めたら、客が味をしめる。
少し冷えただけで金を寄越せと言い出す。
職人を食えなくする気か」
「この板を、ベランディ製として売りましたか」
「灰青石の板だと言った」
「客は、うちの製品だと聞いたと」
「客が勝手に思った」
言葉の逃げ道を作っている。
刃物より慣れた武器だった。
俺は柱の陰に立った。
一歩で親方の右腕へ届く。
ブルーノは列の外側。
客を逃がす道を空けている。
マルタの右手は、机の下で開いたまま。
まだ動くな、の合図。
「あなたの工房の板も、こちらで試験します」
「誰が頼んだ」
「客が返せる印を使いたいなら、です」
マルタは四角の中に折れた一本線を描いた札を出した。
共同返品印。
ベランディの紋章ではない。
基準を満たした工房なら、所属に関係なく使える。
不具合があれば購入店、共同工房、鉱山町、港の組合窓口のどこへでも返せる。
売った店が潰れても、共同準備金から先に客へ払う。
後で、製造者同士が原因に応じて負担する。
「敵に印を渡すのか」
「客に権利を渡すんです」
「そんなものが広まれば、安く作る工房は潰れる」
「安く作る工房ではなく、危険を隠す工房が潰れます」
「同じだ!」
親方が刃物を抜いた。
列が揺れる。
母親が子供を抱いて下がる。
マルタの右手が握られた。
俺が踏み出すより先に、ブルーノの杖が親方の手の甲を打った。
一度。
刃物が落ちる。
俺は刃物を蹴り飛ばし、親方の腕を背中へ回した。
若い職人二人は動かなかった。
動けなかったのではない。
親方を助けようとしなかった。
「警吏へ渡す」
ブルーノが言った。
親方が呻く。
「工房ごと潰す気か」
「お前を警吏へ渡すと言った。工房の話はしていない」
「俺が工房だ!」
若い職人の一人が、わずかに顔を上げた。
ブルーノはそれを見た。
「違うらしいぞ」
親方を連れ出した後も、列はなくならなかった。
俺はマルタへ聞いた。
「閉めるか」
「なぜ」
「刃物が出た」
「だから、待っている人を帰すの?」
「次も出るかもしれない」
「次は、もっと早く合図します」
マルタの声は震えていた。
俺の右足も、まだ親方を追う方へ向いていた。
だがマルタは震えた手で、次の客の板を受け取った。
俺も柱の陰へ戻った。
夕方、バッシ工房の若い二人が戻ってきた。
親方抜きで、検査を受けたいと言う。
「工房の名は残せますか」
年長の職人が聞いた。
「独立工房として、共同印を使いたいという意味ですか」
マルタが確かめる。
二人は頷いた。
ニコは、すぐ基準の話をしなかった。
「借金は」
「材料屋に百二十リラ。家賃が三月。親方が取った前金もある」
「前金の品は?」
「作ってない」
工房の帳簿を持ってこさせた。
売上は親方個人の賭け金へ流れ、職人の給金は二月遅れている。
模造板を買った客への返金も必要だ。
共同印だけを渡せば、新しい印で古い穴を隠すことになる。
「独立のままでは認めない」
ブルーノが言った。
二人の顔が強張る。
「親方の罪で、俺たちまで潰すのか」
「逆だ。工房ごと、ベランディの下へ入れ」
提携ではない。
審査を通った工房として認めるのでもない。
下部組織として吸収するという意味だった。
話が紙になると、俺には途中から順番が曖昧になる。
それでも、少しづつ慣れてきて、最近はわかるようになってきた。
設備と借金を査定する。
未納給金と客への返金をベランディが先に立て替える。
工房の売上から、材料費、給金、返済を引き、残りの一割を上納させる。
製造方法と価格は工房内で提案できる。
だが魔晶石製品の出荷停止、回収、対外契約は共同工房の命令へ従う。
武器を持つ者は登録。
帳簿は毎月、ルカの会計室へ写しを出す。
名称は『バッシ工房』のまま残す。
入口の看板の下へ、小さな灰冠を付ける。
「断ったら」
若い職人が聞いた。
「模造板の賠償を、今の工房で払う。共同印は使えない。
ベランディの仕入れ先から魔晶石は買えない」
「それで独立を選べると思ってるのか」
「思っていない」
ブルーノは否定しなかった。
「うちには、材料も返金窓口も警備もある。お前たちには借金と工房がある。力は同じではない」
「なら、選ばせるふりをするな」
「だから、下へ入れと言っている」
助ける代わりに、技術と売上と職人を灰冠の下へ入れる。
救うと言えば聞こえはいい。
だが、力のある側が条件を決める話だ。それくらいは俺にも分かった。
二人は、すぐ答えなかった。
「若頭は、この話を知ってるのか」
ルカは契約書から顔を上げた。
「いません」
「いない時に、家を増やす?」
「六人のうち四人が賛成すれば、事業を守る判断はできます。
ただし、帰還後に契約を公開し、破棄する場合の条件も先に書きます」
「若頭が嫌だと言ったら、俺たちはまた外か」
「その場合、立替金は返済不要。設備はあなた方へ戻す。
ベランディが吸収を取り消す側として違約金を払います」
ルカは、入る側だけを縛る紙にはしなかった。
二人は工房へ戻り、残った職人全員へ条件を読んだ。
翌朝、七人が来た。
一人は入らないと言い、工具箱を持って別の町へ出た。
六人が残った。
血判は押させない。
代わりに、未納給金の額、工房の借金、親方が受け取った前金、上納率、離脱条件を一人ずつ読ませた。
字の読めない職人には、マルタが読み上げる。
「上納を三月払えなければ?」
「帳簿を調べます。隠したなら責任者を外す。売れなかったなら支払いを延ばす」
「親方みたいに、工房ごと自分だと言ったら?」
ニコが答えた。
「工房は、残った全員だ。だから責任者は、六人のうち四人以上の票で決める」
二人や三人だけの都合では選べない。
全員一致を待って、決定を止めることもない。
最初の責任者は、年長の職人になった。
灰冠の下部へ入った最初の仕事は、ベランディ製品ではなかった。
自分たちが売った模造板を、客の家から回収することだった。
「入ったばかりで、謝りに行くのか」
「入ったから、行く」
俺が同行した。
灰冠の名があれば、店主は扉を開ける。
同じ名が、謝罪を脅しに変える危険もある。
俺は路地の入口へ残り、職人たちだけで客へ説明させた。
返金の袋には、ベランディとバッシ、二つの印を押した。
俺たちが金を出したからといって、職人が謝ったことまで消してはいけない。
たぶん、そういう意味の二つの印だった。
回収が終わってから、ニコは粉を捨てさせ、石を割るところから教えた。
筋の向きを光へ透かす。
切る前に、上側へ小さな刻みを入れる。
銅板へ挟む。
海辺用には油引きの布を二重にする。
一枚目は、熱が左へ逃げた。
二枚目は、留め具が強すぎて石に亀裂が入った。
三枚目で、試験鍋の湯が二時間温かさを保った。
「合格?」
若い職人が聞く。
「まだ」
エヴァが塩水の皿を出した。
湿度試験に三日。
加熱と冷却を五十回。
さらに、別の職人が一枚を分解して確認する。
「売るまでに、そんなに壊すのか」
「壊す板を選ばないと、客の家で壊れる」
三日後、バッシ工房の四枚目が基準を満たした。
共同返品印は、独立工房への仮許可ではなく、下部工房としての最初の出荷印になった。
親方の名は登録から外した。
工房の名と、残った職人の仕事は残した。
看板の下へ付いた灰冠は、小さかった。
それでも市場の者は見た。
ベランディ家が、失敗した工房を潰さず、自由のままにもせず、借金と責任ごと傘の下へ入れた印だった。
最初の一週間で、二百八十一枚が戻った。現金は減り、苦情票を束ねる紐が二度切れた。
八日目の朝、列の先頭にいたのは、板を斧で割りかけた男だった。
刃の跡が中央まで入っている。
「途中で、こっちへ持ってこいって女房に言われた」
マルタは傷を指で確かめ、返品票を差し出した。
男は斧ではなく、ペンを取った。
【用語紹介】
・共同返品印
四角の中に、折れた一本線を描いた印。
不具合のある品を、購入店以外の共同窓口にも返せる目印。売った店が潰れた場合は、共同準備金から先に返金する。
灰冠の紋章とは別の、客が使うための印。
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